第5話―6―
陽が完全に沈んだ裏山。暗く静まり返った森林に、車輪の廻る音が吸い込まれていく。自転車を押しているのは勿論律子だが、その自転車は春の物だ。
あの後律子は何も言わずに立ち上がると、自分の自転車ではなく春の自転車を押し始めた。
春をひっぱたいてしまった律子へ、私は「やっちゃったねえ」と静かに言うと、律子は『あんなに涙流してる顔、初めて見たなあ』と、肩を落としつつ空を仰いだ。
律子が何も言わず、只々手のひらを眺めていたあの時間は、本当に胸が締め付けられる想いだった。春が睨み返してきた後のあの泣き顔、あのボロボロに涙を流す春の悲しい表情が私の胸の奥に強く縫い付けられてしまい、ずっと脳内で映し出されていた。
……最終的に、春は律子に何を伝えたかったのだろう。結局律子の「山本光介を本気で振り向かせてみな」という発言で春を挑発する格好となり喧嘩にまで至ってしまったが、春の「やっぱり山本君の中には律子がいるみたいで」という言葉から、自分は身を引く旨を伝えようとしていたのではないだろうか。
が、そんな事をどれだけ考えても、今更答えなんて誰にも分からない。勿論、それはこの律子とて例外ではない。
そして律子は春の家に自転車をそっと置き鍵をポストへ入れると、再び自分の自転車を取りに裏山へと向かった。
八月二一日
『ああ、沙美、どうして日にちが経つのってこんなに早いんだろうね』
律子は少し寝癖のついた頭をポリポリと掻きながら、日めくりカレンダーの二〇という数字の紙をちぎった。
江梨子さんがいなくなり、そして春の頬を張ってから約一週間、私と律子は今の今まで放っておいた学校の宿題と、九月半ばに控えている弓道の試合の事で毎日を忙しく過ごしていた。
自分で言うのもどうかと思うが、律子直々のスパルタもあって、なかなかに弓道の腕も上がってきた様に感じる。一昨日からではあるが、ようやく他の部員との射場での練習も律子に許された。八重子には特に何も言われはしなかったが、里羽ちゃんからは「先輩、急に射型変わりましたね」とツッコミを入れられてしまった。
春はと言うと、あの一件以来部活に顔を出す事は無くなってしまい、律子もその事についてはだんまりを決め込んでいたが、憂い沈んだ様子はあからさまだった。部活へ行く度、『今日も春来てないわね』と溜め息をついていた。
春は今、一体どんな気持ちでいるのだろうか。一番とも言える親友の律子から叩かれたのだから、彼女の気持ちも沈んでいて当然である。気まずいから部活に来られないのではない、恐らく、ショックな気持ちに整理がつかず、律子とどんな顔をして会えばいいのか分からないのだろう。
春の事だから、次の日にはけろっとした様子で「ヤッホー!」なんて道場に顔を出すものだと思っていた。が、それは甘かった。八重子が道場から電話をした事もあったが、「今は誰とも喋りたくないみたいで」とご家族(多分お婆ちゃん)の方からは断られてしまった。
そしてその状況を知ってか知らずか、里羽ちゃんは「青春ですねえ」と楽しそうに私たちをからかうと、律子に弓の先端で脇腹を突かれて悶絶していた。
ともまあ、何とも胸の苦しい日々を過ごして来たわけだが、とにもかくにも今日は二一日、花火大会の前日となる。
『沙美、私今、最っ高に憂鬱よ』
「え、何でよ?」
『ちょっとね……』
寝癖のついた髪にくし目を入れながら、律子はそう言った。
一体何を考えているのだろう。
午後五時半、律子は『私、用事あるから』と早目に部活の帰り支度を始め、後輩たちの大きな「ありがとうございました!」の挨拶を背に、自転車のペダルを重々しく漕ぎ始めた。
まだ西日の差す中、律子が向かった先は春の家だった。
『はあ、私何て言えばいいのよ』
「し、知らないわよ。自分で撒いた種なんだから自分で刈らなきゃ」
