第5話―8―
八月二二日
夜通し休憩も許されず過酷な労働を強いられた律子の部屋の扇風機。時として首を右から左、左から右へと、延々と回し続けなければいけないその可哀想な子は、文句一つ言わず、未だに働き続けている。しかしその激務の甲斐無く、ベッドから起こす私の体は汗でぐっしょりと濡れていた。
「あっつーい。ねえ律子、部屋にクーラー付けてもらったら?」
『部屋にクーラーだなんて贅沢よ』
この暑さのせいなのか、もしくは昔ながらの堅い頭の持ち主のせいなのかは分からないが、何だか頭がくらくらする。そんな重い頭を抱えつつ姿鏡の前に立ち、自分の姿を眺める。
目の前に立つ女の子は、寝癖のついただらしのない格好で私を見つめてはいるが、そのスラッとしたスタイルの良さ、目が半分しか開いていないくせにやはり美人に映る端正な顔立ち、「一目見ると忘れる事が出来ない程の美人」とまでは言わないが、律子として歩いていると、すれ違う男の視線を感じる回数はあからさまに多い。
……。
取って付けた様に聞こえるかもしれないが、一応、私だって街を歩いていると男の視線を感じる事くらいはある。ふとそちらを見ると男性と目が合う事だってあるのだ。
私も負けてはいないはず……とは言いつつも、どうあっても律子として歩いていると自信が湧いて来るのは事実。「私もこんな顔だったらな」なんて一瞬だって過った事が無いと言えば嘘になる。
……何を食べればこんな顔に育つのだろう。やはりビーフストロガノ--
『……人の顔で何してんのよ』
「……え、あ、ああ! ごめんごめん!」
『さっさと着替えて部活行くわよ』
「……はい」
またやってしまった。律子が起きている事を完全に忘れ、前髪をかき上げてみたりほっぺたを引っ張ってみたり、律子の顔で遊んでしまっていた。相変わらず、考え事を始めると周りが見えなくなってしまう。いい加減この「沈思黙考時周察忘却症」を治したいものだ。
……そんな病気は無いが。
さてさて、そんな冗談は置いておくとして、今日はいよいよ花火大会当日となる。
山本光介とは一緒に会場へ向かうのかと思っていたが、先日、現地集合の時間だけ電話で知らされ、問答する間もなく一方的に電話を切られてしまった。律子にも「一緒に行けばいいのに」と提案したが、当たり前の様に一蹴されて終わってしまった。私たちとお母さん世代とでは、ここまで違うものかと改めて首を傾げさせられる一件でもあった。
一昔前の男と付き合うのも難しそうだなと口をへの字に曲げつつ、軽く寝癖のついたセミロングに櫛を通すと、早目に支度を整えて家を出た。
道場へ着くと、春が射場のど真ん中で目を瞑って立っているのが見えた。早目に来て一人で練習するつもりだったのだが、春もそのつもりだったらしい。それにしても、静まり返った道場で、一人心を落ち着かせている春は何だか別人に見える。
周りの木々から無数に鳴るセミの声も、彼女にはきっと聞こえていないのだろう。
射場には少しだけ陽が差しており、その際はちょうど春のつま先に差し掛かるかどうかの位置まで来ている。矢上げ道から彼女を見ているが、私の存在に一切気が付かない。声を掛けようかとも思ったが、邪魔になるといけないと思い、そのまま控え室の入り口へと回った。
控え室から射場へ入り、道具を出す為に、木製の壁を加工して作られたロッカー(の様な物)を開ける。一応慎重に戸を開けたが、立て付けの悪いせいで、錆びた鋸を無理矢理引く様な音が射場に響いた。気付かれてまずい事なんて一つも無いが、ハッとして春を見る。が、未だ瞑想中。そんな彼女を改めと見ると、息すらしていない様に見える。……え、死んでる? 担ぎ上げた他の部員たちの弓に押し潰されそうになりながら、春の安否を確認する為に近付いてみる。
顔を覗きこんだ瞬間、彼女の大きな目がギョロリと私の瞳を覗き返した。それに驚いた私の反応を見るや、春は嬉しそうに笑った。
「あ、沙美だね」
屈託無く弧を描く目が、沙美としてお喋りをするに高かった敷居をグッと下げる。
「お、おおお、よく、分かったね」
「勿論! 律子とは大の親友なんだからすぐ分かっちゃうよ!」
「流石です! ところで、瞑想なんかしちゃってどうしたの?」
「いやあ、私にも沙美みたいな子が入ってこないかなと、エヘヘ」
