Lucid dreaming -明晰夢-
また同じ夢だ。また、あのおかしな夢。内容はなんてことない、ただの夢。どこかのビルの階段を、僕は何かを追いかけて登っていた。
屋上に着いてドアを開けると、外は夜だ。しかし、そこには何も無く、そこで目が覚める。
今日で3回目だ、この夢を見るのは。内容はいつも同じでなんてことはない。
ただ、妙にリアルだ。匂いや音、風が頬にあたる感触、心臓の動悸、そのどれもが現実的なのだ。
同じ夢を何度も見ていることもそうだが、何より、本当にそこにいるかのようなリアルさが引っかかっていた。
「起きなさい!遅刻するわよ!」
いつものように朝の静けさを破る母の声が階下から聞こえる。僕は学校の準備をして下の階に降りた。
朝食を食べながら母に夢の話をしてみた。
「最近変な夢を見るんだ。何かを追いかけてるんだけど、何かはわからないんだ。3回くらい同じ夢を見てて、不思議なんだよ。」
「夢占いね。母さん、占い系は好きよ。ちょっと待って。たしかそれは、なにか目標を追いかけてるっていう意味だったかしら。ま、学生にはありがちな夢ね。早く食べちゃって、片付けるから。」
想像はしていた。やはり真剣には聞いていない。
僕はこの夢の話をして何を期待していたのだろう。この夢が僕に与える不思議な感覚は、もはや夢占いみたいな簡単な話ではないような気がしていた。
昼休み。
僕たちはいつものように屋上で弁当を食べていた。
「最近おもしろいことねえの?」
これも毎日のように聞いてくるセイヤの決まり文句だ。
「最近変な夢を見るんだよ。」
「ふーん。どんな?」
僕は、性懲りもなく、あの夢の話をしていた。
ただ、毎日同じ日々の繰り返しで、話のネタが尽きていた頃に、夢の話だとしても話題としては十分だった。
僕は、夢の内容と不定期で同じ夢を見ていること、夢の中でのリアルな感覚を説明した。
「なんだよ、それ。内容無さすぎだろ。聞いて損した。」
「悪かったな。」
聞いてきたのはお前だろ。という言葉は口に出さずに飲み込んだ。
しかし、セイヤが言っていることは正しい。
内容が無さすぎるのは否めないし、夢の中の感覚が他人に伝わるはずもない。まして自分自身の中でさえ、この感覚は、日常にポツンと浮かんできた些細な違和感でしかなかった。
「それより、今度ウチのクラスに来る転校生ってどんな子なんだろうな。可愛かったらいいな。」
担任が転校生について口を滑らせたのが一週間前。
それからというもの、セイヤが口にする二言目にはこれだ。そして、僕の夢の話はないがしろにされ、いつもの会話へと戻っていった。
まただ。またあの夢だ。内容もいつもと変わらない。ビルの階段を駆け上がっている。何かを必死に追いかけている。
不安?悲しい?この感情は何なんだ。言葉では言い表せない感情が、心の中でモヤモヤしている。
息を切らしながら、屋上に着き、ドアを開く。
頬に当たる夜風が冷たい。さっきまで降っていたのだろうか。雨特有の、割と好きな匂いがする。
そして、いつもと同じく、ドアの先には何も無い。
ドンッ!
