第一章 寒いので何か着るものを貸して下さいぃぃぃ!
「ついにに来てしまった」
部屋のような、浴室のような、そんな場所で裸の女性と向き合いながら、綾本剛一朗は独り言ちた。彼が今ここにいるのは三十歳の誕生日を翌日に控え、自身の価値観をコペルニクス的に大転換させた結果からだ。
その大転換は昼休憩に起こった。コンビニにで買った冷やし中華とアメリカンドッグを平らげ、コーヒーを啜っている時――「俺、明日でヤラミソじゃん!」という重大な事実に気付いてしまったのだ。このヤラミソ――童貞のまま三十路を迎えるという現実が、素人童貞を唾棄すべき存在としていた剛一朗の価値観をコペルニクス的に大きく変えたのであった。
仕事を終え、風俗に詳しい友人にオススメの店を聞き、ATMでお金を下し、やって来ました! 夢の石鹸王国! ソープランドに!
「緊張してるんですかぁ?」
「ひゃ、ひゃい!」
あまりの緊張で剛一朗は返事すらまともにできないほどの状態になっていた。
こんな状態でイチモツはちゃんと機能するのだろうか――剛一朗のそんな心配を察したのか、女性は「ふふ、大丈夫ですよ。楽にして下さいね」と優しく微笑みかけてくれた。
その微笑で緊張が和らいだのか、その後は順調に事が進んでいった。
ところが、いざ挿入という時に異変が起きた。最初に気付いたのは女性の方だった。
「え? 光って……る?」
「光ってる?」
復唱しながら剛一朗は、女性の視線を追う。その先には――
「えええええ! 光ってるぅぅぅ!?」
――煌々と輝く己のイチモツがあった。その光は次第に強く、広範囲になっていき、やがて剛一朗の全身を包み込むにいたった。
(ど、どうなってる? 何故光る? 童貞をこじらせすぎたとでも言うのか?)
剛一朗が考える間にも光は強さをまし、目を開けていられない程になる。さらに「お客様!」と叫ぶ女性の声もだんだんと遠くなり――ついには一切の音が消えた。
どのくらいの時間が経ったのだろう。いつの間にか眩しさは落ち着き、剛一朗はゆっくりと目を開く。
「こ、ここは……」
何もない空間。自分の体や髪の毛、そういった色以外は一切が白い空間。あまりにも白一色なので、そこが広いのか狭いのかすら分からない。ただ、お尻や足の裏に地面の感触がないので、浮かんでいるんだな、と思うことはできた。だがそれも束の間――
「うお! 吸い込まれるぅぅぅ!?」
突如黒い穴が現れ、吸い込まれまいともがいてみるが、その努力虚しくあっけなく吸い込まれてしまった。視界が黒一色に染まったかと思うと、再びまばゆい光に包まれていった。
●
「げ! 何で裸なわけ?」
黒い穴の先で剛一朗を待ち受けていたのは、着物姿の少女だった。手には装飾が施された杖のようなものを持っている。汚いものを見るような目でこちらを見ている。整った顔立ち――美少女と言って良い――だからだろうか、より一層汚いものを見ている感を強く感じられた。
(おお、可愛い――じゃなくて! ここは一体?)
見渡すとそこは部屋のようだった。とは言っても先程まで居た浴室のような感じはなく、生活感のある、人が普段から住んでいるであろう部屋であった。
「お店のサービスか何かですか?」
今広がっている風景は壁に移されたプロジェクションマッピング、普通の部屋で童貞卒業を体験できるといった趣向だろうか? 先程光に包まれ黒い穴に吸い込まれたのも全てソープランドが用意した演出――理解不能の事態に対して剛一朗はそう結論づけた。
「いやあ、俺の童貞卒業のためにこんな演出をしてくれるなんて……最高っす!」
男泣きする剛一朗を無視して、少女は「おかしい! カタログの通りにやったのに!」と何やら独りで騒いでいる。
「あ、あの、ミドリさん?」
ミドリさんとは、先程まで剛一朗と対面していたソープ嬢である。あまりに雰囲気――というか顔立ちから何から全てが別人なのだが、それもプロジェクションマッピングの類なのだろうと剛一朗は思うことにした。
「は? ミドリ? 誰よ、それ」
「ミドリさんじゃない? では一体君は? チェンジしたつもりはないんだけどなあ」
「あんたこそ誰よ? どう見たって黒騎士じゃないわよね? 写真と違いすぎるし、黒くないし、ってか裸だし!」
少女は手元の本と剛一朗の顔を交互に見ながら言った。
(店のサービスではないのか? それにしても、こんなきつそう性格の美少女の前で全裸なんて……すっげえ興奮する!)
