十六夜、夢は十五夜、リアルに見上げた空には月ひとつ。
足音響く廊下、逢魔が時は夕食の時間でもある。温もりの香り立つ中、ざわめく中を早足で抜き、外に出る。駐車場を駆けた。アスファルトから立ち昇る、昼の熱気はもう無い。
秋が来ていた。今宵は十五夜。
新しいパジャマと下着を、近くの店で慌てて選び買い求める。薄鼠色の小花を散らした、淡い藤色のそれを選んだ。店員が白いシーツと布団カバーも必要ですよ、そう教えてくれる。それも買う。
そして戻る。早めに用意をしなかったのは、怖かったから。時を早める呪な気がしたのだ。
最後の身支度を済ませますので、廊下でお待ちください。そう言われ座って待っていると、黒いスーツにアタッシュケースを手にした彼に、この度は、とひそりと声をかけられる。
ああ……、そういえば頼れる身内は近くに無く、夫婦二人だった暮らし。お互い、いざという時に困らぬ様に、ここの互助会に入ってたっけ……、誰が知らせたのかは、分からないが、冥府の使いの様なタイミングで現れた。
手渡された名刺には、薄っすらと桔梗の花の透かしが入っている。神妙なる顔の彼に、先ずは自宅に戻り、翌日との旨を伝える。車の手配を行う、それと会場の一室も押さえる。
後はご自宅にて。そう言うと彼は仕事に向かう。私は独り廊下に座り、明るい蛍光灯の光満ちる場に夜の時が忍び寄る空気の中、君を待つ。その間に社に連絡をした。しばらく休むと伝える。
奥様が!社長!どうして、もっと早くいわないのですか!
そう怒鳴られてしまった。直に彼等がすっ飛んで来るだろうが、静かに送りたいからと、追い返すつもりではある。
妻を連れて帰った。とりあえず一番広い、リビングダイニングの応接セットを片して、出来るだけスペースを作る。布団を運び場を拵える。若い葬儀屋の彼と、追い返しても残った社員達が、ソファーをどけ、テーブルを壁に立て掛け、細々とよく動いてくれる。女性社員が手慣れた様子でお茶を淹れている。
白い帷子を着せるのが常なのだが、最後の時はコレを着せてと言われていた、彼女の衣装箪笥から桜の小紋を取り出し、葬儀屋に手渡す。看護師さんの手により紅引かれた彼女。ハムスターの様に、頬に綿を沢山詰められたので、ふっくらとして見える。
テキパキとこちらの要望に応えた後、明日の祭壇やら坊主の手配をする彼。直ぐに枕経を上げに来ますから……、カーペットの上に座る私達。四角い無生地の盆の上には、枕花の白菊いち輪。蝋燭が朱色にゆらり。それと線香がすうと微かな青煙を昇らす。
親族にご連絡を、そう言われたのだが、遠方と言う事もあり、全てが終わってから葉書を出すことに決める。それにしても……多忙だ。バタバタと慌ただしい事この上ない。書類の手続き、遺影の準備。手伝うと残った皆がよく動いてくれた。
やがて経を上げに坊主が来た。
皆が帰り妻と二人の夜が来る。
田舎で育った事もあり、故人が出たばかりの家は、夜になると何処もかしこも、家中こうこうと灯りをつけていた。それであそこの家かと思ったものだ。見送った玄関先でふと思い出し、灯りをつけて回ろうかと思ったが、都会のマンションの事もあり、遮光カーテンを開け放つ気もなれずやめた。
下ろしたての白い布団カバーが掛けられた掛け布団の上に、軽く沈んで置かれた錦の袋の護刀。
俗世にある限り、魂は出入りはできるが、一筋糸を引き身体と繋がっていると聞く。葬儀は読経や聖歌、祝詞により冥界の門を開け、その緖を断ち切り、これこれこういう者の魂をそっちに送るのでよろしく。という儀式だと思っている。
ソレが出ぬ様に置かれている刀がひとふり。寿命終えた身体には『鬼』が入り込むと聞いたことがある。残っている魂は喰われて『怨霊』になるとも。田舎では使い込まれたナタを置いていた気がする。
チッチッチッ……、規則正しい秒針の音。何する訳でもなく、テレビをつける気にもなれず、ぼんやりと座っていたのだが、妻は腹減らぬ身体になっているのだが、生者の私は腹が減る。かと言ってコンビニ迄行くのも……
彼女を独りにしたくない。
