第九話 崩れゆく社会
マイケルたちの努力も虚しく、状況は刻々と悪化していきます。
そして、最後の買い物が計画され……定番のショッピングモールに舞台が移動します。
それから、マイケルたちはケリーと共に研究に打ち込んだ。
異常細胞と患者の検体は山ほどある。
手当たり次第に行われる実験に従事し、それぞれの結果について事細かに報告書を書き、夜間まで交代で働いた。
おかげで研究所からマンションの自室までは10分しかかからないのに、自室で妻と過ごす時間はずっと少なくなった。
娘を奪った病を研究していると言ったら、妻は一応納得してくれた。
が、次第に不平不満を漏らすようになった。
「ねえあなた、ここには何かのサークルはないの?
私、ひまでしょうがないのよ」
当然といえば当然のことだ。
ここはビジネスが目的の施設であって、余暇が目的ではない。
あるのは運動不足解消のためのスポーツクラブくらいで、妻が望むような華やかなカルチャー教室などある訳がない。
「ねえあなた、この部屋窓が開かないのよ。
私、たまにはお日様の光を浴びたいのに」
これも当然だ。
食人病の原因は太陽光なのだから、浴びてはいけないのだ。
さすがにこのことはマイケルも隠そうと思わず、アンブロシアとつながらない程度に事情を説明した。
それを聞いた妻は一時的に取り乱してなだめるのに手間取ったが、しばらくすると落ち着いてマイケルを応援してくれた。
「そういう事なら私も我慢するわ。
だからあなたもがんばって、お日様を元に戻してね!」
マイケルはさわやかな笑顔の下で、この上ない苦笑を浮かべていた。
応援してくれればくれるほど、真実を話すことなどできなくなっていく。
ここまで愛してくれている、それが裏返ることを思うと……。
しかしその間にも、事態は刻々と進行していた。
オリンポス社は世界中から情報を得るため、集め得る限りの新聞を集めていた。
今やその紙面は、食人病からつながる記事で埋め尽くされていた。
<異常な日焼けで病院パンク!
軽症者はできるだけ日光に当たらないように自宅で療養を……。>
こんなのはまだいい方だ。
<精神を冒す伝染病の恐れがあります。
全国で、意識がもうろうとして人を噛む病が多発しています。家の戸締りをしっかりして、不要不急の用事でみだりに外に出ないようにしてください。>
これはよくできた誘導だ……と思ったら、我が社が流すように依頼したものだった。
しかし、時が経ち被害が拡大するにつれ、隠すのは難しくなる。
インターネットではすでに、ゾンビ説が主流になってしまっている。
そしてついに、この病の患者をゾンビと呼ぶメディアが現れだした。
<病などではない、これはゾンビだ!
本紙の記者によると、この病が広がり出した頃より、墓から死体が起き上がる現象が時々報告されている。
これらの死体から広がった病原体が……。>
「ふーん、逆だけど確かに証明できるわねコレ」
この記事を読んだ時、エレンは興味深げにつぶやいた。
死体を動かすのは異常細胞なのだから、起き上がった死体からもそれは検出できる。
それに、ゾンビは元々墓から起き上がる死体のイメージがある。ゾンビの先入観が少し古い世代なら、非常にうまくはまってしまう誤解答だ。
「いいわ、この記事……。
こういうふうに解釈してくれれば、アンブロシアが疑いの的から外れてくれるもの!」
上機嫌で去っていくエレンを、マイケルは呆れて見送った。
マイケルには分かる。
世の中の多くがゾンビを信じるという事は、外の事態はどれだけ進行しているか……すでに、ゾンビはごく身近な存在になりつつあるのだ。
そしてある日、会社はついに大きな決断を下した。
その日はマイケルたち研究員だけではなく、事務員やセキュリティチームの面々を含めて、施設にいるほぼ全員が集められた。
巨大な講堂の壇上には、今までお目にかかったこともないような上役の者が立っていた。
上役は妙にあたふたとした様子で汗を拭うと、大声を張り上げて言った。
「諸君たちの努力には、心から感謝している。
しかし残念ながら、事態は我々の予想を超える速さで進行している。
もはやこのアメリカ合衆国も、引き返せぬ道を歩みつつある。
全土で食人病が発生し、死者は起き上がり人を食い散らかしている。我々は政府に死者に対応する法改正を促しているが、おそらく間に合わぬだろう。
そこで我々は、これより問題の解決より生存に全力を注ぐこととする!」
講堂のあちこちから、ため息が漏れた。
我々は、負けたのだ。
もう世界を救う事はできない、せめて自分たちだけでも生きられるだけ生き延びるのだ。
マイケルにも、こうなる予感はあった。
思えばマイケルがここに来た時点で、社会はすでに壊れ始めていた。
手をつけるのが、遅すぎたのだ。
娘の時と同じように。
そう思うと、マイケルは目頭が熱くなるのを感じた。
(ごめんよ、本当にごめんよ……!)
あれほど仇を討つを誓ったのに、結局何もできなかった自分が悔しくてならなかった。自分は父としても研究者としても、何とふがいないのだろうか。
顔を覆ったままのマイケルの耳に、上役の声が流れ込んでくる。
「これからは、物資の調達もままならなくなるだろう。
よって、何か欲しいものがあれば、数量を明確にしてとりまとめて注文するように。
そしてこれからは、許可なき外出を禁ずる。
もはや塀の外には、命の保障はない……」
それを聞いたとたん、マイケルの脳裏に妻の顔が浮かんだ。そんな生活に、彼女は耐えられるのだろうか……。
せめて最後に一度、妻に楽しい時を過ごさせてやりたかった。
上役の話が終わると、マイケルは真っ先に挙手して発言した。
「その最後の物資調達に、自分と妻も同行させてほしい!」
とたんに、講堂の至るところからヤジがとんだ。
「おい命知らず、死にに行く気かよ!」
「すすんで口減らしか、お?」
しかしマイケルはひるまなかった。
「聞け、この機会を逃したらもう二度と普通の買い物はできなくなるんだ。
我々は確かにアンブロシアを世に放った罪がある、だから自分が地下に閉じ込められる事は認めよう。しかし、妻には何の罪もない。
我々は我々の罪で、罪のない人間をも地下に閉じ込めてしまうのだぞ!
だからせめて、最後に一度楽しい思いをさせてやりたい!」
それを聞くと、多くの者は呆れたように笑い出した。
マイケルの提案は確かに、無謀な挑戦かもしれない。
それでもマイケルは、譲れなかった。
自分は未だに真実を明かせないまま、妻をだまし続けている。真実を明かすことで妻の愛を失うのが、怖くてたまらないのだ。
だが、せめて最後に妻の好きな買い物を思う存分させてやり、機嫌を良くしたところで打ち明ければ穏便に納得してもらえる気がした。
しかし、それはあくまでマイケルの事情だ。
他人には理解できるはずもない……と思っていたら、エレンが立ち上がった。
「どうせ行くなら、希望者をつのって行きたい人全員で行きましょ。
私もいろいろ欲しいものがあってね、どうせお金の価値がなくなるなら使い切ってやるわ!
もちろん行く人の生死は自己責任でいい。でもこれは、まだ生きているショッピングセンターがある今しかできない。大好きな酒やたばこも、これを逃すともう手に入らないかもね!」
悪魔だ、ここに悪魔がいる。
酒やたばこと聞いたとたん、何割かの目の色が変わった。
実際、人の心を動かす力は情に訴えるより欲に訴えた方が強いのだろう。エレンは本当にこうやって男を揺さぶるのがうまい。
かくしてマイケルたちは外出を許され、最後の買い物に出かけることになった。