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時々、我にかえる。
私ってなんで犬塚家にいるんだろう?と。何度ももう二度は来るまいと思って出て行くのに、やっぱり戻って来てしまう。不思議だ。いや、そうでもないのかも。だって私の本当の気持ちは。
「………」
止めた。そんなの、どうせ手の届かない事だ。
◆
このタイミングで帰らないと一生居座ってしまうというギリギリのタイミングで、やっと私は腰を上げる事に成功した。
今日は輝君と昴君を連れて犬塚君は丁度出かけている。仮面ファイターのショーが遊園地であるらしい。「お前も行くか?」と聞かれたが、まだ本調子じゃないから…と断わった。
犬塚家に残った私の痕跡を全部処分して、できないものは持ち帰る。立つ鳥跡を濁さずの精神だ。
「鬼ちゃん」
夜の仕事に向け、いつもは寝ているはずの裕美ちゃんが珍しく起きていた。なんとなく目がとろんとしていて眠そうではあるけど。
裕美ちゃんは「帰るの?」とだけ甘くまろやかな声色で尋ねてきたので、一瞬どうにか誤魔化そうとも思ったけどでもやっぱり正直に頷いた。
「そっか、でも仕方ないよね。あのね、その前にひとつだけお願いあるんだ」
こてんと首を傾げて、元祖チワワおねだり顔で瞬きをみっつされるとどうにも断りにくい。犬塚君と違って照れがないのがまた…。
「えっと、なに?」
「お化粧させてっ♪」
「えっ……」
え?化粧?
裕美ちゃんのお願いはあまりに予想外すぎて言葉を失った。そして、ついそのまま流されるように頷いてしまったのだった。
花の匂いのする美容液に、キラキラ光っているラメ入りピンクの小瓶。それと、ふわふわと羊のかたちをしたパフと7色のパステルカラーのアイシャドウ。ほかにもいっぱい、そのどれもがあまりにも可愛らしくて眩しくてまるで宝箱から出した宝石みたい。もしくはケーキ屋さんのショーウインドウに並んだケーキのよう。
裕美ちゃんは机に広げて、私の頭に水色でタオル地のヘアバンドを被せた。デコ丸出しでちょっと恥ずかしい。
「鬼ちゃーん。大人しく待っててね、つけまの糊今塗ってるから」
つるん、と瞼の縁に冷たいものが滑っていくのが変な感じ。つけまつげなんか付けるの初めてだ。
裕美子ちゃんは器用に、全く手間取らず慣れた手付きでつけまつげを私に貼り付けた。「ウン、バッチリ」と満足そうにニッコリ微笑んでいる。
「折角、子供三人も産んだのに全員男の子だからずっと憧れてたんだよね。女の子をこうやって着飾るの」
「へぇ…」
「はるか君もすごく小さい時は女の子の格好させたりしてたんだけど、大きくなってからは全然だめ。恥ずかしがちゃって。身体もすぐゴツゴツになっちゃうし」
そ、そうなのか。
あんなに学祭の時に女装嫌がってたというのに。いや、尚更か。うーん…。
「一人くらい女の子欲しかったなぁ。そしたら毎日こうやって一緒にお化粧してかわいい洋服着せてお買い物とか出来るのに」
「ああ」
「鬼ちゃんはお母さんとこうやって遊ばなかった?」
「…い、いや、こういうのはちょっと…」
ウチの場合はお互いがお互いのことを分からないから、それ以前の問題だ。
「そっかぁ。勿体無いね」
裕美ちゃんはさして深追いせずにアイライナーを長めに引いて行く。私は下手な事を漏らさないようにと一人でどぎまぎしていた。
「はるか君、名前気にしてるでしょ。あれね、お腹にいる時女の子だって言われてて女の子用の名前しか考えてなくて、りっくん…はるか君のお父さんがそのまま市役所に届け出出しちゃったんだ」
「わお…犬塚君なら根に持ちそう。それ知ったら」
「うん。だから、ちっちゃい頃からはるか君ずっとりっくんに反抗期だったの。りっくんも何か地雷ばっかり踏んじゃうし、親子なのに相性あんまり良くないみたいでいっつもケンカしてたな」
「そうなんだ…」
「こんなので、帰って来ちゃったらどんなんなっちゃうんだろ。二人とも少しは大人になってくれるといいけど」
「……?」