春は何故か申し訳なさそうに、照れた様に頭をポリポリと掻いた。すると律子は『あまり良いものではないわよ』と、ボソリと呟いたので、そのまま伝えると春は「えー、絶対楽しいよ!」と身ぶり手振りで躍起になった。
一人でムキになっている春をおだめつつ、二人で控え室に入る。控え室は若干気温が低く、一度こちらに来ると射場へは行きたくなくなってしまう。
春と“はんぶんこ”した、二十数本の弓たちを掛け具へ立て掛ける。そして次は全員の矢筒。これも春と分けて運ぶ。少しは慣れたはずのこの作業も、肩にギチギチと食い込む肩掛けの革紐には眉間を歪ませてしまう。
全ての道具を控え室へ運び終わると、二人して「ぐへぇ」っとそこへ座り込む。
「ねえ春、どうして今日早いの?」
私がそう尋ねると、春は胸元をパタパタとはためかせていた手を止めた。
「ヘヘヘ、実は、私も今日花火大会に行こうと思って。だから早目に練習を」
「え、花火大会は一人で?」
「うん、まあね。で、あわよくば山本君に告白しちゃおう大作戦を決行します」
親指を立てる春は無邪気に笑っている。そしてそれを受け、律子の声がした。
『私が絶対ものにしてやるんだから』
「--と、仰ってますが」
春へそのまま伝える。さんざ煽っておいて結局自分でものにしようとしている律子は、やっぱり鬼だ、と思ったが、そこは口にはしなかった。
春はまたしてもムキになり、「このやろー、律子出てこーい」と立ち上がって地団駄を踏んだ。
その後二人で練習をし、ちらほら部員が集まり始める頃、『そろそろ帰って支度しようか』と律子の指示があったので、春と帰路についた。
家へ着くと、準備しておいた浴衣へ袖を通す。紺色の地に撫子があしらわれた落ち着いたもので、帯紐はピンク。と、浴衣がお洒落なのはいいが、イマイチ着方、と言うか帯紐の結い方が分からない。袴の着方であれば嫌と言うほど律子に仕付けられたので、帯の締め方は分かるが、浴衣となると勝手がまったく違う。
序盤こそ優しい(普通の)口調で、『じゃあその“て先”を肩に掛けて』だとか、『次にそこの“て”と“たれ”を交差させて』と教えてくれていたのだが、初心者の私は「え? テトタレを交差?」と、聞き慣れない用語に疑問符を浮かべながら律子に踊らされていた。そしてその優しかった律子様も、後半に差し掛かる辺りから『あー、だからそこの余ってるとこをそっちに! あー、違う!』と苛立ちを露に……していらっしゃった。
が、今の私からすれば、そんな浴衣の着方なんてどうでもよかった。それよりも何よりも、今現在、尚も私が外へ出ている事が不安でならない。律子と入れ替わりたい気持ちは山々だが、頭痛のくる気配がまったく無いのだ。山本光介と一緒に行けば? 何て言ったけど、そうならなくて本当に良かったと思う。
待ち合わせの二十分前に会場へ着いた。夏休みの宿題で忘れかけていたカナタの課題も、この人混みに再びさらい流されてしまいそうでならない。
人混みの合間から、チラチラと屋台の提灯が見える。このゴチャゴチャした雑踏も、その提灯や、何処からか聞こえる囃子の音で、辛うじて気分を保っていられる。
「人混みは嫌いよ」
私が言うと、律子は『バスと電車の方が混んでて窮屈だったわ』と冷たく返した。ごもっともです。
山本光介との待ち合わせ場所へ向かう。「入り口から入って三本目の街灯の下で待ってるな」らしい。ぶっきらぼうな彼の言葉を何度も脳内で再生させる。
三本目の街灯が見えてくる頃、私の心臓は、何故だか破裂しそうな程に鳴っていた。律子のせいだ。彼女の熱が伝わってくる。
そして山本光介の姿がちらりと見えた時、ちょうど背後から声を掛けられた。
「律子!」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには春がいた。無数の花柄が施された、可愛いピンクの浴衣に身を包んでいる。帯紐の朱色も映えて似合ってもいるが、春のキャラに“浴衣”という落ち着いたイメージのアイテムが、とても不釣り合いで何だか可笑しい。
「あ、春、ヤッホー」
「あ、沙美だった」
鋭い。一声だけで判ったのか。私は「え、よく判ったね!」と感激したが、律子とは表情がまったく違うらしい。これまで律子として役作りをしてきたが、沙美として接するだけでそんなに違うか? と、改めて私と律子の違いを知らされてしまう。
「ねえ、律子は今起きてるの?」
