[extra1 鬼の目にもなみだ]
「うわぁああん!すばが髪の毛引っ張ったー!ダークネスのベルト返してくれないし!」
弟が泣きながら此方に駆け付けてくれば、ハイハイともう一方の方に行って事情を聞いて仲裁してやる。
「ふぇえええ、髪が治らない~!つけま折れた~!仕事遅れるよぉおお」
カーラーを頭に無数に乗せた母親が半泣きで叫んでいれば、ハードスプレー片手に髪型と化粧を整える。
これは、俺、犬塚はるかの日常。
歳の離れた弟二人と頼りない母。
家庭環境的に人の涙は頻繁に目にする。
だから俺は、誰が泣いたって今更動揺しない。どうも思ったりしない。
道端で彼氏とケンカして泣いている女。甲子園で涙を流す球児。
ドラマや映画の感動シーン。あるいはそれを鑑賞する際に聞こえるすすり泣き。
卒業式で泣いていた同級生。
きっと本人達は真面目に泣いているんだろうが、どうも醒めた目で見てしまう。
女の最大の武器は涙、とかよく言うけど自分はいついかなる時も泣き出した人を前にしても何も感じたりしないんだろう。
こういう俺みたいな奴を何と言うんだっけ。……不感症…?違うか。
◆
「ヘーイ!犬塚君!私、鬼丸っていうんだ、これからよろしく!」
席替えで隣の席になっ女子が、にぱーと効果音が出てきそうなくらいの笑顔で(全力の笑顔すぎて歯茎剥き出し)声をかけてきた。なんだこいつと思った。
彼女は鬼丸哀。
高校は中学と違って、色んな生徒が多いように思う。その中でも鬼丸は変な奴だった。
隣の席になって暫く観察してみたが、その結論は全くぶれない。
見た目は普通の女子だ。中肉中背。顔のパーツで特徴的なものを挙げるとしたら、眠そうな垂れ目にその割に大きい口。髪は肩より少し長いのを項で二つ縛りしている。失礼な話だが、容姿で注目を浴びるタイプの女子ではないと思う。
しかし、騙されてはいけない。
「うふっ」とか「ほぇぇ」とか教室内で奇声が聞こえたらほぼ九割は鬼丸である。
授業中、居眠りしてカクッカクッと舟を漕いでるうちに勢い余って鼻の穴にシャーペン突き刺したのを目撃してしまい、たまに一生懸命勉強しているなと思ってこっそり覗いてみたらノートにうんこを書いていた。むやみやたらとテンションが高く、友達に若干ウザがられてるのに全く気付いてない。堂々と公衆の面前で仮面ファイターの変身ポーズを取り、体育の初回授業のリクリエーションでやったミニバレーではしゃぎすぎ、スライディングしまくってジャージの膝をすでに穴だらけにした。この数ヶ月で、いくつ伝説を作ったことか…。
思いつくままに挙げてみたら、鬼丸は本当に女子か断言できなくなってきた。
いや、そんなこと男子でもしないか。
全身コメディ女。なにやってもギャグにしかならない、そんな奴。
うちの母も相当なちゃらんぽらんだが、その上を行くアホ。もしくは同類か。
その鬼丸が、何かと自分とコミュニケーションを取ろうとするのが良く分からない。
近寄るな、アホが伝染る。あと、自分の習性で余計な事をしてしまいそうになるから出来るだけ関わり合いたくない。
会話を無視して無愛想を徹して睨んでも舌打ちしても、しかし鬼丸は他のクラスメイトと違って怯まない。
単に鈍いだけなのか。いまいち何を考えているか分からない。
空気が読めない訳ではなさそうだが。
そんなわけで、ともかく鬼丸は俺の中で要警戒人物にプロファイリングされていた。
なのに。
「なんでこんな事に…」
頬杖をついて目の前で寝こけている女子。
なぜか尾行され、自分の家に入れてしまった。そのまま飯を食わせ成り行きで引き留めてしまい、目を離している間に見事に寝ていた。なぜ…と考えるまでもなく答えは出ている。
悪い癖だ。
対アホについガードが甘くなる。間違っている事を正したりとかやらかした始末をするとか余計な事をしてしまう。
この十六年の人生で身につけてしまった習性。主に弟達と母のせい。
絶対俺って損している…という自覚はあるが、気が付くとやってしまう。
「おい、起きろ」
シャーペンの消しゴム部分で鬼丸の頬を突っつくが、お約束のように起きない。
というか、机に座りながらしかも他人の家で熟睡するなよ…。
「鬼丸」
肩を揺さぶってみても反応はさほど変わらない。
そろそろ帰らないと、鬼丸の家族が心配するだろう。家の人に電話したほうがいい、と忠告がしたが果たしてちゃんと連絡を取ったのか。鬼丸が携帯をうちで取り出している姿を一度も目にしていないんだが。
取り敢えず、まだ春で深夜になると部屋の中が肌寒いから何か持ってこようと立ち上がった時。
「…ん……」
漏れ出たかすかな声に、起きたかと思った。
しかし鬼丸の瞼が開く事はなく、代わりにじわりと涙がそこから滲んで溢れて筋を描いた。
ぎくりとした。
ただの生理的なものかもしれない。そう思いついたが、それでもまんまと困惑した。
だってあの鬼丸が泣くとか全く想像できなかったから。イメージとかけ離れていたから。
だってこいつは、体の約60%が水分で、残りの40%がギャグで構成されているような女。到底涙腺なんてあると思わないだろう。
それでも俺は、他人の涙には慣れているはずだったのに。
絶対動揺しないと豪語していたのに。簡単に弱さを見せつける奴らに同調できるわけがないと思っていたのに。
「…ごめん、なさい…」
鬼丸の唇から漏れた、言葉。
寝言か。謝るような夢を見ているのか。
何の根拠もなく、どうしてか謝られているのは俺のような気がしてしまった。
寝言に何の事を謝っているとか聞くのもどうかしているし、縁起が悪いから止めたけど。
また、鬼丸の瞼から涙が流れる。
嗚咽が聞こえないのが不思議なくらいに、ぼろぼろ溢れていく。
こんなの、どうってことない。
輝達や母さんが泣くのとそれほど変わらない。特に深い意味などないのだ。
なのに、どうしても抗えない感情が湧き出る。
その涙を塞き止めなければという妙な義務感。
自分の身体がなぜか、鬼丸をこのまま泣かせてはいけないと知っている。
意味なんて全く分からない。
恐る恐る伸ばした指が、何度も震えながらその雫に触れた。睫に接触した。
確かに濡れた指先が、生々しい。
急に怖くなって、ハンガーに掛けてあったブランケットを鬼丸に被せた。彼女を隠すように。
あとはそのまま、なるべく鬼丸を見ないように手元を動かした。
勉強もいつもより断然集中力できない。くそ、と苛立って舌打ちが出てしまう。
無心に念を送る。早く起きろ、と。
さっさと起きていつも通りアホっぽい笑顔を見せてみろ。