律子は何度もドアを叩こうと試みたが、その一歩が踏み込めないらしく、暫く玄関戸の前であぐねいていた。が、いよいよ決心した様子で『よし、いくわよ!』と小さい声で、しかし力強く言うと、玄関を力強く叩いた。
暫くすると少しだけ戸が開き、こっそりと春が覗きこんだ。瞬間、戸は勢いよく閉められ、中でガチャガチャと鍵を閉める音が聞こえた。
『ちょ、ちょっと待ちなさいよ!』
間髪入れずに律子は戸を開けようと試みるが、春も必死な様で、戸を閉めようとする力は律子のそれに劣ってはいなかった。
『くっ、あんたこんなに力あったっけ!?』
が、その問答もすぐに律子に軍配が上がり、戸は開かれた。中では、春が半べそをかいた表情で律子を見つめつつ踞っていた。目をボッコリと腫らせて。
「ご、ごめんね」
春はまたしても涙を流し始めてしまった。その春の言葉を受けるや、律子は『何であんたが謝んのよ!』と上擦った声で一喝した。
私は春のその腫れた目を見るや、何とも悲しくなってしまった。言わずとも解る。やはり、ここ暫く泣いていたのだろう。誰よりも辛く苦しい一週間を過ごしてきたのだろう。こちらまで涙を誘われてしまう。
しかしそれに勘づいたのは律子も同じな様で、私の視界は既にうっすらとぼやけ始めていた。
律子は春の腕を力強く取ると、『行くわよ!』と強引に春を家から引きずり出した。
「ど、どこに行くのさあ!」
春は腰を引きながら必死に抵抗するが、体勢が不利なせいか、ズイズイと律子にその腕を引かれる。
初めは半ば強制的ではあったが、一度外へ出ると、春は律子に腕を引かれるままにトボトボと歩き始めた。
西日の眩しいなか、律子は口を開く事なくその足を進める。
暫く歩くと、その足は見覚えのある所で止まった。
鬱蒼と生い茂った雑草たちに囲まれどっしりと腰を据える大きな塔を目の前に、律子はようやく口を開いた。
『今からあなたに私の宝物を見せてあげる』
「……宝物」
春は赤く充血させた眼を、キョトンと丸くさせた。その瞳には、私の胸をいちいち締め付ける涙は、もう浮かんではいなかった。が、への字に曲がった口と下がった眉が、心が憂いている事を物語っている。
私を連れて来た時と同様、律子は鍵を外して塔を登る。苔の生えた階段を螺旋に踏みながら、黙々と。
扉までたどり着くと、ドアノブを握り一呼吸置いた。何か喋るのかと思ったが、律子はそのまま何も言わず、勢いよく扉を開けた。
忽ちに瞳に飛び込む夕焼け。そのオレンジに照らされるあの時にも見た光景。うん、何度見ても、心が洗われる。
春はその光景を目の当たりにすると、「うわあ」と小さく呟き手すりを両手で掴んだ。
『この景色、私の宝物なんだ』
律子は風で遊ぶ髪を耳にかけながらそう言うと、更にこう続けた。
『ここに連れて来たの、春で二人目なの』
「……」
春は何を言うでもなく、律子の言葉を背中で受けつつ、只々その景色を眺めている。
『……ねえ、何とか言いなさいよ』
「……」
『もう、無視しないで--』
律子がそう言って春の肩にそっと触れると、何故だかは解らないが途端に言葉を飲んだ。
「やっぱり……律子はズルいなあ」
春の声は震え、そして上擦っている。その表情を見ずとも分かる、涙している事が。春は更に続ける。
「こんな宝物持ってるなんてさ。……私、律子の事親友だと思ってたけど、実は律子の事何にも知らないんだよね。私は将来の夢とか秋人の事とか相談してるのに、律子は自分の事、私に何も相談してくれない。いつだってそう、山本君の事だって--」
春がそこまで言うと、律子も手すりに掴まり、春の隣に並んだ。
『ねえ春、私たちが住んでる町、こうやってちょっと高台に登っただけで全部見えちゃうくらいの小さい町なんだ、知ってた? 地球は大きくて、宇宙はそれよりも遥かに大きい。なのに、私たちはこんなちっぽけな町でちょっとした事で泣いて、笑って、喧嘩して……女子高生ってさ、なんだか忙しいよね』
そう言いつつ、春を見て微笑む律子。が、春の横顔は、とても寂しそうな表情をしている。
