第5話―1―
私の言葉を受けて律子は涙を流してはいたが、そこに何を感じていたのかは分からない。が、いちいちその真意を確認するのも無粋な気がしたので、そこには触れずにそっとしておいた。
律子は暫く空を眺めていたが、思い立った様にスッと立ち上がると、そのまま出掛ける仕度を始めた。
お尻が半分ほど隠れる紺色のチュニックと、太もものゆったりとしたケミカルウォッシュのジーンズ。いかにも八十年代を臭わせるそのジーンズは、ポケットがいくつも付いており、未来では誰も履いてはいないレトロなものではあるが、なかなかに可愛くもある。
そして顎に手を当てて暫く部屋を見渡すと、今度は、ちょっとそこまで、と言うには大きすぎる鞄を押し入れから引っ張り出し、二枚三枚と替えの下着やらトップスやらを入れ始めた。それが終わると、最後に麦わらハットをポフッと頭にのせ、『よし』と鏡を覗き込み、人差し指でトントンと叩いた。小さい紺色のリボンが施された、とても可愛いハットだ。
一階へ降りると、電話横のメモ紙に「父上へ、暫く留守にします。すぐに帰って来るから捜さないでチョンマゲ。」と、筆ペンをサラサラサラと達者に走らせ、それをちぎってバシッとテーブルの上に叩きつけて家を出た。
最寄りの駅までは自転車で向かい、そこから電車に飛び乗って現在に至る。その際、『ああ、電車涼しい』と律子は胸元をパタパタとはためかせていたが、中にいる私は全くその涼しさを体感出来ずにいた。
電車が走り出して十分程経ち、駅を三つも通過したが誰も乗車する事はなかった。何とも熊本の鉄道事業の過酷さを伺わせるが、生憎女子高生の私は、そこへ関与する気はさらさら無い。もし私が将来そこへ就職するような事があれば、この発言、撤回はする。
車窓からは、雨が降った様子もないのに虹が掛かっているのが遠くに見えた。
「ねえ律子、虹の麓には女神様がいて、何でも願い事を叶えてくれるって、知ってた?」
ついさっき本音をぶつけてしまった律子に、こうして何事も無かった様に喋り掛けるのも何だか恥ずかしいやら照れ臭いやらで言い様のない気持ちにさらされたが、律子もまた、何事も無かった様に合わせてくれた。
『何それ? それも絵本か何か?』
「これは小説。短編なんだけどね、私の大好きなお話なの。少し前にラジオで朗読してるの聴いて、それで好きになったんだ」
私がそう言うと、律子は車窓に頬杖をついてその虹を眺めた。
『へえ、そのお話も悲しいお話なの?』
「ううん、これは最後にニンマリ出来るお話」
『読んでみたいなあ、悪魔のやつも、その虹のお話も。……どんなお話か聞かせてよ』
私は映画や漫画、それにアニメ等、あらすじこそは話したりはするのだが、詳しい内容や落ちを話したりする事はまずない。実際に観たり読んだりした方が、ずっと面白いからだ。彼女も本当は実際に読んでみたいのだろうが、それを私に求める辺り、“そうなってしまうのかもしれない”と言うことを、やはり覚悟しているのだろう。
私は二つ返事で「もちろん!」と答えると、虹のお話から聞かせてあげた。
「これはまだ、虹が伝説として語られていた時代のお話なんだけど――」
『うんうん』
それにしてもこの空間に私たちだけと言うのは、車両を丸ごと貸し切りにしているような、そんな気持ちにさせられる。律子と二人旅を満喫出来るのは良いが、朝の事を謝れていないせいか、どこか気まずさがある。
駅での「何処に行くのよ?」という私の問いに、律子は『ちょっとねー』とはぐらかせた為、どこへ行こうとしているのかは分からない。が、買った切符が終点で、『ここで乗り換えるから』と教えてくれた辺り、遠くへ行こうとしている事が伺える。
