第4話―8―
頬を伝うモノが、もう涙なのか雨なのかまったく分からない。雨に混ざって涙が分からなくなっているのではない。涙に混ざって、雨が分からなくなっているのだ。そのくらい涙が溢れ落ちている。
私がそこでずうっと泣いていると、律子の鼻をすするだけだった音が、いつの間にか嗚咽混じりのものとなっていた。
そして、涙がある程度引くまでその場に留まり、山を降りる際に聞いてみた。あの事を。
「ねえ律子……春には、言ってないの? 山本光介に告白された事」
『言うわけないじゃない、そんな事』
律子は吐き捨てる様に言った。
「何でよ。友達に相談とかするでしょ、普通」
『普通……か。普通に青春して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供を産んで愛して、何でもない普通な事に幸せを感じて……それなら良かったんだけどね』
「……ごめん」
『いいのよ。で、春に言わなかった理由は……もう沙美にも解るでしょ』
律子はそう言うと黙ってしまった。
まあ、大体の予想はつく。恐らく、“山本光介と実ったところで、自分の命は短い”そう考えたのだろう。だから相談をしたところで虚しくなるだけ。
どうせ無くなってしまう幸せならば、悲しい想いをするのであれば、そんなもの、はなから無い方がいい。現に私がそうだ。正直律子と別れるのは辛い。が、この辛さも、律子と出会わなければ生まれる事のなかった感情。
いくら一緒にいる時の楽しみが、別れの悲しみの何倍、何十倍だとしても、その悲しみが最後にきてしまう故、全てがそれで覆されてしまう。いや違う、逆だ。楽しかった思い出が出来れば出来るほど、別れが辛くなるのだ。一緒に過ごした日々が楽しくなければ、別れもさして悲しくはないはず。人と思い出を作る代償は、計り知れないのかもしれない。楽しかった出来事を「あの時は楽しかったなあ」と微笑む事が出来るのは、その悲しみのずっと後だ。
だが、恋愛の一つも知らないというのは、これまた悲しい。私が言うのもなんだが、律子には、恋愛の楽しみを味わって欲しかった……。
その後学校へ戻る途中、『今日はもう帰ろうか』と律子に言われたので、私は小さく頷いた。この重々しい気分では、部活になんて身が入らない。
学校へ戻り駐輪場から道場の方を見ていると、まるで私がそこにいるのを知っていたかの様に、里羽ちゃんがドタバタと窓際まで走ってきた。そして、私を見るや両手こぶしを胸の前で、グッと握ると、うん、と頷いて見せた。まるで私へ「頑張れ」と言ってくれている様に。そんな里羽ちゃんは、私の少し横を指さして「それ、それ」と口を動かして見せた。
指さす先を見てみると、私の自転車に見覚えのない傘が掛けてあった。取手を見てみると、「Rih」と書かれた可愛いタグが下がっていた。一瞬何の事だ? とも思ったが、「ああ、“リウ”か」と彼女の名前なのだなと理解した。彼女の自転車を見てみると、里羽ちゃんの自転車にも傘が掛けてあったので、どうやら私の為に持って来てくれた傘の様だ。
私が傘を持って来ない事を知っていたのか? 秋前流夏里羽、恐るべし。
私は里羽ちゃんへ「ありがとう」と口を動かし、バイバイと手を振った。里羽ちゃんも手を振ってくれた。
自転車を押しながら傘を差して歩く。既に体がずぶ濡れになってはいるものの、こうして傘を差していると、体が温度を取り戻していくのがよく分かる。
そして目の前でヒラヒラと踊る先程のタグ。この「Rih」という表記を見て、何故「Riu」じゃないのだろうと考えていると、少し前に「“S”は使えなかったんですけどね」と里羽ちゃんが言っていたと、春つてで聞いた事を思い出した。そして律子に「岬野さんには会ったか?」ということも聞いているらしいし、律子へ白倉病院を勧めたのも、胸の手術を勧めたのも里羽ちゃんだという。それに「ネバカ」という単語も知らなかったし、私の中に別の人格がいるのでは、と勘ぐってもきた……本当に侮れない子だ。
それにしてもこうして落ち着いて歩いていると、さっきの「悔しさ」の犯人が誰なのかが徐々に分かってくる。山本光介、春、そして律子、一体誰が犯人なのかと考えていたが、その犯人は自分だった。「律子には上手くいってほしいのに」という、自分の思惑通りにいかない事への悔しさだ。
私の命とも言える課題、それよりも大切にしたい律子の幸せ。そしてそんな律子が自分の幸せよりも願う春の幸せ。
私のぐちゃぐちゃだった頭の中はいつの間にか空っぽになっており、今回の山本光介の件が、誰をどう助けるべきかという当初のそれから、私をまったく遠ざけていた。
家へ着くと、すぐにお風呂を沸かして体を暖めた。
お腹は空いていたが、何も喉を通りそうになかったので、お父さんの「飯だぞー!」もパスした。ベッドに倒れたまま、もう何もやる気が起きない。何だか、律子とお喋りする事すら億劫に感じる。と言うより、今喋り掛けられても、上手く返事をする事が出来ない様に感じる。
と、そんな気持ちとは裏腹に、律子は喋り掛けてきた。
『今日は、何だかごめんね』
「私……律子と付き合ってほしかった、山本光介」
『うん、ごめんね、課題、駄目になっちゃって』
「課題とかじゃなくて! ……課題とか……そんなんじゃ、なくてさ」
ずっと我慢していた涙が、また出てきた。律子に悟られたくなかったので、顔を枕に埋めた。もう最悪だ。
『あ……ごめん』
律子は私の課題を、やはり気にしてくれてはいた様だが、私が律子の事よりも何よりも、自分の課題達成を願っていると思われていた事にショックを覚えた。確かに山本光介が去っていく時、その事が頭を過ったのは事実だ。だから言い訳なんてしない。けど、
--ちょっと、寂しい。
どうしてあの時、山本光介を引き止めた私を制止したのか。どうして自分の事よりも春と山本光介をくっつけようとするのか。そして、私が律子の事を、こんなにも考えている事にどうして気付いてくれないのか。
もう律子の考えている事が解らなくなってきた。これだから嫌いだ、頭のいい人は。もっと直球に生きればいいのに。思った事をやればいいのに。言えばいいのに。言えなきゃ私が言ってあげたのに。
律子が出来ない事は、私がやってあげるのに。
……。
……もしかして私、あの瞬間に山本光介を引き止める為にこの時代へ来たんじゃないのかな。課題とかそんなものは、カナタが私をここへ飛ばす為にこじつけた、単なる理由みたいなもので、本当はそんなもの要らなかったんじゃないのかな。
カナタは律子に見られるとまずいとか言ってたから、何かしら縁は有りそうだし。
まあそんな事、もうどうでもいいや。
課題は失敗だし律子の恋愛も失敗。もう、全部ダメになっちゃったよ……。
律子、何だかあなたの事……嫌いになっちゃいそうだよ。
私はそのまま、律子の『沙美、泣いてるの?』という問いを無視して、口をへの字にしたまま寝支度を整え、再びベッドに就いた。
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