『……』
律子もそれを見るや、誘われる様に寂しげな表情になり俯いた。
と、思った瞬間、今度は顔を上げ息を大きく吸うと、これ以上にないくらい大きな声で叫んだ。
『春の、バカヤロー! どいつもこいつもバカヤローばっかりよ! 女子高生はやりたいこと沢山あって忙しいんだから! もっと色んな所に行って色んな物買って、沢山映画観て本も漫画も沢山読んで、友達と喧嘩して仲直りして、親友の事もっと沢山知って、そしてもっと、もっと……仲良くなりたいんだからー!』
律子は肩で息をしながら手すりを握り締める。真っ直ぐに夕日を見つめてはいるが、頬に涙が伝うのを感じた。
すると春も大きく息を吸い、律子に負けず叫んだ。
「律子のバカヤロー! 一番大好きな親友に叩かれた気持ちがわかるかー! この一週間毎日泣いてたんだぞー! 私だってもっと仲良くなりたーい!」
春がそう言い終わる頃には、私の目の前に広がる街並みは涙で沈んでいた。律子は、春の頬に手を当てると、『ごめんね、痛かったね』と更に涙を流した。
すると春は、その手を取って両手で握り締め、律子の胸に優しく押し付けた。
「本当に痛いのは叩かれた方じゃない、叩いた人の心の方が痛むんだよ」
少しシリアスな面持ちでそう言うと、涙を流しながらもニコッと微笑んで見せ、「でしょ!」と付け足し涙を散らせた。
いつも頼りのない春が、何だか大人びて見える。
そしてその春の笑顔を受け、律子は『そうかもだけど、今回は、どうかな』と、律子の手を握る春の手を両手で握り返し、春の胸へと、そっと押し付けた。
すると春は、「律子ぉ」と更に涙を流した。
上辺だけの付き合いではない、春はしっかりと律子の事を見ているし、律子もまた、春の事を考え、しっかりと見ている。私を含め未来の人間はどうだろうか。友達の為に本気でその人を叱ったり出来るだろうか。私ならば、気まずい雰囲気になる事を恐れ、極力そうならないように行動してしまうかもしれない。私は、二人を見習わなければいけないようだ。
二人の涙が落ち着く頃には、街並みはすっかり薄暗くなっていた。
律子は星がうっすらと見え始めた夜空を仰ぐと、静かに口を開いた。
『ねえ春、やっぱり光介にもう一度告白してみなよ。嫌味とかじゃなくてさ』
「私は無理だよ。もう山本君の中には律子しかいないから」
春が微笑みながらそう言うと、律子は少しだけため息をついた。そして思い出した様に、再び切り出した。
『ねえ春、地球が出来る確率って、どのくらいか知ってる?』
「え? 知らないけど。急にどうしたの?」
春は空を仰ぐ律子を見ると、目を丸くした。
『地球が出来る確率は、分解した腕時計を学校の二五メートルプールにばらまいて、それが水流だけで組み上がる確率と同じだそうよ』
「……そ、そんな事ってあり得るの?」
『普通だとあり得ないわよ。太陽の位置だってあと数ミリずれてただけでも地球は育ってなかったって言うし。
でも、実際にその奇跡は起きている。そんな奇跡に奇跡が幾重も重なった様な星に、更には私達は立っている。こんな嘘みたいな奇跡を考えると、“夢を叶える”なんてちっぽけな奇跡、簡単に起こせると思わない?』
「ちっぽけな奇跡……か。うん、そうかもね」
春は微笑んでそう言うと「山本君にもう一回告白してやるー」と、大声を出すポーズを取りながら律子をわざと横目で見た。律子も『こいつぅ!』と笑いながら肘でつつき、『私だって負けないぞー』と、春に続いた。
すると春は、「律子ー、大好きだー!」と律子に抱きついた。
『ちょ、ちょっと、離れなさいって!』
「アハハハ! 離れませーん!」
すっかり陽は落ち辺りは暗くなってしまったが、
『……もう、まったくこの子は』
二人の頭上には、
『私も大好きだー!』
星が満天に広がっていた。
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