第四話 社の砦へ
いよいよ社会が異変の色を濃くし、マイケルも研究者として会社から呼び出しがかかります。
しかし、マイケルにとってそれはちょうどいいタイミングでした。
だって異常な日焼けで苦しむ娘を、その原因を開発した会社の病院に移せるのだから。もちろん、妻には口が裂けても言えませんが。
少し経つと、マイケルにも研究所に出勤するよう命令が届いた。
いつもの職場ではない、ケリーが勤めているアンブロシア関係の研究所だ。
マイケルの家はそこから遠かったため、マイケル一家は引越しを余儀なくされた。
それに伴い、マイケルは娘をオリンポス社が所有する大病院に移すことにした。今の小さな病院より、施設も技術もうんと優れている。
それに、もしもの事があっても、事情を知っている医師なら適切に対処してくれるはずだ。
小さな病院の医師も、それに賛成してくれた。
「いやあ、正直助かりますよ。
実は最近、娘さんと同じように入院を要する患者さんが多くて、ベッドが足りなくなっていたのですよ。
それに、ちょっと手のかかる患者さんも多くてね……」
そう言う医師の手には、包帯が巻かれていた。
何があったかは、できるだけ考えないようにした。
娘はたんかに乗って、車まで運ばれた。
肌はところどころ崩れて、包帯だらけになっている。目は真っ赤に充血し、しかし恐ろしいほど大きく開いて妻の方を見ていた。
マイケルは嫌な予感を覚えながら、妻の側に寄り添った。
そんなマイケルの心などいざ知らず、妻はそっと娘の額の汗を拭こうとした。
その瞬間、娘が突然大口を開けてベッドから身を乗り出したのだ。
「危ない!!」
マイケルは反射的に妻の体を娘から引き剥がした。
なおも身を乗り出そうとする娘を、看護師たちが慌てて取り押さえる。
「だめよ、大人しくしないとけがを……っああ!」
看護師の悲鳴が上がり、一人が顔を歪めて手を振り上げる。
その手からは、血がほとばしっていた。
マイケルには、今目の前で起こっていることが何なのか分かってしまった。しかし、口に出して助言する事はできなかった。
ただご迷惑をおかけしますと看護師たちに謝り、妻に付き添って車に乗り込んだ。
車の中で、妻はいぶかしそうな目でマイケルを見ていた。
マイケルは極力目を合わせないようにしてきたが、それはかえって妻の疑心をあおったようだ。
黙ったままのマイケルをにらんで、妻がついに口を開いた。
「ねえ、あなたは何で私を引き離したの?」
これは鋭い質問だ。
娘が人の手を噛もうとするなど、常識では考えられない。
つまり、娘の病気が何なのかを知っていなければさっきの行動は有り得ないものだ。ただ美しいだけでなく、賢い女を選んだのが裏目に出たようだ。
しかし、マイケルも頭脳にかけては自信がある。
こんな所で自分と妻の命を捨てる訳にはいかない。
マイケルは少しすまなさそうな顔を作って、できるだけ穏やかな口調で答えた。
「ああ、さっきのが気に障ったなら謝るよ。
でも、あれは娘を感染から守るためなんだ。
娘の肌を見てみろ、あれじゃ皮膚についた細菌が体の中に入るのを防げないんだ。それに、こんなに弱っていてはちょっとした感染が命取りだ。
なあ、人の手にはいつもたくさんの細菌がいるんだよ。
おまえだって、自分から移った菌で娘が苦しむのは嫌だろう?」
それを聞くと、妻ははっと気付いたように目を丸くした。
「そう、だったの……じゃあ、危ないのは娘の方だったのね。
私ったら、何て不用心なことを……!」
妻は、マイケルの話を信じてくれたようだ。
マイケルが家族を大切に思っているように、妻も娘をとても大切に思っているのだ。それだけは疑いようのない事実だ。
だからこそ、妻を危険にさらす訳にはいかない。
マイケルは妻の手にちゅっとキスをして、たっぷりの愛情で包んでやった。
娘が食人病にかかってしまったなら、なおさら……。
このうえ妻までも失う訳にはいかなかった。
突然、車がブレーキをかけて止まった。
「すみません、ちょっと渋滞で……」
運転手が苦々しい顔で、カーナビのボタンを押し始めた。
ほどなくして、この近辺の道路網がモニターに映し出される。
それを見たとたん、マイケルは憎らしげに顔を歪めた。
「な、何だこれは……!?」
モニターに映し出された道路網は、血栓だらけの血管の様に、そこらじゅうが渋滞の赤で塗りつぶされていた。
そして、その脇には人身事故という文字が乱舞している。
今まで、見たことがないような数だ。
これでは先に進むどころか、迂回路を見つけることさえ容易ではない。
「ちょっと、これじゃ娘はどうなるの!?」
妻がヒステリックに叫んだ。
「娘は重体なのよ、このまま何時間も道路に缶詰めにされたら死んでしまうわ!
早く病院に運ばないと!!」
後半は確かな事だが、前半は少し違うとマイケルは思った。
ケリーに聞いた話によれば、娘はすでに死んでいるかもしれない。それに有効な治療法が見つかっていないのだから、遅かれ早かれ同じことだ。
運転手たちも会社の人間である以上、それは知っている可能性が高い。
しかし予想に反して、運転手はすんなりとうなずいて携帯電話を取り出した。
「そうですね、少し時間がかかりますが、本社に電話してヘリを呼びましょう。
このままでは、いつになるか見当もつきません」
運転手と看護師たちは少しの間携帯電話で話していたが、すぐににっこりと微笑んだ。
「一番近い支社からヘリが来るそうです。
すぐに乗り込めるように、荷物をまとめてくださいね」
マイケルは内心ほっとした。
妻の言うことが間違っていても、それを否定してはならない。どうすれば秘密を守れるかは、この社員たちも分かっているのだろう。
それに、患者をあまり長く外に出しておきたくないのも一つの理由だと思った。