僕は飛び起きた。今の大きな音はなんだ。
今までには無かった音だ。
いや、違う。今までにもあった気がする。
そうだ。聞き覚えは確実にある。
今までは小さくて気づかなかっただけで、絶対に何度も耳にしている。
いずれにしろ、いつもとは違う夢の展開に、一人、パニックに陥っていた。
学校の準備を適当に済ませ、一応、母に確認してみる。
「さっき大きい音で起きたんだけど、なんか落としたり叩いたりした?」
「してないわよ。目が覚めるくらいの大きな音も聞いてないわ。寝ぼけてたんじゃないの。」
やはり現実じゃなく夢の中で聞いた音のようだ。今まで不思議な感覚だった夢だが、いよいよ不気味さを感じていた。
「はい。じゃあ、今日からクラスの一員になる転入生を紹介します。入って!」
教室では、一週間前からクラス中がその話で持ちきりになっていた転校生が、満を持して登場していた。
しかし、僕の頭は今朝の夢のことでいっぱいだった。
何かを落とした音か、何かがぶつかった音か。鈍い音だったのは確かだが、いまだにあの音の真相は掴めていない。
「マサキ。おい、マサキ!聞いてんのか!」
「ああ、すまん。なんの話だっけ?」
僕たちはいつもの屋上にいた。
セイヤには、まだあの音の話はしていなかった。
夢に対して不気味さを感じてはいたものの、他人に説明するには情報が少なすぎる。それに、また勝手に期待され、勝手に失望されるのがオチだろう。
「転校生の話だよ。確かに美人だけど、愛想が無いよな。みんなへの一言聞かれて『特にありません。』だぜ。」
「緊張してただけだろ。」
「いや、女子は愛嬌がなきゃな。クラスのマドンナ、マホちゃんを見てみろ。いつでも笑顔を忘れない素敵な子だよ。」
「ああいう子ほど裏の顔はわからないもんだぞ。」
「そんなもんねえよ。へー、レイちゃんだったっけ、転校生。お前はああいうのがタイプだったのか。じーっと見つめてたもんな。」
「ちげえよ。考え事してたんだよ。」
「照れんなって。ミステリアス系がタイプなのね。」
「うるせえ。」
反射的に否定はしていたが、気になっていたのは事実だ。あのとき、ボーッと夢のことを考えながらも彼女を見つめてしまっていたのかもしれない。
ただ、恋愛感情などではなく、単純にどこか気になっていただけだった。
そして、今日も。いつもの夢を見ていた。いつもの簡素な階段を汗をかきながら、必死に駆け上がっている。
昨日のあの音は一体なんだったんだろう。ここまで来ると音の正体を確かめずにはいられなかった。
屋上に着き、ドアを開いたそのとき。またもいつもとは違う展開が待っていた。
ドアを開き、外の様子が見えると、屋上の端から何かが消えていくのが、一瞬だけ見えた。
それは確かに人だった。
白い服を着た女性。女の人が飛び降りた瞬間だった。
ドンッ。あの音は、一番想像したくなかったもののようだ。
そこで目が覚めた。
僕は、泣いていた。悲しかった。
夢の中でも汗と一緒に涙も流していたようだ。僕とあの女性には何か関係があるのか。
出来ることならもうこんな夢は見たくない。
夢の話とは思いつつも何か意味があるような気がしていたが、胸が苦しくなる内容を僕は受け止めきれずにいた。
しかし、僕の気持ちとは関係なく、次の日も、また次の日も夢の中で女性が飛び降りるのを繰り返し見ていた。
後ろ姿だけで顔はわからない。長い髪の細身の女性。
知り合いかどうかもわからなかったが、夢を見る度に胸が締めつけられるような思いだった。
いやだ。もう見たくない。
悪夢を見ない方法、好きな夢を見る方法、色々調べてみるがどれも効果は無かった。夢の中であっても、人が飛び降りる瞬間を何度も見るのは恐怖だった。
それに悔しかった。ただ見ているだけで何も出来ない自分が。
「どうした?最近元気ないな。」
セイヤが心配している様子で聞いていた。ガサツで能天気な性格だが、友達が落ち込んでいると真っ先に声をかけてくれる。
「ああ。大丈夫。あの夢だよ。あれからずっと続いてるんだ。」
「前に話してた夢のことか。まだ続いてたのかよ。」
「そうなんだ。しかも今は内容が変わってて、女性が飛び降りるのも見るんだ。」
「それは怖いな。」
僕の落ち込む姿が心配させてしまっているのかもしれない。前に夢の話をした時よりも真剣に聞いている。