貸し切りの車両と晴れ間に掛かる虹、そして、少しひねくれてはいるけど最高のパートナー。あの時は色んな事が同時に起き過ぎて、つい本音をぶつけてしまったけど、正直、ぶちまけてしまったせいで嫌われてやしないだろうかと、少し不安にもなっていた。律子は、私の事をどう思っているのだろう。
私の物語の話が終わる頃には、すっかり虹は見えなくなっていた。
貸切の電車に揺られる事二十分、思っていたよりはずっと早くに乗り換え地点に到着した。そしてその駅でもまた、終点の切符を買って電車に乗った。どうやら天草へ行こうとしているようだ。
「あ、天草行くの?」
私が尋ねると、律子は席へ着き髪をなびかせて答えた。
『あら、海は嫌い?』
「いや、嫌いじゃないけど、まさか今から天草に行くなんて思ってもいなかったから」
『私の思い出の場所なの。多分、課題にも関係しているかも。沙美にも知っておいて欲しいのよ、私が、彼の事を好きになった時の事』
一瞬、「彼」と聞いて誰の事だか分からなかったが、すぐに「山本光介」の事だなと、ピンと来た。
「うん」
私が小さく答えると、律子は“私がそれに勘付いた”事に気付いたのか、こう続けた。
『私まだ、諦めてないから。やっぱり、春に取られるの嫌だから。もう、自分の気持ちに素直に生きるって決めたから。……どこかの誰かさんが、そう教えてくれたから』
律子が、本当は春にそう成って欲しいと願っていたか否かは分からない。が、律子がそう考えてくれるようになったと言う事は、私の訴えが彼女を動かしたのだと、そう自意識過剰になっても罰は当たらないだろう。
私は嬉しくなり、少し明るめに「うん!」と返事をすると、律子も『よし、良い返事だ』と乗じてくれた。
そして電車を乗り換えて一時間が経とうとする頃、ようやく目的の駅へ着いた。電車を降りると、磯の香りと波の音がする。周りを見渡しても車は一台も走っておらず、ここだけ時間の流れがゆっくりになっている様な、そんな気持ちにさせられる。
律子がチラッと腕時計の時刻を確認する。時計の針は一時前を指している。そしてその駅から少し歩いた所のバス停へ行くと、今度は時刻表でバスの時間を確認し始めた。
「ねえ、まだ行くの?」
『ええ、まだ海水浴場は先だから』
どうやら海水浴場を目指しているらしい。もうとっくに海は見えていたし、駅の終着だったので少しウンザリしてしまった。
『で、ちょっとバスまで時間あるみたいだから、お昼にしよっか』
私は律子のその言葉に「やったー!」と声を上げたが、すぐにご飯を食べるのが律子だという事に気付き、これまで電車に揺られていた疲れがどっと肩に伸し掛かってきた。
「何でご飯食べるのが律子なのさー」
『そんな事私に聞かないでよ。私だって沙美に食べさせてあげたいわよ』
律子はそんな事を言いながらも、近くの小さなお店で焼鯖定食を前に、『いっただきまーす!』と満面の笑みで手を合わせた。
「ねえ、今のわざと?」
『え、何の事? あー美味しい!』
「……」
その後律子は、美味い美味いと、言わなくてもいい事を何度も繰り返しながらそれらを平らげた。結局私の願いも虚しく、一口もその味を楽しむ事は出来なかった。
『ご馳走様でした!』
律子はそう言ってお膳をカウンターへ戻すと、厨房に立っていたおばさんが満面の笑みでそれを下げてくれた。
「あらあら有難うね、そこに置いたままで良かったのに」
『いえいえ』
「あなた一人なの? ここいらじゃ見ないねえ」
『はい、熊本から来ました。ちょっと海水浴場に』
「海水浴場だったらもう少し行かなきゃだね」
おばさんはニコニコと律子とお喋りをしているが、奥にいるおじさんは黙々と鍋を振るっている。
『そうなんです。バスであと小一時間行かないといけないんです』
――!?
