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犬塚家に来てから、私は寝てばかりいた。
特に疲れたわけでもない。輝君と昴君の送り迎えする以外はグータラな事にずっと横になり寝ていた。
居候なんだから家事のひとつやふたつすればいいし、勉強して授業に遅れないようにすればいいのになんにもやる気が起きなかった。まるで私は怠惰な気持ちが具現化した妖怪みたいだった。柔らかい布団の中で頭が痛くなるほど眠っていた。寝不足なわけでもなかったのにおかしい。早く帰らないといけないのにすぐに眠くなってしまう。
寝すぎで起きてる時もぼんやりしているから、輝君たちにも心配されてしまった。彼らなりに気を遣って普段より少し大人しく過ごしているみたいだった。子守を任されている身として本当に申し訳ない。
「別に気にすんな。ぎゃんぎゃん騒がない分助かってる」
そんな犬塚君は学校から帰ると剥いたリンゴやお饅頭など布団の前に供えて家事に取り掛かっている。なんでこんなに怠けても犬塚君は叱らないのか不思議に思う。
日勤のバイトがない時は、祐美ちゃんも隣で寝ている。よく眠れるのはとなりに誰かがいるかもしれない。祐美ちゃんはクセなのかわざとなのか分からないがぴったりくっついて眠っている。
暖かくていい匂いがする。柔らかくてなんでか泣きたくなる。よくわかんない。別に何が悲しいわけでもないのに。
「帰らなきゃ…」
ぽろぽろ泣いてしまいながらでもやっぱり出て行きたくはないのだ。だから嫌だったのだ、ここに行くのは。
「帰ろう」
自分の倍生きているのに祐美ちゃんは小さくて華奢だった。起こしてしまうのが怖くて動けない。
「……」
それの繰り返しだった。もう一体何日経ったのかさえあやふやだ。私は私自身が甘えったれていくのが怖かった。怖いくらいに居心地が良かった。
ゼロの気配を感じても、彼女は何も言わずすぐ側にいただけだった。何故だろうかむくむくとその影が膨れ上がっていくような錯覚を覚える。
私はずっと不安だった。ゼロがもう人間の肉体を手に入れて復活したらどうなってしまうのか見当もつかない。彼女は私の事を何でも分かっているから変な事が漏らされたら嫌だ。
(そうだ。病院に行かなきゃ)
治療は随分先延ばしになっている。もう薬も切らしているから。銀行でお金を下ろさなきゃいけない。それから…。
こんなところでゆっくりしている暇なんてないのに。
そう思うのに何もしたくない。全くやる気がない。動けない。
「のんびりしとけばいい。外は寒いし」
犬塚君が布団を私の上に積み重ねてミルフィーユ状態にしながら、普通にそんな事を言った。何だよ、全くらしくない。呑気すぎる。犬塚君がそんなんだと私はどう反応を返すべきか分からなくなって困ってしまう。
「私、大丈夫だよ。別に何ともない。調子悪いわけじゃない。元気なんだよ。本当に…」
「そうだな」
犬塚君は適当な相槌をうつだけだ。まるで取り合ってくれない。
なんのつもりで彼がこんな事を許すのか分からない。ただのクラスメートで、何の繋がりもない、たった半年ちょっとの付き合いなのに。同情?気まぐれ?
