第8話―3―
目を覚ますと、目の前に律子が立っていた。うおっ、と驚いたが、すぐに姿鏡だと言う事に気が付いた。
『あら、おはよう』
「おはよう」
今が何時なのかは分からないが、律子はすでに着替えを済ませており、窓からは陽が差している。テーブルの置き鏡の光が眩しく感じるが、律子は平気なのだろうか。
どこへ行くのかと尋ねると、『長谷川さんの家に行こうと思って』と淡泊な返事が、ゆるぅく飛んできた。昨日の気持ちをまだ引きずっているらしい、その表情は暗いままだ。
「長谷川さんに会って、何て言うつもりなの?」
『まだ決めてはいないけど、とにかく今のままじゃ気持ちが悪くって。信じてもらえていない事もあるけど、沙美の存在が否定されている事も、ちょっとね……』
「あら、嬉しい事を言ってくれるじゃありませんか律子さーー」
『嘘よ』
「……」
しかしアポ無しで行くのは入れ違いになる可能性もある、私は電話をするよう促した。すると律子はあからさまに表情を曇らせた。
これから会わなければならないのに、電話なんかでそんなに気を落としていて大丈夫なのだろうか。とてつもなく心配になる。会った途端ロケット花火みたいに飛んでいって空中爆破。なんて事態になる事だけは避けて頂きたい。
律子は受話器を握り、それを重そうに持ち上げる。そしてダイヤルを回すが、何を喋ろうかと考えているのだろう、手の動きがいつもより遅い。
最後のダイヤルを回すと、息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
一回、二回、三回、受話器の向こうから、相手を呼んでいる電子音が聞こえる。そしてそれが五回目を数えた時、女性の声が聞こえた。
「はい、長谷川ですが」
長谷川さんの声だ。律子は目を瞑り、しばらくの間声を発しなかった。
「あの、もしもし……?」
何とも不審に思うような声。何度か「もしもし?」という声と共に、「コツコツ」という音も聞こえてくる。長谷川さんが受話器を指先で叩いているらしい。
「ちょっと律子、何で黙ってるのよ」
私が問うと、律子は不意に声を発した。
『長谷川さん、あなたに会いたいんだけど、時間くれない?』
「何だ、仲米さんか、誰かと思っちゃったじゃない。別に会うのはいいけど、説教は嫌よ」
『説教なんてしないわよ。じゃあ、お昼に長谷川さんの家にお邪魔するわね』
長谷川さんはそれを聞くや、「どうぞご勝手に」と冷たくあしらい電話を切った。
律子は受話器を置くと、ぶはぁー、っと息を吐いた。額からは汗が垂れてきている。電話口では冷静を装っていたものの、内心ではドキドキしていたのだろう。中にいても、それは若干伝わっては来ていた。
律子は『あああ、緊張したーちきしょー』と珍しい口調で早口に言うと、再び受話器を取った。
どこへ掛けるのだろうと思ったが、それはすぐに分かった。
「はいもしもし」
春の声だ。言わずもがな聞き覚えのある声だが、何だかよそ行きの声を出している事が分かる。
『もしもし、春?』
「あ、律子かあ! 誰かと思っちゃったよ、あははは! で、どしたの?」
電話の主が律子だと気付くと、春はいつもの声色に戻った。相変わらず元気だなあ。そう思い微笑ましくなったが、同時に一月三日の事故が過った。
私がこの可愛らしい子を守らなければいけない。うん、きっと守ってみせる。
『来年の一月三日なんだけど、用事ある? 無いなら春の家で新年会したいなって思ってさ。夏海も一緒に』
「お、いいよ! どうせ正月は暇だし!」
なるほど、約束の為の電話だったのか。とりあえず、これで春と夏海の安全は確保出来そうだ。
『やった! じゃあ三日は春の家に行くね。ところで、冬ちゃんいる?』
「え、お姉ちゃん? ちょっと待っててね、お姉ちゃんこんな時間にお風呂入って、今出たばっかなんだ」
春がそう言うと、受話器からそこを手で塞ぐ音が聞こえ、篭った声で「お姉ちゃーん! 律子から電話だよー! お姉ちゃーん!」と叫ぶ声が聞こえた。
そして暫くすると、再び春の元気な声が耳を貫く。
「ドライヤーしてて聞こえないみたい! あはははは!」
お母さんを大声で呼んでいたせいか、先程よりも声の音量が大きい。反射的に耳を離す律子。
『声大きいわよ……てか、それの何が面白いのよ』
ごもっともです律子さん。
春は律子の冷たいセリフを聞かずに、ドライヤー中のお母さんを呼びに行ってしまった。何だか、先程の電話とは正反対の緊張感である。
それにしても、お母さんなんかに掛けてどうするつもりだろう。
「もしもし、りっちゃんどうしたの?」
『あ、冬ちゃん、ちょっと聞きたい事があってさ。今日って、何時に那覇軒先輩と会うの?』
「え、会う約束なんてしてないけど?」
ーー!?
