第8話―5―
律子の全力ダッシュ。長谷川さんの差し出された手を取ろうと、お父さんも笑顔で手を差し伸ばす。
何だか、周りの世界がスローモーションで動いている。目の前には走馬灯の様に、これまでの私の短かった人生が流れ……はしないが、律子の、このダッシュでさえもゆっくりと感じる。
一歩一歩を踏みしめる度、砂埃が舞い上がる。
一度未来へ戻った時に、バスに向かって走った時の事を思い出す。今回はシチュエーションこそは違うものの、似たものを感じる。あの二人を止められさえすれば何とかなる。
律子は入口の取手を握ると、勢い良く中へと入った。同時に大声を出す。
『ちょっと待って!』
入口から二人の方を見ると、二人の手はガッチリと繋がれていた。
「……え」
『間に合わなかった……』
お店にいる人達は、呆気に取られた表情でこちらを見ている。お父さんと長谷川さんも含め。
『沙美、まだいる?』
「うん……何とか」
私の返事を聞くや、律子は二人の元へ駆け寄り、その繋がれた手を掴んだ。
「お、おい」
「ちょ、ちょっと何するのよ」
二人は怪訝な表情を浮かべつつ、律子にされるがまま簡単にその手を離した。
『長谷川さんも那覇軒先輩も、どういうつもり!?』
「どういうって……あなた勘違いしてるわよ」
『勘違い?』
律子は長谷川さんを見ていた視線を、お父さんへと移す。するとお父さんは、目を閉じてゆっくりと、そして深く「うん」と頷いて見せた。同時に、長谷川さんのコーヒーの氷が「カラン」と音を立てて姿勢を崩す。
『……』
固まる律子に、長谷川さんは呆れた様に切り出した。
「仲米さん、今、私が那覇軒先輩に告白してると思ったんでしょ? もうこれ以上あなたに目を付けられるのも面倒だし、殴られるのも御免こうむるのよ。那覇軒先輩とは、最後にお喋りしたくて会っただけよ」
『え……最後?』
律子は何が何だか分からない様子で、一歩退きながらに何とか声を発した。するとお父さん、
「仲米は早とちり屋さんなのか? 最後に別れの握手って事だったんだよ、さっきのは」
『別れの……?』
二人の顔を交互に見る律子。長谷川さんとお父さんはそれぞれに深く頷く。そして再び長谷川さんが口を開く。
「私だって、“会う”っては言ってたけど、交際を申し出るなんて一言も言ってなかったでしょ。ただ、仲米さんの、違う人格を出して、なんてやり口が少し気に食わなかったから、意地悪したくなっちゃったのよ。でも、まさか付けて来てるとは思わなかったわ」
『……』
やはり、私自身の事は信じてくれていないらしい。まあこの際、そんな事はどうでもいいが。
事情の知らないお父さんは、訝しげな表情を浮かべている。そんなお父さんを見るや、長谷川さんは「先輩ごめんなさい。女の子って言うのは、色々あるんですよ」と、一言付け足した。
長谷川さんはコーヒーを半分程一気に飲み、席を立った。そして荷物を持つと、「それじゃあ、先輩、さよなら」と頭を下げて歩き出した。
「あ、おい長谷川!」
「何ですか? やっぱり付き合おうってのは、なしですよ」
お父さんが呼び止めると、長谷川さんは半ば微笑みながらこちらを振り向いた。
「あのさ、俺に将来子供が出来たら、なんて名前がいいと思う?」
「え、どうして私に聞くんですか?」
「お前少し前に占いとか好きって話してただろ。何か、いい名前ないのかなって」
長谷川さんが占い好きだなんて知らなかった。昔が昔だから、一人遊びに夢中になっていたのかもしれない。しかしお父さんもお父さんだ。自分の子供の名前なんて大事なモノは、将来の奥さんと決めるべきであって、人に決めさせーー
「サミ、なんてどうかしら」
ーー!?
何だかんだと言いながら、私の事は認めてくれた。と、そう解釈していいのか?
長谷川さんの言葉を受け、お父さんは目を丸くした。
「サミ、かあ。どんな字書くんだ?」
長谷川さんは、「漢字……そこまでは聞いてないからなぁ。那覇軒……サミ……」とボソボソっと小さく呟きながら律子に近付き、目をじっと見つめる。
……。
……。
……いや、違う、私を見ている。律子の目のずっと奥にある、わたしの目を。このまま長谷川さんの目を見ていると、律子の中から私が引きずり出されそうでならない。
数秒間沈黙が続いた後、長谷川さんはテーブルにあったメモ用紙に名前を書き出した。
ーー那覇軒 沙美ーー
図らずとも、そうなる運命。全ては成るべくして成っていく。
以前律子がそういう事を言っていた事を思い出した。この長谷川さんの書き出した名前を目の当たりにして、本当にそうなっているのではないかと、そう感じた。
「清い水で洗い“より分け”、美しくなる。という意味よ。悪くないでしょ?」
長谷川さんはお父さんではなく、律子の方へ語りかけた。
『漢字は、正解よ。あなたが名付け親って事になるのね』
「サミってのは聞いてたからね。それじゃあ先輩、女の子が生まれたら、沙美ちゃんと名付けて下さいね。男の子だったら何でもいいです。沙美夫、とかいいんじゃないですか?」
長谷川さんは「アハハ」と笑いながらそう言うと、すれ違いざまに「沙美さん、未来へ帰れるといいわね」と肩をポンっと叩いて横目に微笑んだ。
律子はお父さんと外へ出た。まだ四時だと言うのに、外がオレンジに染まり始めていた。冬は夜が来るのが早いから嫌いだ。
「さて、俺は田中さんと約束があるから、ちょっと行ってくらあ」
『はい、お幸せにー』
律子がニヤニヤとお父さんの顔を覗き込む。
「な、なんだよやらしいやつだな」
お父さんは両手をポケットに突っ込むと、こう続けた。
「しかし沙美、かあ。いい名前だったな。まだ生まれてもないし、女の子が生まれるなんて決まってもないのに、名前に目星が付いただけで何だかすぐ傍にいるみたいに感じるな」
お父さんは無邪気に笑う。
『もう、すぐ傍にいたりして、ですよ先輩』
律子がイタズラに笑いかけると、お父さんは「何だそれ! アハハ」と笑いだした。
ーーっ!
瞬間、軽い頭痛が走った。入れ替わったらしい。
何だか久しぶりに地面を踏む。こんな感覚だったっけ? 凄く違和感がある。足元を見ながらその場を何度か踏みしめる。……うーん、しっくりこない。
「おい仲米、どうした?」
「え……うわっ!」
お父さんがすぐ隣にいた事を一瞬忘れていた。
「何だよ、変なやつだな。仲米って、たまに変になるよな。いつか生まれてくる沙美ちゃんが、こんな子ではない事を祈るばかりだ」
「……どういう意味ですか先輩それ」
何て事を言うのだこの人は。お父さんにだけは、この変な大人になる人にだけは「変な」なんて言われたくなかった。
私が明らかに不機嫌そうにそう返すと、お父さんは笑いながら答えた。
「アハハ、ごめんごめん、いつもの仲米の事じゃなくて、たまに人が変わったみたいになった時の事を言ってるだけだから気にしないで大丈夫だよ、アハハハ!」
「だからそれを言ってるんですぅ!」
「今は変な方の仲米なんだな、アハハ!」
「うるさーい!」
『あんたら、仲良いわね……』
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