第20話 空気読んでよ、コウノトリ
和斗と別れ、恵子は一人自宅への帰り道。
3㎞くらいだから、タクシーを使わずに酔い覚ましに歩こうとフラフラとアパートへ向かっていた。
「でも、ふふ。カズちゃん。かぁ。二人で愛称で呼べるようになるなんて。やっぱり、大将には、魔力があるのかな? ふふ。願いを叶える荒神かぁ。あたしも猫抱きたいなぁ。あんなに想われてる先生に勝てるかなぁ? 死んじゃった人は心で生きちゃうからなぁ~。でも、幸せにしてくれるって」
独り言を言いながら、恵子はそこに足を止める。
和斗のことを考えていた。
幸せな彼の先生との未来図に自分を差し替えていたのだ。
首を横に振る。
自分には恋人、秀樹がいる。
秀樹のことを考えよう。
秀樹のことを考えよう。
好きだ。好きだ。愛してる。
大人の秀樹に比べたら、和斗など子ども。
すぐ泣いてしまうし。
あの時もそうだった。
「あの泣き虫。なによ。あたしじゃ勝てないくらい、愛しちゃってる人がいるし。……先生、ずるいよ。卑怯だよ。死んじゃうなんて。……別な人の子ども、宿したまま。そんな赤ちゃんまでひっくるめて愛されちゃって。あたしは、あなたになりたいよ……。
……あたし。
カズちゃんが好き。もう、自分にウソつけなくなってる。おさえきれなくなってる。
カズちゃんが好き。声が聞きたい。あの笑顔がみたい。ふふ。また、キスしたい」
もう恵子の中の和斗への思いは秀樹への思いを完全に上回ってしまった。
誠実で、一途でどこまでも一生懸命な和斗とともに未来を歩きたい気持ちが恵子の心の大半を埋め尽くしたのだ。
「そうだ! 電話しよう。そして、好きって言おう。カズちゃんとならなんでもできそうな気がする。さ、携帯、携帯。アドレスっと……」
恵子がスマホを取り出し、和斗の電話番号を探し、画面を見てみると、あることに気付いた。気にしないと分からないワードがそこにある。
[営業一課]杉沢和人 080XXXXXXXX
「あたし、名前入れ間違ってんじゃん。カズちゃんは、“人”じゃなくて、“斗”だっつーの。直そ。あ! そーだ! カズちゃんにしよ~。ふふ」
すぐにアドレスを修正し、電話するのボタンをタップしようとした時。
「……ん」
突然の吐き気。気分が悪くなってきた。道の端ならいいかと急いでそちらに向かい胃袋の中のものを吐き出してしまった。
「……うげ。オエー!」
嘔吐には体力を使う。見たくはないが、肩で息をしながら、自分の吐瀉物を眺め考える。
そんなに飲んだだろうか?
悪い酒を飲むと、気分が悪くなる場合があるが、あれはいい酒だった。
そして、ハッと気付く。
「……そういえば遅れてる? まさか……妊娠? 欲しかったヒデちゃんとの赤ちゃん……。ふふ。やった。どうしよう。……どうしよう。ウウ。エーン。エーン。どうしよう、カズちゃぁん。エーン」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一夜明けて朝。恵子は重い体と重い気持ちを叩き起こし、ため息をつきながら会社に向かった。
課内をテキパキ清掃し、いつものように仲間が出勤するのを待っていた。
「はぁ」
「おはようございまーす!」
元気よく和斗が出社してきた。
恵子は、重い気持ちを押さえ、心の万力で子供のことを押さえつけ平静を装って挨拶した。
「おはよう」
「昨日は楽しかったなぁー!」
両手を上げて伸びをしながら、聞こえよがしに独り言をつぶやいて和斗は自分の机にかばんをトサッと置いた。
そして恵子の方を振り向く。
「ね。せーんぱい」
「なぁに? 後輩」
「でた。後輩」
「ふふ」
側によって恵子の耳に近づいて小さな声でつぶやく。
「ケイちゃん、今日もキレー」
「ふふ。ありがと」