「まあ要するに、夢を見なければいいんだろ。よし、お前も陸上部に入れ。」
「なんでそうなるんだよ。」
「体力使って毎日疲れれば、夢を見る間も無く熟睡できるだろ。帰宅部だから疲れねえんだよ。だから、俺もいる陸上部に入れ。」
「まあ、夢のことばかり考えてるのも疲れるし、いい気分転換になるかもな。わかった。」
「まじかよ。どういう風の吹き回しだよ。」
「お前が言ったんだろ。」
セイヤと話すと、落ち込んでいたことがどうでもよくなる。いつもこいつに助けられる。
すると、すぐ後ろの席から声が聞こえてきた。
「救いなさい。」
後ろの席で一人静かに本を読んでいた転校生のレイが、突然声をかけてきた。無愛想で物静かな雰囲気から皆も近寄りがたく、クラスに馴染めてはいないようだった。
「びっくりした。なんだよ、急に。」
「救うってどういうこと。」
普段、話をしているところを見たことがない転校生から、突然声をかけられたのも驚いたが、思ってもみなかった言葉を投げかけられ、僕は困惑していた。
「それは明晰夢って言うの。夢の中で自分自身が、夢を見ていると自覚している夢。
それが明晰夢。
そして、それを見る人の中には、稀に夢の内容を自分の思い通りに変化させられる人もいる。
あなたがどんな夢を見ているかは知らないけど、その夢を見ているのには何か意味があると思う。
だから、あなたが夢の中の状況を自分自身で変えるの。そして、その人を救うことができれば、その意味がわかるんじゃないかしら。」
なんだろう。
この子と会話をするのは初めてで、話の内容も突拍子もないものだったが、なぜか頭にスッと入ってきた。今まで心の隅に抱えてきたモヤモヤが軽くなった気がした。
「レイさんだっけ。ちょっとびっくりして何て言っていいかわからないけど、とりあえずありがとう。試してみるよ。」
「がんばって。」
彼女は読んでいた本に目線を向けたままそう言うと、自分の世界に帰っていった。
「じゃあ、僕も突拍子もないことを言うけど、レイさんも陸上部に入らない?マネージャーとか。部活、何も入ってないんでしょ。」
「どうして。」
彼女も意外だったのだろう。目を見開き僕を見て言った。ついでにセイヤも目を見開き僕を見ていたが、それは置いとこう。
「僕も今ふと思っただけで、その意味はわからない。だけど、君の言うとおりこの気持ちにも何か意味があるんだと思う。
だから、一緒に陸上部に入ろう。質問の答えになってないかな。」
「ふふっ。あなたおもしろい人ね。いいわ。私も入る。」
初めて彼女の人間らしい表情を見た。
自分自身なぜこんなことを言い出したのかはわからないが、これからももっと彼女と話したいと思った。
彼女の話で夢に対する覚悟ができたのは確かだった。
「まじかよ。」
会話から一人置いていかれていたセイヤが、少し嬉しそうに小さな声で言っていたのが、かすかに聞こえた。
そして、その夜。あの夢だ。階段を駆け上がっている。
いつものように恐怖心はあるが、覚悟はしていた。
飛び降りる女性を救う覚悟。女性を救うまでこの夢から逃げない覚悟。
そのためにまず、夢の状況を細部まで観察する。
簡素な階段。灰色のコンクリートの壁。
屋上に着いた。どうやら8階建ての建物のようだ。
ドアを開く。真っ先に声をかけようとした。
自分に気づかせて説得か何かをしようとしたのだ。
しかし、無情にも声は出なかった。
少しして、後ろ姿のまま女性が飛び降りるのを、何もできず眺めていた。夢の中の状況は変えることはできなかった。
目を覚ましていた。また、泣いている。悲しさ、悔しさ、恐怖。いろんな感情で心の中は混乱している。
しかし、覚悟ができていたからだろう。今までは目を逸らしいて気づかなかったことに、気づけていてさらに、確信していた。
夢の内容は、毎回変化している。そして、飛び降りる女性に、毎回僕は近づいていっているのだ。
最初は、ドアを開いた瞬間、女性が飛び降りる姿を見ていたが、今回は、ドアを開いて屋上を数歩走って、女性が飛び降りていた。
つまり、初めに比べると今では、ドアを開いてから女性が飛び降りるまでの時間が長くなっているのだ。
希望が見えてきた気がした。夢の状況を自分で変えることはできないが、女性を救おうと夢自体が変化している。
