第3話―10―
『おはよう。目、こんなになっちゃった』
私が目を覚ますと、目をぼっこりと腫らせた律子が、鏡越しの私へと少し照れ笑いをして見せた。鏡の横の置き時計は12時30分を指している。
あの江梨子さんの一件の後、律子は帰るなり部屋のベッドへ倒れ込み、一晩を泣き明かした。終始嗚咽混じりに、『沙美ぃ、私もう嫌だよぉ!』だとか、『もう無理ぃ!』と続けるばかりで、私はやはり何と励まして良いのか分からず、それとなく声を掛ける事しか出来なかった。
律子の目からは、まるで手のひらから沢山のビー玉を一気に溢したかの様に涙がボタボタと落ち、枕が濡れてしまうのに時間はかからなかった。
その涙の裏には、バスに跳ねられてしまう事への悲しみも含まれていたのかもしれない。ほんの数時間前まで笑顔でデレデレしていた律子、そんな彼女の泣き叫ぶ姿、嗚咽を目の当たりにし、私の心は、何か大きな鉛でも飲み込んだかの様な、何とも正体不明な息苦しさに苛まれた。
不甲斐ないというのが正直なところで、“こんな時こそ”という大事な場面では、結局私は何もしてあげられないのだなと、そんな風に感じた。こういう時、学校の先生のように教養のある人なら、「~だから大丈夫だよ!」だとか、「きっと~だから!」と力強く、だが優しく抱擁してあげられるのかもしれない。
「う、うん、おはよう」
律子も恥ずかしそうではあるが、私は私で、何の力添えも出来なかった事に、今どんな言葉をかければ良いのか分からないでいた。
『何だか、ごめんね。昨日は、恥ずかしいところ見せちゃったね』
「まあ、色々あるよね」
『……沙美がいてくれて良かった。もう本当に私、バラバラになっちゃうんじゃないかと思った。……ありがとね』
突然お礼を言われて驚いたが、そうだった、忘れていた。自分では何もしてあげられないと感じていたけど、こういう時って、誰かが傍に居てくれるだけで、そこに居てくれる、ただそれだけで凄く安心するんだった。
中学二年生の時、私の一世一代の告白が見事に玉砕され、私がボロボロに泣き崩れて帰った際、部屋に由美が来てただ隣に座ってくれてたっけ。
最初は泣き顔を見られるのが恥ずかしくて部屋に入れるのも拒んだけど、「まあまあ」と由美は口少なにずいずいと入ってきた。そしてベッドに倒れ込んだ私の頭を、軽くポンポンと撫でたのだ。何だかんだで、あの時の頭ポンポンは魔法だなと感じた。
だが今は生憎、“私と律子の距離が近すぎる”為、律子の頭を撫でてあげる事は出来ないが、私は「こちらこそ、いつもありがとう」と告げた。
「ところで律子、聞いても……いい?」
私が、何がとは言わずに含ませた様に聞くと、律子は察したのか、少し微笑みながら『何でもどうぞ』と答えた。
「あの、涙の、真相を教えて頂きたいのですが」
ついつい改まってしまったが、それに乗じて、律子はわざとらしく口をへの字にし、鏡越しの私を指差した。
『こら君、どこの新聞社だね、まず会社を名乗らんか』
「え? あ、あの、えと、よ、読売です!」
『読売か、まったく、最近の記者はなっとらんな! ……ププッ! アハハハハ!』
「アハハハハ! 何それ!」
ああ、楽しい。やっぱり律子は最高だ。
二人して爆笑し、笑い疲れた頃、律子は微笑みながら語り出した。
『何だかね、あの人がお父さんとは別の人と楽しそうにしてるのが悔しくてさ。んー、と言うか、厳密に言うと、私が悔しいんじゃなくて、お父さんが悔しい想いするのかなって考えたら、何だかそれが悔しくなっちゃってさ。
あと、あの人にプレゼント買ってあげようとしてた自分も切なくなってきたりして、それで涙止まんなかった。
でもまあ、もう少し遅かったら私も仲良くなっちゃうところだったし、まだ救われた方なのかな、なんても思ってる。
……私たち親子、騙されちゃってたんだね』
律子の言葉は徐々にトーンダウンし、最後にはすっかり落ち込んでしまっていた。
「私もだよ!」
『え?』
「私も騙されてた!」
『フフ、そうね、ありがとう。やっぱり沙美、あなた最高よ』
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8月10日、雨。
先日降った大雨により、北浦の弓道部員たちは道場の雨漏れ対応に追われていた。新築だと言うのに、この建て付けの悪さには脱帽である。
あの江梨子さんの一件、そして律子の涙の日から四日経った今日は、いよいよ悪魔のパジャマパーティーの開催日となっている。
江梨子さんはあの日以来、何故だかぱったりと家に帰らなくなってしまった。それに際して、特にお父さんは何も言わないし、律子から触れる事も無かった。
この一件、ただでは済まない様な気がする。胸の奥に、どうも何かが引っ掛かって仕方がないのだ。それが何かは分からないが、私の“嫌な予感の的中率の高さ”を考慮するに、とても明るい未来ではない事が予想される。
「律子、ボーっとしてどうしたの? 頭痛いの?」
「あ、春。ううん、ハハハ、大丈夫」
そしてそんな悪魔の一日を迎えたのは、律子ではなく私だった。昨日の夜、寝るまでは律子が表に出ていたので、お泊まり会は律子に任せられそうだと安心していた矢先の入れ替わりだったので、朝は本当に憂鬱だった。
春子は私の答えを聞くや、「こらそこ! ちゃんと働けー!」と雑巾をブンブンと振り回しながら、他のお喋りグループの方へと駆けていった。