「うん、起きてるよ」
「ほう、それじゃあ、律子ー、私も隙見て山本君に告白しちゃいまーす。くれぐれも私にとられないようにねー」
春が下手くそに微笑みながらそう言うと、律子は『はいはい』と、小さい子をあやす様にイタズラに答えた。
春と別れて街灯を目指す。と、不意に人混みの切れ間から山本光介が見えた。人間は好きでは無いが、悔しいかな、そこまで高くない身長に甚平がとても似合っている。そこだけは褒めてあげる。
『あああ、沙美、光介がいるわよ』
「わかってるわよ、てか居なくちゃ困るし」
春とお喋りをして落ち着いていた心臓が、また全速力で打ち始めた。実際、私の“この後どうすればいいんだ?”という不安のものなのか、若しくは律子の“告白をしなければいけない”事による鼓動なのかは分からない。
そして山本光介に対しては、勿論ではあるが、律子として接しなければいけない。ボロが出ない様に気も張っておかなければ。
街灯へ近付くと、山本光介の方から声を掛けてきた。
「よう」
ピクリとも笑みを見せないその顔面にパンチを喰らわせてやりたかったが、そこはこらえて微笑んで見せた。
「お、お待たせ」
「いや、俺も今来たところだから」
そのセリフを聞くや、よくありがちな、「そうは言っても足元にはタバコの吸い殻が沢山」、なんてシチュエーションが過った。どこから派生したものかは分からないが、あの設定もおかしなものである。要は、タバコの吸い殻でその男が待っていた時間を、後から来た女に悟らせ、且つ「待ってないよ、平気だよ」と男の胡散臭い優しさをプンプン匂わせる演出ではあるが、そもそもその女は、タバコの吸い殻を平気で捨てちゃうような男でもOKなのか? 私はドン引きしてしまう。
一応、山本光介の足元を見てみるが、勿論吸い殻は落ちていない。
そして山本光介に促されるままに歩き出す。
人混みの中、山本光介の背中をひたすらに追いかける。たまに首だけをこちらに向けて、私がついて来ているか確認だけはしてくれている。二人で歩き出す際、手を繋ぐかどうかの確認があるか一人でドキドキしていたが、そんなもの、雰囲気すら出さずにサッと歩き始めてしまった。あ、別に手を繋ぎたかった訳ではない。むしろこのイケメンとは手は繋ぎたくなかった、という意味でのドキドキだ。
で、花火を観るスポットへ向かっているのかと思いきや、突然立ち止まり体半分だけこちらに向けると、「かき氷、食うか」とおもむろに真っ黒の長財布を取り出した。私の返事も待たずに再び向き直ると、すぐに注文をした。
メロンとイチゴの二つ。山本光介の手に握られたかき氷を前に、どちらを食べるか、無言で迫られた。どんだけ無口やねん! と平手で突っ込みを入れたかったが、このイケメンがそう言う人間ではないことは重々承知している。
私がイチゴ味のかき氷を「ありがとう」と、一応一声添えて受けとると、山本光介は少しだけ微笑んで見せた。本当に不器用なやつだ。
そして、私のこの右手に握られているかき氷。
……。
……一気に食べていいかな。
がっついて食べたい。
そしたら……。
頭痛くるかも。
とか考えてみるけど、自己的に誘発させた頭痛で、果たして律子と入れ替われるかは疑問だ。でも、やってみる価値は--
『ちょっと、一気に食べようとしてるならやめてよね』
「--!」
バレてました。
私は無言で小さく頷くと、山本光介に近くのベンチで食べるよう促した。
ベンチに座ると、山本光介が珍しく口を開いた。
「これ食って行けば、時間ちょうどだな」
「う、うん。そうだね」
何を恥らんでいるのだ私。無駄に乙女っぽくなってしまったのは、突然こいつが喋ったりするからだ。喋る時は前もって告知しておいて貰いたいものだ。「次週! イケメン喋るの巻!」みたいに。
どうでもいいけど、かき氷美味しい。一気には食べないけど、先程の自論が気になり、少しだけ食べるペースを上げてみる。と、こめかみ辺りに「キーン」と頭痛が走った。
瞬間、これまでにない程の激痛が頭に走った。
「--くっ!」
本当に一瞬だけ。
『やるじゃない』
不意に律子様のお褒めの言葉が聞こえた。
『イチゴ味、なかなか美味しいわね』
どうやら、律子と入れ替わる事に成功したらしい。
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