よかったらどうぞ。その声と紙袋を思い出す。社員の一人がおいて帰ったそれには、お茶のペットボトルと、コンビニのおにぎりと菓子パン。とりあえずありがたく頂く事にした。
線香を立てて、フィルムを剥がしおにぎりを喰む。
パリ、もぐもぐ。はむ、もぐもぐ。
食べながらふと、憐れに思う。
刀が重そうだ。痩せてしまった為に布団の膨らみは薄い。多分……、迷信。鬼など居るはずが無い、夜もネオン明るい都会。魑魅魍魎達が潜む闇も陰も色が薄い。どうってこと無いだろう……。錦の袋のそれをひょいと取り上げ退けてみた。
チッ、チッ、チッ……時計の音。ペアガラスになっているからか、高層の此処には、窓を開けない限り地上の音は聞こえない。
静かな時が深々と進む。
ビール位冷蔵庫になかったか?ツマミになりそうな菓子くらいあるだろう、供えるのもいいな、と言う大義名分の元、呑みたくなったので、慣れぬ正座をしたために、膝をミシミシ言わせながら立ち上がると、キッチンへ行く。盆の上にグラスを2つ。豆菓子があったので袋のまま運ぶ。
おい、寝ぼけてるのだな。立ち尽くす。
戻ればなんと妻がきちんと正座をし、待っていたのだ。しまった!何か入ってしまったのか!刀を外した事を後悔する。が……空虚な感覚に襲われる。
そうだ夢に違いない。このふわふわとした脳がジンジン痺れる、面白くも妖しい感覚は……、
そうか、これは夢、子供の時からリアルなそれを見る私、その時と似ている。そして大抵、見る夢は何やらオカルトチックなのだ。
夢ならドンと来い、私は布団の上に桜の小紋を左前に着、背筋を伸ばし待つ彼女に呑むか?と聞く。頷く妻。ビールを注ぎ手渡す。乾杯は……、しない様子だ。無言でそれに口をつけていた。
カリカリ、ポリポリ、豆噛む音は私だけ。
正座も何だし……あぐらをかく。奇妙奇天烈な空間だ。生前、『宝塚』にハマった彼女。勿論ベルサイユのアレ。なのでリビングと彼女の寝室は、それに統一されている。
何処ぞの宮殿か?なシャンデリア下がるリビング、花模様のカーペットの上には、客人用の和布団、その上に座る着物姿の彼女。部屋は白を基調とした金いろと、薔薇と猫脚家具の世界……。
カリカリ。カリカリ。ゴクンゴクン……。
音立てるのは私だけだ。妻は静かに座ってる。
まじまじと見ていて、ゾクリと怖くなる。当然なのだが……、息をしていないので、何処もかしこも、自然に柔に動くことが皆無。置物が置いてある様に座ってる事に気がついたからだ。
怖いと思いつつ、それに喰われたいという気持ちが頭を上げる。しずかに二人で呑んで過ごす最後の夜の夢。ヒリヒリと熱く、チキチキとヒビ入るような部屋の空気。
それに耐えきれなくなり立ち上がる。
どっかから取り寄せたのよと、目を輝かせて話した、お気に入りのカーテンをシャッ!出来るだけ速く!空気を切るような音立て開ける。窓も開けたかったのだがやめた。
よくある陳腐な小説の様に、現世の風に当たると塵になる。そんな展開を考えたからだ。しかし鍵は開けている浅ましさ。襲って来られたら……後ろ手で開けようと、生きる者の本能が勝手に決めている。なぜだろう、愛しい彼女になら喰われてもいいのに。
得体の知れぬ存在が、知らぬ内に忍び込んだかの様。
時と角度が合う。月光が差込む。
光が部屋に入る。振り返る。
ふぉぉ!何たる夢なのだろう!彼奴が、ここにいる!若い頃に妻の恋人だった男。私との縁組により、仲を割かれて絶望をし、さっさと独り逝った不甲斐ない男がここにいる!そして妻に言い寄っている!
迎えに来たよと彼奴は、若い姿でそう言っている様子。声は聴こえぬが何故かわかった!そして嬉しそうに頷く妻も、若くなってる!どういう事だ?
夢なら覚めてくれ!夢なら!取られてたまるか!岡惚れをしていた。だから成り上がり金に物言わせ、妻を手に入れたのだ。貧乏なお前に、彼女は相応しく無いだろう!夢に記憶が入り込みリアルになる。
私は窓を開ける事はなく、何故かキッチンに向かった。途中ビールを蹴飛ばし、少し残ってた酒を撒き散らした。菓子の袋をバリと踏みつけた。そして手に塩をひとつかみ!握り取ると戻りざまに、
これでも喰らえ!と男に向かって投げつけた!