「…私の、」
犬塚君が誤解をしているなら、それを解こうと思って口を開いた。
「私の家は犬塚君家とは違う。お母さんだって祐美ちゃんみたいな人じゃない」
「いや、裕美子は割と特殊だろ」
犬塚君がそろそろ起きる時間の祐美ちゃんを揺り動かしているのに気を取られて、少しぼんやりしていた。
「お母さんともあんまり仲良くなかったし、そりゃあ肉親ではあるけど亡くなってもそんなに落ち込んではないよ」
「喧嘩したままだったのか?」
「いや?それ以前にまともに口を聞いた事もないほどの限りなく他人で…あ…」
しまった。喋りすぎた。
気付いても、怪しすぎるほどわざとらしい沈黙を作っただけだった。
「それで?」
布団の中で急に背中に変な汗が滲んできた。怖くなって犬塚君の顔もまともに見れない。
「そ、それだけだよ…。ドライなんだ、ウチって…おかしいかもしれないけど」
取り繕っても誤魔化せる気がしない。
犬塚君の声のトーンがぶれなくてこわい。
「なるほどな、だからいつもあんなに寂しがってんのか」
やめれば良かった。下手な誤魔化しなんかしなきゃ良かった。本当に失言した。もう取り繕う事もできない。
「私、私は、寂しくなんて、ないから。一人でも、なんにも不安なんかない。痛くも、苦しくも何ともない。平気。心配とか同情とか、しないでいいから」
「してねーよ、そんなん」
じゃあなんで…。
駄目だ。口を開けば開くほど墓穴を掘ってしまう。今日はなんかだめだ。
危ない。いや、もう手遅れなのかもしれない。
「だけど見てらんない。お前の事は放っておけない、大丈夫なんかじゃなさそうだから」
「やめてよ」
ぬくぬくと他人のお家で怠けている人間の言う台詞じゃないだろうけど。
「大丈夫でも大丈夫じゃなくても、犬塚君には関係ない話だよ。もうこれ以上私は何にもされたくない。放っておいてほしい」
後はずっと寝たふりをしてやり過ごした。犬塚君のどんな意見も一生聞き入れないという意思表示だ。
「鬼丸、お前なぁ…」
犬塚君がまたお節介な事を言うような気配がした時に、布団からにゅるっ!と腕が伸びた。
「ふぁああ…よく寝たぁ〜今何時ぃ」
寝起きにしてはあまりに可憐なような容貌で祐美ちゃんが布団から這い出てきた。
「そうだ、もう時間だから起きろ。遅刻するぞ」
「う〜〜あと5分んん〜〜」
むにゃむにゃしながらも犬塚君に起こされて、ふんわりと可愛らしい寝癖をつけた祐美ちゃんが眠気まなこでふと私の方を見てにっこり笑った。
「鬼ちゃんの体あったかくて湯たんぽみたい。だからよく寝ちゃうの。なんだか鬼ちゃんずっと前からウチの子みたいな感じするね」
「あ…えへ。えーと、私も起きなきゃ」
祐美ちゃんから逃げるように輝君と昴君の迎えに行った。
どうにも変な気持ちになりそうだった。嫌だったわけでもないけど。
犬塚君はこれでもかというほど、何か言いたげな視線をよこしていたが何にも気付かないふりをした。
◆
「ああ、犬塚さん…」
「あ、えっとハイ」
何度か送り迎えをするうちに幼稚園の保母さんに顔を覚えられた。いいんだろうか。
「今日、輝君と昴君が他の子供達と喧嘩してしまって」
「えっ?」
子供なんだしじゃれあいくらいするだろう。しかし、あの子達が二人がかりで乱暴したというのはちょっと変かもしれない。裕美ちゃんに報告する事くらいしか出来ないが。
保母さんに連れてきた輝君も昴君も、目を真っ赤にして泣きじゃくっていた。
泣いている子供を前にどうしたらいいのかわからないので固まっていたが二人は私を見ると「おに!!」と飛びついてきた。
「…大丈夫?ケガはしてない?」
しゃがんで二人の頭を撫でると、ぎゅうと体を押し付けてくる。あったかい。
私は何か懐かしいような気がしたけれど、それを探るとまたひどい頭痛に襲われたからやめた。
「帰ろっか」
まるで自分の家みたいに言うのが、滑稽だった。
手を引くと素直に二人はついてきた。
(こんな時なら裕美ちゃんや犬塚君ならどうするだろう)
慰めたり叱ったりするのだろうか。
そんな高度な事は私には出来ないぞ。
「…今日はどうしたの?」
結局、それが精一杯だった。
「お母さんが」
輝君がぐずぐず泣きながら、答えてくれたが、ぼたりと大粒の涙がアスファルトにこぼれ落ちた。
「お母さんの事、汚いってヒロト君が言ったから」
「汚いお仕事してるだめなお母さんって。お父さんはお客さんなんだろ、って」
「……」
幼稚園児がそんな大人の事情が分かるわけがない。きっとその子は保護者の言っている事を意味が分からないなりに覚えて言ってしまったんだろう。だからその子に対して怒る気にはなれなかった。
「知ってるよ。裕美ちゃんは汚くなんかないよ」
事情は詳しく知らないがすごいと思う。子供三人抱えて、あんな華奢な腕で育てているって誰でもできる事じゃない。夜の仕事だってキツい事もあるだろうに、それだけで非難されるのは私だって嫌だ。
「裕美ちゃんは世界一のお母さんだよ。美人だし、若いし、元気だし働き者で、頑張り屋さんのお母さんだから」
あんな人が私のお母さんだったら良かったのに。
「今度、そんな事言われても『君のお母さんより美人だよ』って言い返したらいいよ」
輝君と昴君の頭を撫でながら、この子達は本当に裕美ちゃんが好きなのだと感じた。…当たり前か。子供なんだから。家族なんだから。
だから私は一人ぼっちなのだ。