僕がこのままこの夢を見続ければ、最終的に女性を救えるのかもしれない。
夢を見るごとに女性を救う結末に近づいている。そう思うと気持ちが楽になった。
学校での生活も日常を取り戻しつつあり、きっかけはおかしなものだが、陸上部での日々も楽しかった。
レイとも陸上部のマネージャーとして、毎日顔を合わせ話をしていた。夢の話や他愛のない話まで。
この前セイヤには、あんなことを言っていたが、レイに対して気になっていたというこの気持ちは、恋愛感情だったのかもしれない。
しかし、どうあってもこの気持ちを打ち明けるつもりはなかった。
そして、いつもの夢を見る。少しづつ女性に近づく夢。夢の中での僕の心はいつものように混乱しているが、ただ一つ、彼女を絶対に救うという決心はついていた。
まだ手は届かないが、いつか必ず。
それから数ヶ月が経ち、夢の中で女性との距離は着実に縮まっていた。
あともう少し。先月から女性の腕を掴もうと必死に伸ばしていた手は、あともう少しで届きそうになっていた。
そして、次の日。
今日こそは彼女を救う。
そう決意し、僕は階段を駆け上がっていた。
屋上に着き、ドアを開く。いつものように、まだ女性は後ろ姿で屋上の端に立っていた。
まだだ。まだ行くな。
声に出せない分、心の中で強くそう思いながら、女性のもとに走っていく。すると、女性は屋上のふちに足をかけ、その身を投げ出していた。
そして、ついに、ずっと願い続けてきた時が来た。
この距離なら手が届く。
腕を掴もうと伸ばした手を、より一層限界まで伸ばし、もつれかけた足を、前回のその先へともう一歩踏み出していた。
「レイ!」
彼女の腕を掴みかけた瞬間、僕は彼女に向かって叫んでいた。その声で、初めて振り返った彼女の顔は紛れもなくレイだった。
レイはこちらを悲しそうな目で見つめながら虚空へと消えていった。
握りしめた手の中には何も無かった。
僕の手はまた届かなかった。
その日の放課後、僕はレイに告白していた。
「君が転校してきた日からずっと気になっていた。これからはずっと僕のそばにいて欲しい。」
「気持ちは嬉しい。けど、急にどうして?」
理由は明かせない。今まで夢の中で、繰り返し飛び降り自殺を図っていたのがレイだったとは言えるはずもない。
「急なのはわかってる。でも、どうしても。君を見守っていたいんだ。」
「わかった。そばにいるだけならいいよ。」
彼女の言葉が冗談か、本気なのかはわからなかった。
でも、僕はそれでよかった。彼女のそばにいて、彼女を守ることさえ出来れば、それでよかった。
あの夢を見た意味は今もまだわからない。確信は無いが、あの夢を見るのも今朝で最後という気がしていた。
夢の中では結局、彼女を救うことはできなかった。しかし、これからレイを守ることができるのは自分しかいない。
あの夢が正夢にならないように、僕が彼女を守らなければならない。僕はそう心に誓った。
それからあの夢を見ることはなくなった。
レイからも夢のことを聞かれることはあったが、女性を救うことができた、それからはもうあの夢は見なくなったと結末については嘘をついた。
下手に心配させても意味はない。
いや。僕が安心したくて自分に言い聞かせていたのかもしれない。
どちらにしろ、たかが夢の話だ。もう見なくなった夢に対して気にする必要もないだろう。
一年後、レイとは別々の大学に進学したが、交際は続けていた。今のところ、なにか変わった様子もなかった。
僕は陸上部もなぜか続けていた。成績を残していたわけではないが、なんとなく楽しかった。
あの夢のこともすっかり忘れていた。
普通の学生生活を送っていたある日の夜、レイから大事な話があると部屋に呼ばれていた。相変わらずの無表情だが、いつもより少し神妙な面持ちで聞いてきた。
「私たちの将来について考えてる?」
「そうだね。考えてる。まだ学生だから先の話だけど、レイと結婚したいと思ってる。」
「なら、別れましょう。」
突然きり出された別れ話に驚きを隠せなかった。彼女は冗談を言うタイプの女性でもない。
「どうして。別れる理由が思い当たらないよ。」
「理由。別れる理由ならあるわ。今まで黙っていたけど、私は人を殺した。実の父親を殺した人殺しなの!」