「元気だなあ、今日のお泊まり会のせいかも分からないけど、いつもよりテンション高いね」
『まあ、先週から楽しみにしてたみたいだしね。ところで沙美、誰か分かった? 未来には居ない人』
「うーん、それがイマイチ」
『思い当たる節なし、か。まあ、期限は来年の1月3日だから、ゆっくり捜せばいっか』
律子のその嬉しそうなトーンから察するに、笑顔で言っているだろう事が伺える。恐らく、“その人”が見つかってしまえば私が未来へ還ってしまう為、早目の進展は望んでいないのだろう。
そうだ、期限は1月3日。上手く律子を回避させてあげられるか、もしくはこの日までに、“誰か”の命を救う事が出来れば還れるし、失敗すれば律子は死亡し、私もカナタとの約束通り魂を持っていかれてしまう。
泣いても笑っても、あと半年弱だ。
私が律子として1月3日を迎え、その日の事故を回避し、未来で健在の律子に再会する。私の物語のエンディングは、これで決まり。
“課題”で、律子を何としても助け出す。
カナタが、私を律子の中へ入れた理由もそうなのかもしれない。
以前、“トキア・カナタ”という名前を聞いた時、律子は『トキア・カナタ……つい最近どこかで聞いた様な……』と言っていた。これは私の勝手な推測だが、カナタと律子には何か縁があるのかもしれない。それで、私に律子を助けて欲しくてそうしたのだろう。
そして岬野さんの“死を覚悟して”というのは恐らく、薬を飲まずにわざと頭痛を引き起こし、私と入れ替われという事。あの頭痛は、本当に死ぬかと思う程に痛かったから、この考えは間違えてはいないはずだ。
律子、私に任せておいて。全部分かったのよ。必ずアナタに1月4日の朝日を見せてあげる。
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とは言っても、まず助けて欲しいのは私の方で、部活を終えた今現在、やはり私が表に出たまま、例の仲良し三人組で春子の家へと向かっている。
春子と八重子は、自転車を漕ぎながらお喋りをしている。私はその後ろをゆっくりと漕ぎながら、付かず離れずの距離を保ちつつ、律子を何とか引き出そうと頭をポカポカ叩いていた。
ああ、もう本当にヤバい。私にもそれなりの覚悟が必要だという事なのだろうか。
神様、助けて下さい。
と、そんな事を願っていると、春子の声が私を呼び止めた。
「おい、どこへ行くー」
『ちょっと、何ぼけっとしてるのよ。着いたわよ。ここよ』
考え事をしていると、私は自転車を停めた二人を追い抜き、いつの間にか春子の家を通り過ぎていた。
そう言えばおばあちゃんちに行った時も、考え事をしていて由美に小突かれた。集中力が有りすぎて、それ故に注意力が無い。
……それってどうなんだろう。
まあそれはさておき、春子の家はここか--
「--!」
春子の家を見た瞬間体が凍りついた。
春子と八重子は先に家に入って行ったが、私の体は、尚も自転車を支えたまま動かないでいた。
『どうしたのよ? 早く入りなさいよ』
「……ね、ねえ律子、春子の家って、ここなの?」
『え、そうだけど。……て、“春子”って何よ』
その家に掛けてある表札は「田中」。お母さんの卒業アルバムにも載っていた名前だ。つまりは旧姓の「田中」。背筋に冷たい何かが走ると同時に、全身に寒気が渡り、一気に鳥肌が立つ。
そう、その家は、あの、おばあちゃんちだったのだ。
そしてまた“嫌な予感”が過る。今しがた律子の言い放った『春子って何よ』という言葉。そう言えば、律子からは直接“春子”という言葉を聞いた事がないし、よくよく考えてみると、私も直接律子に“春子”と言ったのはこれが初めてである。
それに、私が“春子”と認識したのは、道場で八重子が「は、る、こ、ちゃん」と言っていたからだ。今思うと、あの時八重子は茶化す様な言い方だった。あれはもしかしたら、ニックネームの「春」にわざと「子」を足して、からかっていたのかもしれない。
更におばあちゃんの言葉を思い出す。
--ああ、この鏡ね。桜子……ああ、お母さんの妹がねえ--
「ね、ねえ律子……春の名前って、春子じゃないの?」
恐る恐る聞いてみる。
『え、桜子よ。田中桜子。言ってなかったっけ?』
やっぱり! 「桜子」の「桜」にちなんで、ニックネームが「春」なんだ!
そう気付くと同時に、お母さんが言っていた言葉がリフレインされた。
--そう言えば沙美も昨日聞いてきたわね。うん、いたよ。妹がね。昔交通事故で死んじゃったのよ--
「--!」
そんな……春が、明るくて元気で可愛い子が、これから医者になろうとしている子が、死んじゃうなんて。
……。
「律子……見つけた。春だ」
『え、何がよ?』
「この時代には居て、未来には居ない人間よ。春が……そうだ」
『……な、何言い出すのよ急に。悪い冗談はやめてよ』
冗談か、私もそう思いたい。何かの間違いであって欲しい。でも、確かにお母さんは言っていたのだ。
交通事故で亡くなるって。
「--!」
瞬間、お母さんの、もう一つの言葉も思い出された。
--それから、友達も交通事故で亡くしてるのよ--
友達……って。
更に岬野さんの手紙。
――バスに跳ねられて亡くなるのです。――
……律子の事だ!
私の推測は、つじつまも合っていて完璧だと思っていたが、そんな物、所詮は机上の空論でしかなかったようだ。
自分の中で組み立てていた精到な積み木が、音を立てて崩れていくのを感じた。
第3話-完-