リリリ、ピピピピ!リリリン、ピピピピ!
呼び出し音。ああ、全ては夢か。やっぱりな、死人が生き返る事はない。ましてや数十年も前の男もな。それに出ると葬儀屋の彼の声。おはようございます。今からお伺い致しますとの声。ぼんやりと目覚めつつ片付けなければ、と起き上がる。
辺りに目をやると、寝てる間に蹴飛ばしたのか、空の缶が転がっている。盆の上にはくしゃくしゃな菓子の袋。床に転がる刀を拾い、帰ってきた時のままに眠る、彼女の上にやんわりと、ぽすんと置く。
先にシャワーを浴び、頭をはっきりとさせる事にした。それから朝食。それなりに動く一日になりそうな予感がしていたから。先ずはコーヒーを入れ、残していた菓子パンを食べる。キッチンのテーブル席で。
香ばしい香りの湯気立つそれを飲む。次第にリアル。夢の中でパチパチと目を開けていた時が合ったのか、視覚的には実感もあり、音や触感的には曖昧模糊である。
葬儀屋が来るまでに、棺に入れる物を用意しなくてはならない。菓子などは夜迄に買えばいい。病院に入る前にもしもの時にはコレを、そう言っていた風呂敷包を取りに部屋へと向かう。
白い部屋の白い机の上に、布で包まれた箱。中身は他愛のない観劇のパンフレットやらチケットの切れ端、アルバム。葉書が数枚にブルーのパッケージのタバコがひと箱。
……、中身を見て忌々しく思ったものだ。私はタバコは嫌いだ。彼奴は、ヘビースモーカーだったがな。アルバム等広げて見る気にはならなかった。だが最後だ。私は封を解き、アルバムとタバコを取り出す。
パラパラとめくるも、そこに貼ってあるのは子供の頃の写真、友人との旅行、好きなブロマイド……、ホッとした。私との結婚写真も、旅行先のフォトも丁寧に貼られていたのを見つけたから。
写真の中の妻は年代を重ねるに連れ、より美しく、穏やかに幸せそうに微笑んでいた。心に掛かった、一枚を抜き取る。後で洒落たスタンドを買って入れようと思う。
そして私は、一枚だけ最後に隠すようにあった古いソレを抜き取ると、タバコと共にクシャと丸めてゴミ箱へと捨てた。忌々しい写真など、わざわざ荼毘に伏す気はない。
昨日は十五夜。今宵は十六夜。
私は知っていた。生前、共に見上げた月、私は妻を想い、妻は好いていた男を想い顔を向けていた事に。それでも良かった。月を眺める彼女は、儚くとても美しかったから。
通夜の夜、大勢の列席者が去った後、私は独りで夜空を眺めるだろう。田舎と違い薄い濃度の都会の夜空に、冴えざえとした十六夜の月。やってきた事に後悔は無い。どんな手を使ってでも彼女が欲しかった。私の手で幸せにしたかった。
好いた男と貧乏でも手を取合い暮らす、そんな小さな夢を諦め、妻として何不自由無く贅沢に暮らす事に、最初は硬い顔をしていたが、次第に解けて柔らな笑顔を向けてくれ、世間ではおしどり夫婦と評された。
心の奥底では嫌っていただろうと思う。それが証拠に子は成せなかった。それでも良かった。仕事に励み、空いた時間に、二人で旅行に行き、芝居に行き。静かな暮らし。これも一つの生き方。そんなものだろ、所詮現実は……。
ピンポーン。
遠慮がちにインターホン。葬儀屋が来た。社員の声も聴こえた。荷物を手に部屋を後にする。薔薇の香りが薄く籠もっている。ゴミ箱には、くしゃくしゃなタバコと写真。妻の部屋に捨てたのだから満足しろ。
私の慈悲を向けるのは妻だけ。唯一無二の存在。だから彼女の秘められた熱い情熱に免じて、少しだけ施してやる。
その部屋は私が世を去るまで、何もかも、ゴミ箱の中すら、きっとそのままになるのだから。残り香に包まれとっとと成仏しろ。
終。
怖い夢を見たのです。生き返る……。ふぉぉ……何時もながらリアルな夢でしたよ。その中では、私は陰陽師してました。