そう言うと、彼女は涙ながらに過去のトラウマを話し出した。彼女の涙を見るのは初めてだった。
彼女がこんなに感情的になる姿も。
レイの父親は優しい人だった。昔は家族3人でよく遊びに出かけていた。レイもそんな父が大好きだった。
しかし、レイが小学生の頃、父の会社が倒産し、父は仕事を失った。再就職も上手くはいかず、生活苦からか、父は母やレイに当たるようになっていった。
そんな生活が続き、父が仕事探しもせず、酒浸りになっていたある時、母が普通の生活に戻りたいと父に話した。
すると、父は逆上し、持っていた酒瓶を床に投げつけ、母を殴り始めた。
レイはそんな父を、そんな母をこれ以上見たくはなかった。
レイは父を力一杯押した。小学生の力で押し倒せるはずはなかったが、父が後ずさりをした先には、割れた瓶の破片が散らばっていた。
瓶の破片に足をとられた父は体勢を崩し、そのままテーブルの角に頭を打ちつけた。頭から血を流し横たわる父はそれから動くことはなかった。
母はレイをかばい、夫殺しの汚名を被った。そして、事件のショックで心を病み、今でも地方の精神病院で入院している。
「そんなこと関係ない。君は君だ。僕は君の全てを受け止める。」
「関係あるわ!怖いの。あなたも父のようになるんじゃないかって。」
「ならない!僕は君を愛しているんだ。」
「そんなのわからない。私だってあなたを愛してる。だから、大好きなあなたのまま別れたいの。」
「どうしてわからないんだ。僕は君を守ると誓ったのに!」
僕は大声を出し、彼女の腕を強く掴んでしまった。
「触らないで!」
彼女は堰を切ったように泣き出し震えだした。
そして、部屋を飛び出していった。少しの間、放心状態だった僕は我に帰り、彼女を追いかけ外に出た。
雨が降っていた。僕は構わず走った。大通りに出て、雨の中傘もささずに走るレイを、目の端で捉えた。
少し走って、彼女は雑居ビルの一つに入っていった。
僕は階段を駆け上がり、彼女を追いかけていた。汗をかき涙を流しながら。ふと見るとビルの階数を表す数字が8階を示していた。
あの夢と同じ状況だった。一年前、繰り返し見ていたあの夢と。最悪の結末が脳裏をよぎる。
違う。これは現実だ。夢なんて関係ない。まだ体力も余っている。あの夢とは違うんだ。
屋上に着き、ドアを開ける。そこには屋上のふちに向かって走っていくレイがいた。
「レイ!」
僕は大声で叫び彼女を追いかけた。
「来ないで!」
彼女はそう言いながらそのまま飛び降りようとしていた。
僕は腕を掴もうと必死に手を伸ばした。しかし、このままだと手は届かない。その勢いのまま、さらに一歩踏み出し、自分の身を屋上の外に投げ出した。
そして、彼女を押し返し、自分は虚空へと消えていった。
「実験記録364日目。期限まで残り1日。被験者A、Bどちらも未だ反応は見られない。」
「先生、明日で約束の一年が経ちます。」
「わかっている。今日一日、信じて待つしかないだろう。」
数人の話し声がする。ここはどこだろう。なぜ私はここにいるのだろう。いつからここにいるのだろう。思い出せない。
「先生!見てください!被験者Aに反応があるようです。」
「レイさん!レイさん、聞こえますか。聞こえていたら返事をしてください。」
うるさい。大声が頭にガンガン響く。眩しい。照明で目が痛くて開けられない。
「はい。ここはどこですか。」
「ここは病院です。よかった。あなたは十年間昏睡状態で、心臓は動いたまま意識が戻らなかったんですよ。」
徐々に目が慣れてきた。どうやら病院というのは本当らしい。そして、横にはもう一人男性が眠っていた。それはマサキだった。今にも起きそうにスヤスヤと眠っていた。
徐々に記憶も戻ってきた。私とマサキはドライブに行っていた。青信号を進んでいた私たちの車を、左から信号を無視した車が追突してきたのだ。
それから十年、私は昏睡状態だったと先生と呼ばれる男性が言っていた。確かに長い間、夢を見ていた気がする。
「マサキ君はある研究の研究員なんだ。その臨床試験として、自分自身を実験体に今回の実験を進めているんだ。
その研究というのが、昏睡状態の人間の意識の中に、別の者が介入し意識を取り戻させるというものだ。
当事者たちの脳内で何が作用しているのかは我々も知り得ない。昏睡状態の人間も夢を見ることがあると言われており、夢が関係していると思われるのだが。
