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ハルかカナタ  作者: 一響
32/71

第5話―5―

『私知ってるんだから、先週の木曜日、男と遊んでたでしょ。それから一週間も音沙汰無しで何してたのよ。一年間も……よくも随分と長い事騙してくれたわね。絶対に許さないんだから』

「あ、あの……それは――」

 江梨子さんは少し困った様子で顔を伏せ、何かしら言い訳を述べようとしたが、律子は間髪入れずに言葉を挟んだ。

『うるさい! 言い訳なんて聞きたくない! ……もういいのよ、お願いだから私たちの事は放っておいてよ。あんたの顔なんて二度と見たくない』

 律子はそれだけ言うと、江梨子さんをキッと睨みつけた。江梨子さんの目からは見る見る涙が溢れ出している。が、すぐに律子を睨みつける様な表情を取り「こ、こっちこそ、あなたの子守はもうごめんよ!」と、言い放った。

 正直、いつもニコニコしていたあの江梨子さんが怒鳴るなんて信じられなかった。

 律子はその言葉を受けると静かに『明日、出て行って。……あなたが出て行かないなら、私が出て行くから』と返し、その場を後にした。

 部屋へ戻ると律子は、ベッドに倒れ込んで先程の言動を早速後悔し始めた。

『ああもう駄目だ、本当は少し泳がせるつもりだったのに、思ってた事全部吐き出しちゃった』

 ……律子にそれを命令されるのが怖かったが、どうやらその気は無かったらしい。が、どちらにしてもやはり、江梨子さんが男性と遊んでいた上に、更には一週間も音沙汰無しで遊び回っていた事は許し難い事だ。もしかしたら江梨子さんにも何か理由が有ったのではと思ってもいたが、律子に対して「あなたの子守はごめんよ!」だなんて怒鳴ってもいた。

 私は、らしくない律子へ念の為「いや、律子は正しかったと思うよ」とフォローを入れておいた。

 そしてそのまま特に何も喋る事なく、眠りに就いてしまった。



『お腹空いたー!』

「――!」

 その日は律子の大きな声で目を覚ました。あまりに突然の目覚ましに、心臓が飛び出るかと思った。今もドキドキしている。

「な、何よ、驚くじゃないの!」

『あらごめんなさい。起こしちゃったみたいね』

 飽くまで淡泊に言うそのセリフには、どこか悪意を感じはしたが、あえて口答えはしなかった。

 律子は一階へスタスタと降りると、一直線に冷蔵庫へ向かった。

『さて、朝ご飯は何を作ろ――』

 途端、律子は冷蔵庫の中を見て止まってしまった。目の前には、「りっちゃんへ」と貼り紙のされたピンクのお鍋があった。それを暫く見つめると、『何なのよ』と、どこか吐き捨てる様に言いながらテーブルへ運んだ。蓋を開けると、中には肉じゃがが入っていた。

『……本当に、何なのよ。どうしたいのよ』

 そう言うとまた、そのまま止まってしまった。暫くすると、その肉じゃがが滲んで見えてきた。すると律子は『あーもう!』と大きな声を出しながら目を袖で拭った。

「律子?」

『何でもないわよ』

 きっと涙を浮かべたのだろうが、律子のその言葉には苛立ちを感じる。

 律子は肉じゃがに蓋をすると、そのまま冷蔵庫へ戻してしまった。そして具材を幾つか取り出し、ちゃっちゃっと簡単な朝ご飯を自分で作るとそれを食べて二階へと戻った。

 食事中、肉じゃがは食べなくて良いのかと言う私の問いには、『いいのよ』の一点張りだった。

 恐らく、それを食べると江梨子さんを許してしまうという事を意味すると、そう取ったのだろう。

 それにしても、昨晩は律子を睨みつけて「子守はごめんよ!」と吐き捨てておいてのこの一変した行動である。もしかしたら一晩寝て冷静になり、律子に許して欲しくなったのかもしれない。普段から優しい人だったのだ、きっとそうだろう。そうなると今晩、江梨子さんから律子に言い寄る事があるかもしれない。だが律子は絶対に許しはしないだろうから、また律子の怒声がリビングに響き渡る恐れがある。

 二階へ戻った律子は、小説を広げてみたりラジカセで音楽を聴いてみたり、何とも落ち着かない様子で時間を潰していたが、部活の時間が迫っても一向に支度を始めなかった。

「ねえ律子、部活行かないの?」

『うん、何だかね、気分じゃない』

 別に私が口出しをする事でもないが、部活のキャプテンがこんな調子でいいものなのだろうか。しかし昨日の今日である、心が落ち着くまでには少し時間が必要なのかもしれない。


 律子は特に何をするでもなく、只々時間が過ぎていくのに身を委ねた。が、時計の針が夕方五時を指す頃、『ちょっと、顔出してみようかな』と、ようやく身支度を始めた。やはり、部活の事が気になって仕方がなかったのだろう。