「げえ!? あんた何勃ててんの? キモイ……」
理解できない状況であっても、一度スイッチが入ってしまうといきり勃つイチモツを制御することはできない。それが男。否、童貞の宿命である。ちなみに剛一朗はマゾではないのだが、素質があるのかもしれない。
「はぁはぁ」
剛一朗はイチモツをより一層いきり勃たせ、少女の方へ近づいた。
「キモイっつってんだろうが!」
少女が手に持った杖を下から上へとスウィングする。
それが剛一朗のイチモツへと直撃する。
「―――――」
剛一朗は言語化不可能な叫びを発し、そのまま意識を失った。
●
「なるほど。つまり俺は間違って召喚されたということか」
ほどなく意識を取り戻した剛一朗は少女――瀧村椿から聞かされた事情を端的にまとめた。
召喚士を養成する学校に通う椿は、授業をサボりまくったせいで卒業できずに留年が決定した。その留年を回避する方法が一つだけあり、そのために強者を召喚する必要があった。だが授業をサボりまくっていた椿にまともな召喚ができるわけない。そこで彼女はてっとり早く強者を召喚するために、狙いすましたように家へとやってきた飛び込みのセールスマンからカタログを購入した。その時のセールスマンとのやり取りを椿は淀みなく剛一朗に語ってみせた。
〈なになに? 強者を召喚したい? そういうことならワタシにまかせるアルネ! 簡単に最強の戦士クラスを召喚できちゃうスーパーなカタログがアルネ! この黒騎士なんて超絶おすすめネ! デモ、このカタログとってもとっても高価なものアルネ……だけど、ワタシ困ってる美人を放っておけないネ。特別に九割引きのスペシャルプライス! 五万円で譲るネ!〉
〈買うわ!〉
「バカだろお前。何でやり取りを一言一句覚えられる頭があるのに買っちゃうかな。大体〈アルネ〉って怪しすぎるだろ!」
「うるさい! 裸の奴に言われたくないわよ!」
さすがにもう勃ってはいないが、剛一朗はまだ裸であった。
「裸なのはしょうがないだろ! 俺はやっと童貞を卒業できるところだったんだぞ? 早く元の場所に戻してくれよ!」
「は? 無理に決まってるじゃん? そりゃこのカタログには召喚したものを元の世界に戻す方法も書いてあるわ」
椿がカタログを開き、剛一朗の方へと向ける。『召喚』という文字がやたらたくさん書いてあるが、剛一朗に理解できる内容ではなかった。だが、方法が書いてあるならその通りにやってくれれば――
(いや、待てよ……)
あることに思い至り言葉を失った剛一朗を見て、椿は「分かったようね」と何故か勝ち誇ったように続けた。
「私はこのカタログに書いてある通りに召喚の儀式をやったわ。いくら授業をサボっていたって、書いてある通りにやることくらいは簡単なのよ。レシピを見ながら料理をするようなものなんだから。自慢じゃないけど、実技テストの時に前の子が使った術式を、一度見ただけでその場でそっくりそのままやったことだってあるのよ? それに比べたら文字で書いてあることを読みながらやるなんて超簡単なわけ」
だからその頭があるなら初めから真面目にやれよ、と言いたいのをグッとこらえ剛一朗は「つまり?」と先を促した。椿の言いたいことは概ね分かってはいるのだが、確信が持てなかった、いや、持ちたくなかったからだ。
「書いてある通りにやったんだから、本当なら黒騎士ゼビルヴィッシュとかいうのが召喚されるはずだった……でも、召喚されたのは冴えない裸の童貞野郎だった。ってことは、戻す術だって書いてある通りにやれば、書いてあるのとは違う結果になる。あんたはきっと、元の世界じゃなくてとんでもないところに飛ばされるわ。召喚しちゃった手前、さすがにそんな無責任なことはできないわ」
口の悪い椿だが、意外と責任感は強いようだ。そのギャップに萌えそうになりながら剛一朗はあることに気がついた。
「寒い!」
「そりゃ冬だから寒いのは当たり前でしょ。バカね」
辛辣な椿。
部屋の中なので暖房は入っているようだが、それでも一度認識してしまうともう耐えられなかった。よく見れば窓の外は猛吹雪だ。今は夏のはずなのだが……
「なあ、今って八月一日だよな?」
間違いないはずなのだ。八月二日は剛一朗の誕生日で三十歳になる。ヤラミソになる前日に童貞を卒業すべくソープランドへ行ったのだから。
「いいえ、今は二月一日よ。どうやらあんたの世界とここは多少時間の流れが違うみたいね」
あんたの世界? それはどうやらよく比喩で使う「住む世界が違う」というわけではなさそうだ。第一、剛一朗にとって召喚と言えば漫画やゲームの話、ファンタジーなのである。だが、目の前の少女は当たり前のように召喚のことを語っているし、授業でなんてことも言っていた。その上、自分は一瞬で服さえ着る間もなく見知らぬ部屋にやってきているのだ。プロジェクションマッピングだなんてことはもう思えなかった。どうやらここは――
「異世界、だっていうのか?」
「まああんたから見ればそうなるわね。ここはあんたのいた世界とは別次元にある世界。と言っても、言葉は通じるし、どうやら文字も読めるみたいだから凄く近い次元の世界なんだと思うわ。良かったわね、遠い次元の世界に行ったら大変だったわよ?」
「いや、今も十分大変だわ! だがしかし! 今はそんなことより――」
剛一朗はここに来てから一番真剣な表情で、そして心からの想いを叫んだ。
「寒いので何か着るものを貸して下さいぃぃぃ!」
――つづく――