とにかくレイさんは意識を取り戻した。マサキ君もいずれ目を覚ますだろう。」
そうだ。夢の中で繰り返し飛び降りる私を、マサキが何度も助けようとしてくれていた。
そして、最後は私の身代わりになって。
マサキはまだ目を覚まさない。もしかしたら。
「先生、マサキはこのまま起きないかもしれません。」
「どうしてそう思うんだ。」
「先生の言うとおり、私は長い夢を見ていました。何度も繰り返し死ぬ夢です。彼は夢の中で何度も私を救おうとしてくれました。そして、最後は自分を犠牲にして私を救ってくれました。」
「なるほど。理屈はわかった。」
「先生、今度は私を彼の意識の中に入れてください。」
「それはダメだ。次も目を覚ますという保証がない。それに彼は実験に参加する前、期限を一年間と定めて実験に臨んでいる。
自分が目を覚まさないのも覚悟の上なんだ。君を救えて彼も本望だろう。」
「お願いします。期限が一年ならまだあと1日あるはずです。彼を犠牲にして生きる彼のいない世界に、私の生きる意味はありません。先生、お願いします。」
「そこまでマサキ君を。わかりました。ただし、絶対に無理はしないでください。」
「ありがとうございます。」
また同じ夢だ。また、あのおかしな夢。どこかのビルの階段を、僕は何かを追いかけて登っていた。
屋上に着いてドアを開けると、外は夜だ。そこには屋上のふちに向かって走っていくレイがいた。
「レイ!」
彼女に向かって叫び追いかけた。彼女はそのまま飛び降りようとしていた。腕を掴もうと伸ばした手は届かない。
そのまま僕は身を投げ出した。そして、彼女を押し返し、自分は落ちていった。
その時、僕の手を誰かが掴んだ。その手はレイの手だった。壁をよじ登り屋上に戻った。
僕たちは夢の中で抱き合った。レイの心臓の鼓動を感じる。どこまでもリアルだった。
僕は目を覚ました。病室の天井が見える。今日はあれから何日目だろう。起き上がり横を見ると、レイも目を覚ましていた。涙ぐむレイに向かって僕は言った。
「ありがとう。」
「ふふっ。おもしろい人ね。それは私が言うべき言葉よ。」
今回の実験は成功だったが、研究責任者と主治医の間では意見が分かれていた。主治医からはその危険性について指摘され、研究の実用化は見送られることとなった。
彼女が十年間目を覚まさなかったのは、事故の後遺症と過去のトラウマが、主な原因ではないかというのが主治医の見解だった。
実験中に僕が見ていたものは、全て僕と彼女が作り出した想像にすぎなかったが、この実験で彼女を救えたのは紛れもない事実だ。
そして、ただ一つ、彼女のトラウマだけは現実のものだった。
一ヶ月後、僕は車椅子に座るレイと一緒に、レイの母が入院している病院の廊下を歩いていた。レイが母と再会するまでに二十年という月日が経っていた。
事故に遭うまでも、過去の事件の日からは、周りの大人達から母と会わせないようにされており、レイ自身も自責の念から会いにいくのをためらっていた。
母の病室の前に着いた。言葉では表せられない気持ちなのだろう。レイは少し震えていた。
「大丈夫。」
僕は彼女の肩にそっと手を置き頷いた。
病室のドアを開くと、そこにはベッドに横たわり窓の外を眺めるレイの母親がいた。僕たちは静かに近づいた。
「お母さん。」
レイが声をかける。しかし、反応はなかった。
「レイ。私のレイはどこ?」
母は振り返ることなく呟いていた。レイは涙を流しながら、母の手を強く握った。
「お母さん。私よ。ここにいるよ。」
レイの言葉は母には届かなかった。
「ごめんね。お母さん、ごめんね。」
母の手を握りながら、大粒の涙を流しながら、レイは繰り返し懺悔していた。僕は、その間ずっと彼女のそばに寄り添っていた。
そして、彼女は何かを決心したように言った。
「お母さん。今までごめんね。ありがとう。来年は一緒にお父さんのお墓参り行こうね。」
その時、一瞬ではあったが、レイの母の口元が緩んだように見えた。
過去はどうあっても変えることはできない。だけど、現在は変えることができる。夢は変えることができる。今を必死に変えようとしたものだけに未来が訪れる。
そして、僕はこれから彼女に何があろうとも、何度でも救い出すと心に誓った。