 外へ出ると、五時にしてはまだまだ高い陽が律子を照りつける。

『あっつー』

 部屋で四六時中扇風機にあたっていた軟弱な体に、鞭を打ちながら自転車を漕ぐ。


 学校へ着くと、正門に春がいた。

「ああやっと来たよこの子は。ずーっと待ってたんだから」

 春はそう言うと、らしくないシリアスな表情で「ちょっとさ、話があるんだ」と続けた。が、その空気に耐え兼ねたのか、最後に「付き合ってちょ」と照れた様に微笑んだ。可愛いらしい笑顔だ。

 すると律子も少し微笑んで答える。

『うん、私も話がある。きっと、同じ事で』

 自転車を押しながら無言で裏山の方へ向かう。車輪の回転し続ける音が、その静かな二人の空間を辛うじて保っている様に思える。

 そしてようやく、春から重い口を開いた。

「律子は、ズルいよ」

 少し微笑みながら、しかしどこか寂しそうに。

『何がよ』

「何がって……何だろうな。全部ズルい」

 こんなにも落ち込んでいる春を見るのは初めてだ。それは律子も同じかは分からないが、彼女は至って冷静に、いつもの様に春へ言葉を返す。

『全部って何よ、意味わかんないわよ』

「全部ったら全部よ。勉強も出来るし弓道だって上手いし性格も良いし……それに山本君にも好かれてるし」

『……』

 律子は少しだけ息を吐くと、言葉を飲んだ。前者は素直に喜んで良いのだろうが、最後のそれは『ありがとう』だなんて返すと春への当てつけになってしまう。春の気持ちを察すると、うかつに返事は出来ないのだろう。

『ちょっと、そこに座ろうか』

 律子は道中のベンチ横に自転車を止めた。

 そして腰を落ち着けると、律子から改めて切り出した。

『春、聞いたわよ。光介に告白したんだってね』

「う、うん。……私も山本君から聞いたよ、律子に、私と付き合うように促されたって」

『そっか……』

「それから、今年の花火大会、律子と行くって事も聞いた」

 春の声から、落ち込んでいる事は明白だった。いつも馬鹿みたいに明るい春が、俯いて淡々と言葉を発している。律子のものか私のものかは分からないが、胸が凄く苦しい。

『……』

「私さ、ずっと山本君の事好きだったんだ。入学式の時からずっと。それからずっと山本君の事見てた。だから……律子の事好きだって事も気付いちゃったんだ。好きな人の事って、見てたら損しちゃうみたいだね、アハハ……」

『……春』

 春は最後に笑っては見せたが、その声は少し震えていた。今にも泣き出してしまいそうな、そんな声だった。

「花火大会も近かったから、イチかバチかで告白してみたんだけど、やっぱり山本君の中には律子がいるみたいで……」

 春はそこまで言うと、最後はとうとう泣き出してしまった。膝の上で思い切り握りしめた拳は小刻みに震えている。

 春の涙がポタポタと落ちる度、私の胸はギリギリと何かで締め付ける様な圧迫感に苛まれる。

 律子は暫く黙っていたが、急に立ち上がった。

『春、光介の事振り向かせてみなよ、本気でさ』

 律子はそう言うと、春を冷たい表情で見下ろした。春は静かに、震える声で答える。

「良いよね、律子は山本君に好かれてるから、何だって言えるもんね」

『な、何よそれ! そんなつもりで言った訳じゃないわよ!』

 瞬間、体がカッと熱くなるのを感じた。昨晩、律子が江梨子さんに怒鳴る時に感じたものと似ている。

「良いのよ律子、私はもう諦めついて――」

 春がそこまで言うと、律子は『あなたねえ!』と、座ったままの春の胸ぐらを掴んだ。


 そして、「--パシン!」という乾いた音が、閑散としたその場にやけに響いた。

 律子が春の頬を引っぱたいてしまったのだ。すると春も勢いよく立ち上がり、ボロボロと涙を流しながら律子を睨んだ。が、すぐに泣きべそをかく様な表情に崩れ「もう嫌だ!」と、律子を激しく突き飛ばしてそのまま去ってしまった。自転車もそのままに。

『……』

 春が去った後、律子は尻もちを着いたまま動かずにいた。

 ついカッとなって春を叩いてしまった律子の気持ちも分かるが、春の“叶う事のない恋心”を抱いた気持ちも分かる。私が春だったら、だとか、もし律子の立場だったら、何て考えても到底正解は出ないだろう。

 律子は春を叩いた手のひらを見つめ、静かに口を開いた。

『沙美……手が、痛いよ』

「……律子」

 律子はそのまま、陽が沈むまでずうっと手のひらを見つめていた。



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