大好きな人にそんなことを言われてしまって飛び上がりたい気分。しかしそんなうかれることなど出来なかった。
「あれ? 怒らないんですか? 調子狂うなぁ」
「あたしで、遊ぶなっつーの」
和斗への思いがどんどんと溢れてくる。
部屋の中には二人だけだ。
「みんなくるまで、ここにいていいですかぁ?」
「もうすぐ、係長くるよ? 朝の準備すれば?」
クールな仕事モードの顔をした。だが和斗はいつものように笑顔をくれる。
本当は大声で愛を叫んで和斗に抱きついてしまいたい。
「はぁーい。分かりました~。せーんぱい」
「なまいき」
しかし、そんなことはできない。出来るはずがない。
今の自分には。彼に受け入れて貰うことが出来ないのだ。
「さーてと。お仕事。お仕事ぉ!」
「ふふ」
こんな、違う男の赤ん坊を宿してしまった女にそんなことが許されるわけがないのだから。
「……あれ?」
「ん?」
「先輩、なにかありました?」
「…………ん?」
「オレ、なにか悪いこと言いましたか? 様子が変ですよ?」
気付かれてしまった。和斗の優しい言葉に、和斗への思いとどうにもならない思いが涙となってこぼれてきた。
何本も何本も涙が頬をつたって落ちてゆく。
「……カズちゃん。カズちゃぁん! ゴメン! ゴメンねぇ!」
「え? え? え? え?」
恵子はどうしてしまったのだろうか?
和斗は大きな体を利用して、その場でロッカーやパーティションで区切られている上から他の課の様子を眺める。とりあえず周りは誰もこっちを見ていないようだ。恵子の声は聞こえなかったらしい。
しかし、なんのゴメンなのか理由が分からない。
和斗は、耳元に近づいて小さい声で聞いてみた。
「ケイちゃんどうしたの? 会社でダメでしょう?」
「……うん」
その時、課の入り口から新たな者が出社してきた。
「おはよう」
秀樹だった。和斗は驚いて、床に落ちているものを拾う振りをした。
秀樹がこればチャンスタイムは終了。二人から離れなくてはならなかった。
立ち上がって秀樹の方を向いて一礼をした。
「あ。おはようございます。係長」
「ん? どうした? いつもの元気は?」
「あ、おはようございまーす!」
その挨拶を聞いて、今度は恵子の方を向く。
「はい、おはよう。渡良瀬くん」
「……おはようございます」
「……うん?」
「……係長、お話があります。会議室で」
「あ、はいはい。じゃいこうか」
二人は会議室に移動した。
恵子が先に入り、秀樹は後ろ手でドアをしめ、嫌らしい笑みを浮かべた。
「どうした? シたくなっちゃったか? まぁここなら誰も来ないし希望に応えてやれなくもないぞ」
「違うの」
「どうした? 暗いよ?」
「遅れてるの」
「……は?」
「たぶん出来たんだと思う」
「…………マジ?」
「思い当たるフシ、あるでしょ?」
「あー。ウン」
「あの。離婚ってどうなってるの?」
「あー。ウン。子供のことがあって、なかなか。なー」
「だめなの?」
「ウン。だからぁ、まだそのマズイ」
「どうして?」
「あ、ウン。子供引き取んなきゃならないかも」
「ウン」
「だから、ケイコいやだろ?」
「いいよ。ヒデちゃんの子なら」
「ちょっと簡単にいうなよ。そう思ってても、育ててるウチにだめになって、我が子ばっかり可愛がって、痛ましい事件がおこるケースが最近多いだろ?」
「あたしがそんなことすると思ってんの?」
「いや、ちょっと待てよ。急にそんなの考えられないよ!」
「そんなのって、どういう意味?」
「だからぁ、大事な問題だろ? 2人だけじゃない。3人になる問題なんだから。な?」
「……ウン」
「少し考える時間をくれ。な?」
「……ウン」
「じゃ、仕事しよう。な?」
「……ウン」
秀樹になだめられて、会議室を後にし、二人は課に戻って行った。