episode15 お母さんの話
私のお母さんは、戸籍上の母は、病院にいる。
病名は分からない。精神科の病棟に入院している。父とは既に離縁済みだ。
母の病は重く、自分の事も家族の事も分からない。いつからそうなのか分からない。私も記憶を失ってから会ったのは、その一回きりだ。
母はベッドに座りながら、虚ろな目をしたまま人形の髪を櫛で梳かし続けていた。もうずっと子供に退行したまま元に戻ってないらしい。
母自身も私の事が分からないのだ。
「れーちゃん。御髪きれいになりましたねぇ。かわいいね。かわいいれーちゃん」
どんなに話かけても、母は此方を見てくれなかった。
舌足らずで幼い口調なのに、その髪の毛は白髪が多くて頰は痩けて老婆のようだった。口から覗く歯も数本以外は抜け落ちている。
「お母さん」
呼びかけても聞こえていないらしく、反応はない。
「お母さん」
手を握っても、振り返らない。
「お母さんってば」
揺さぶっても、何をしても。
私は期待も何もかも砕かれて、泣きたくなった。いや泣いた。お母さんに慰めて貰いたくて泣いた。この人との思い出なんか何一つ覚えていないのに。
「ねえ」
自分の事だけ考えていた。何一つ、お母さんの身を案じたりしなかった。私が足りないものを埋めようとして、ただ必死だった。
見向きもされない事を認めたくなかった。
私は、お母さんの事を愛していない。お父さんの事も。ただの知らない人だから。だけど、私は愛されたかった。何においても真っ先に守られる存在になりたかった。
「お母さんってば…!!」
こっちを見て欲しくて、お母さんが大事に抱き抱えていた人形をひったくった。
そこまでしてやっと手に入った反応は、優しい温かなものでは当然なかった。そんなのやるまでもなく分かっていたのに。
ものすごい速さで跳ね返ってきたのは病人とは思えない硬い拳で、私は突然の事にそのまま病室の壁に激突して転げた。私から人形を奪い返して、鬼の形相で唾を飛ばしながら怒鳴った。
「お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!お前じゃない!…」
(お前じゃない)
興奮したお母さんは、焦点の合わない目をしながら、私を排除しようとして人差し指を突き立てている。
私はどうしたらいいのか分からなくて、看護師さんを呼び続けた。身の危険を感じたというより、私はただ混乱していた。
私は一体誰なんだろう。そして、私は誰であるべきだったのか。
間違いを正そうとしてでも何をすべきかも知らなくて、途方にくれた。
◆
その時から、私にはお母さんとは会っていなかった。
そして、お母さんが先日亡くなったとお父さんから連絡が来た。