お母さんのその言葉が私の胸を刺した。そしてそのままえぐられる様に苦しくなる。
お母さんは、今日お父さんを家に招く筈なのに。どうして? 訳が分からない。
間違いなく中学生の頃に聞いたのだ。お母さんの、あの照れまくった表情は忘れようにも忘れられない。
もしかして、どこかで歯車がかけ違ってしまったのだろうか。そもそもタイムパラドックスが起きるなんて事は勝手な決めつけで、それ相応の未来に変わるだけ。なんて事も有り得る。
しかし私の存在は絶対的な未来があってこそだ。二人がくっついてくれなければ、私は間違いなく消えてしまうだろう。
「お父さんとお母さんがくっつかなきゃ、私どうなっちゃうのよ!」
思わず律子に言いよってしまう。すると律子は受話器から耳を離して、『それはこっちのセリフよ! 二人が今日会うって、あんたが自信満々で言ってたんじゃないの!』と小声で叫んだ。
「……あい、すいまてん」
それしか出なかった。そして律子は再び受話器に耳をつけると、あくまで冷静に喋り出した。
『あ、そうなんだ。那覇軒先輩が会いたがってたらしいから、会うのかと思ってたよ』
するとお母さんは、声を一つ高くした。
「え! 本当に! 電話してみようかな!」
『うんうん、それがいいと思うよ。それじゃあ、またね』
律子はそれだけ言うと、受話器をそっと置いた。そして二階へ上がりながら、呆れた様子で口を開いた。
『まったく、全然話が違うじゃないの。冬ちゃんと那覇軒先輩との約束って、結局は私が取り付ける事になってたのね。あの時沙美を褒めたやつ、私に返して欲しいわ』
だってお母さんがそう言ってたんだもん。そう言いたかったが、どうせ私が負けてしまう。ここは言葉を飲み込む。
律子はクローゼット棚からベージュのロングコートを取り出し羽織ると、ため息を一つついて家を出た。
道中、私は春との約束について話を切り出した。
「一月三日、約束出来たね。これで二人とも外に出さなければ、事故を回避出来そうだね!」
すると律子からは、意外な答えが返ってきた。
『外へは出るわよ、二人を連れ出してね。そしてバスの事故にも遭う』
「え、ええええ!?」
何を言い出すのかと思えばこの子は。
「ちょっと、そんな事したらみんな死んじゃうじゃない!」
律子は白い息を吐きながらゆっくりと答える。
『いいのよ、二人は事故に遭いそうになり、そしてそれを私が助ける。全ては岬野さんの手紙通りよ。明日を生きる為には、死ぬ覚悟がないといけないらしいから』
「手紙通りにするなんて無茶苦茶よ!」
『私だって怖いわよ、でもやっぱり、その通りにしないといけない、もし私が死ぬ事になるとしても、タイムパラドックスが起きてしまっては元も子もないわ。それにね沙美……私にはもう、未来が見えてるのよ』
久しぶりに出た。自分だけは答えを知ってるやつ。
律子の知っている事を全部教えて欲しい。もう残された時間も少ないのだ。今ならば、もうある程度の事を知っていても差し支えはない筈。
「律子、私にも教えて、律子の知ってる事。今考えてる事」
私が聞くと、律子は両手をポケットに突っ込んで、何故か楽しそうに答えた。
『あはは! それは無理かなー! でも、もし全部上手くいったら、私、沙美に会いに行く。沙美が帰った日、八月一四日に』
「え、本当に!? 嬉しい! けど、どうやって?」
『それは秘密でーす。でももし、その日に私が現れなかったらそれは……元々そういう、私がいない未来だったって事だから。その時は、私のお墓……探してね』
律子の声は、すっかりトーンダウンしていた。全てを知っている律子でも、やっぱり不安はあるらしい。そしてこれは、私にそれら(知っている事、気付いている事)を隠す為の嘘ではない。長い付き合いなのだ、そのくらい声の感じで分かる。
私が何と言おうかと迷っていると、律子は続けた。
『まあ、気を落としてても仕方ないわね! やるだけの事は、やってやろうぜぃ!』
律子はポケットから両手を出し、胸の前で握りこぶしを、ぐっと作った。
『あ、それと、二つ目の封筒に、今私が気付いている事とかも書いてるから、それ読めば分かるわよ』
それを聞くと、今どうしても聞きたい! という気持ちがスゥーっと引いていった。
「とにもかくにも、泣いても笑っても一月三日は目の前! 一緒に頑張ろうね!」
『もちろんよ!』
「その前に長谷川さんの誤解を解かないとね」
『はぁ……』
律子の白いため息が空中に泳いだ。
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