こ、小一時間ですってー!
「ちょっと律子! そんなに時間掛かるなんて聞いてないんですけど!」
私がそう言うと、律子は『そりゃそうよ、だって言ってないんだもん』と小声で返した。
……。
どうにも、由美もしかり、まったくもってまったくな女だ。
律子は暫くおばさんとお喋りをすると、深々と頭を下げ、そのお店を後にした。
外に出ると相変わらずの太陽が照り付けた。律子は『あっつーい』と顔を手で覆った。電車へ入った時の涼しさを感じられずに悔しい思いはしたが、この太陽の熱さを回避出来ている事は、非常に喜ばしい。
バスに乗ると、律子は一番後ろの窓際の席に座った。
窓から流れる海の見える風景はゆっくりと穏やかなもので、街中で流れる時間の早さが嘘の様に感じる。
バスに揺られる事約一時間、電車同様、乗り込んで来る客は一人もいなかった。それどころかこの一時間、車窓からは人っ子一人見かける事すらなかった。途中私が「今この世界にいるのが、私たち二人だけだったりしてね」と言うと、律子に『運転手もいるから三人ね』と一蹴されてしまった事を除いては、今のところ楽しい二人旅と言える。
バスを降りる頃、時計の針は二時を回っていた。律子は『どうしようかなあ』と腕時計と数秒睨めっこを続けると、目当ての旅館があったらしく、『先に落ち着くか』とボソッと呟きそこへ歩き始めた。
「ねえ律子、その旅館はもう予約してあるの?」
『え、予約してないけど。……やっぱり予約してないと駄目かな?』
「……あ、いや、どうかな」
珍しい。泊まる予定で数着の着替えを持って来ていたのだろうが、まさかこんなに遠くまで出てきておいて、泊まる宿を段取っていないなんて。まあ確かに、ここへ来るまでに人を見ていない事を考慮すると、簡単に宿は取れそうではあるが。
律子は『しまったなあ』と不安気な声を上げつつ、旅館までの足を急がせた。
が、旅館へ着いてみると、あっさりと部屋を取る事が出来た。
仲居さんに部屋まで案内されると、律子は荷物をドサッと置き、『うわーすごーい! ねえ沙美見て、海よ海!』と大声を上げて窓際まで走った。
仲居さんがまだそこにいる事も忘れて。
「……あ、あの、それではお食事は六時半にお持ちしますので」
仲居さんの言葉に律子は、『ひっ!』と上擦った悲鳴にも近い声を上げた。
『アハハハ、すいません、ついテンションが上がってしまって』
「……あ、いえいえ、大丈夫ですよ。……アハハ。……それでは、失礼します」
仲居さんを見送ると、律子は大きく肩を落として息を吐いた。
『うわー、死ぬかと思った! 恥ずかしい!』
「気緩め過ぎよ」
律子はそうは言いつつも、尚も楽しそうにはしゃぎまくった。
暫く窓際の椅子に座って海を眺めていると、『沙美、晩御飯食べたら海行こうか』と、突然切り出した。
「え、七時くらいになっちゃうよ」
『暗い方が良いでしょ』
律子は楽しそうにそう言うと、いつの間にそんな物を入れたのか、花火を鞄の中からチラッと覗かせた。
「え、もしかして行かなきゃいけない所って、ここに花火しに来ただけ?」
『まさか、花火はついでよ、ついで。……まあ、花火もあった方があの時に近づけるってのもあるけど』
「あの時?」
『行かなきゃいけない所』『もしかしたら課題に関係しているかも』。律子の言っていた場所は、もうすぐ目の前にあるのだろうか。こんなに遠くまで来て、一体私に何を見せようというのか。
そして律子の言う“あの時”と言うのは、一体何の事なのだろう。
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