え?あれ?犬塚君のお父さんって亡くなってるんじゃないの?どういう事か聞こうとしたけど「あ、ごめんね。今のただの独り言だから」と裕美ちゃんが仕切り直して言ったからタイミングを逃した。
やっぱり犬塚父の生死はもやっと謎のままだ。
「うん。次は髪の毛巻こっか、鬼ちゃん髪長くてふわふわしてるから巻きやすそう!」
コテの電源を付けている間、裕美ちゃんは私の髪を子どものような手付きでゴムを外して解していく。
そういう裕美ちゃんは私よりもっと髪が長くて腰一歩手前くらいまである。髪質もつるつるのつやつや。
「私、ただの天パなんスよ…」
「でもやわっこくて気持ちいい。鬼ちゃん、もっとかわいい格好すればいいのに。こうやって目一杯お洒落して可愛く着飾って、青春して恋愛して、きっと楽しいよ。そういうのも」
「うん…」
裕美ちゃんの綺麗な手が、いたずらに私の髪を編んでいる。
犬塚君によく似た黒目がちの丸い大きな目が不意に私に向いた。
「鬼ちゃんはさ、自分が嫌い?」
ちょっとだけドキリとした。なんていうべきか迷って何も答えられない。
「なんかそんな感じに見えるから。ごめんね。いつも他の人には気にかけたり一生懸命になるのに、自分の為に何かしたり良い方向に行くの避けているような感じ。私なんか、ってよく言ってるし」
「えっ」
そんな事をした覚えはあまりない。やっていたとしたら完全に無意識だ。
「でも、そういう人って周りがちゃんとその人を好きでいてくれるんだよ。そうやって人ってやっぱり一人ぼっちにならないようになってると思う。鬼ちゃんだって近くの人に大事に思われてるんだよ」
裕美ちゃんは私の髪を編んでは解し編んでは解している。今はちょっと目が見れなくてその手元ばかり見てる。
「少なくとも、あたしは鬼ちゃんの事が大好きだよ」
それを聞いた瞬間、条件反射するよう生まれた時からプログラムされていたみたいに、右目から涙が溢れた。
「あはは、ウォータープルーフで良かった」
裕美ちゃんはコットンで丁寧に涙を拭き取ってくれた。
こんなはずじゃなかった。こんなに無防備に他人の言葉を懐に受け入れたくなんかなかった。私、最近些細な事で泣きすぎだ。赤ちゃん返りしてるみたいで恥ずかしくてみっともない。
「あ…ごめんなさい。折角お化粧してくれたのに」
「いいよ。すぐ直せるから」
その言葉に安心して、つい鼻をかんでしまった。ティッシュにファンデーションと口紅が盛大に付いてしまっている。
裕美ちゃんは目を細めて優しく微笑んでいた。その顔が眩しかった。
「鬼ちゃん、帰ってもまたすぐウチにおいで。大丈夫だから。あたしね、なんか鬼ちゃんの事自分の子供みたいに思ってるんだ。鬼ちゃんのご両親には悪いけど」
「……」
「第2のマイホームだと思ってくれていいから。ちょっと狭いけど。そんで、鬼ちゃんは犬塚家の末っ子!それじゃだめ?」
「…あ…」
断って否定しないと、後から絶対自分が苦しくなる。分かっているのに裕美ちゃんには逆らい難いものがあって、なんとも答えられず困った。
だけど心臓がぎゅっともどかしく苦しい。冷えていたお腹の中が段々熱をもつ。身体中の血に酸素がみるみる行き渡る感じがした。またなんだか無性に泣きたくなって、ぐっと堪えた。
(喜んだりなんか、しちゃいけない)
重々承知している。そんなこと。
分かっている、のに。頭脳の命令を身体はきいてくれないので嫌になる。
今日の事を私はずっと忘れないだろう。この先、犬塚家と縁が切れたとしても。一生。
◆
「ただいまー…なんだ、鬼丸。その顔…」
それから1時間弱経って、犬塚君達が帰ってきた。
ばっちり仕上がった私の姿をまじまじ見て、犬塚君が戸惑っていた。
「どう?可愛いでしょ!小悪魔風鬼ちゃん」
「どうもデビル鬼丸です」
悪魔だし鬼だし、なかなか禍々しいな。
「どうって…ケバすぎるわ。どこのキャバ嬢だよ。もう別人だろうが」
「ふーん。はるか君はナチュラルメイクが好き、と」
「はぁ!?そんな事言ってねーだろうが!!鬼丸もニヤついてんじゃねーよ!」




