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父が珍しく早い時間に帰宅し、夕食を共にする事になった。
テーブルに向かい合い、妙に緊張する。
父の事は嫌いじゃないし、嬉しいのだがどんな顔をすればいいのか分からない。
「雪路、最近帰りが遅いそうじゃないか。生徒会の仕事も程々にしなさいと言っているだろう」
沈黙が続くのかと思ったら、話しかけられた。
どうやら運転手さんから報告が父の方に行っているらしい。
「すみません。どうしてもやらなければならない準備があるので…」
計画立てて実施しているのだが、たまに予定外に飛び出る事がある。
そうでなくても、近頃は能率も下がってきている気がする。
体育祭の準備や、次の執行部への引き継ぎなどで少々生徒会室で作業をしなければならない日がある。
「下らない事に勉強の時間を割かれるんじゃない。あまりにひどいようだと私から学校に言わねばなるまい」
「はい、気をつけます」
生徒会の仕事はとても誉れある職務だと感じているので、そのように言われてしまうのは悲しかった。
ただ、父に反抗しようとは思わない。
怒られるのや叱られるのが怖いわけではない。
自分を今現在どう評価しているのかも分からない父に、嫌われて見限られるのが怖い。
勿論、そんな事でそうなるはずもないとは分かっているのだが、幼い頃から引き摺っている苦手意識を未だに拭いきれずにいる。
その後はただ黙々とフォークとナイフが皿を傷つける音ばかり響く。
折角、千津子さんが腕によりをかけてくれたというのに味のしない食事。
柔らかいはずの白身魚のムニエルがなぜかうまく飲み込めない。
食事を終えて自室に戻り、勉強を進め、読みかけの本の続きを読み、ワトソン君と戯れ、風呂に入って寝巻きに着替えた。机の上の携帯電話は、今日も着信が来たことを知らせるLEDを光らせない。
鬼丸君とアドレスを交換してから、ずっと続いていた朝夜の挨拶がここ一週間ぱったり消えた。
此方から連絡を取ってみても、いつもより格段に返信が遅い。そのまま何も返ってこない事もままある。
昼休みに校庭に来なくなったし、廊下で見かけることもなくなった。
やはり、猿河君の言っていることを気にしているのかもしれない。
心の中にぽっかり穴があいたようだ。とても寂しい。
勿論、生徒会の仕事も勉強も大切だ。
だけど、鬼丸君と触れ合う事だって僕にとっては、非常に大切な事なのだ。
やはりこのままにする訳には行かない。
だって、そうでなければあまりに詰まらない。
友達に会えない日常は退屈だ。どうしても足りないと感じてしまう。
鬼丸君にどのように説明すれば分かって貰えるとか、全然思いついていないのだけど、とりあえず話してみなければ何も始まらない。と思う。
彼女ならきっと僕の言いたい事を正しく理解してくれるだろう。まだ知り合って数ヶ月なのに、何故そんな事が見込めるのかと言われたらそれまでなのだけど。
◆
「桐谷って、損してんのか得してんのか分かんないわよねー…」
「そうだろうか」
去年の体育祭を記録したDVDを放送局に借り、生徒会室でそれをPCで再生して参考にしながら資料を作成してると、花巻が入ってきて生徒会室のマグカップとインスタントコーヒーを飲んで寛ぎだした。他の生徒がいるわけではないので、別に構わないのだけれど。
「得なのはさぁ、まぁ、家が金持ちなとこじゃん。親は医者で分家とはいえ日本有数の名家で、この先一生落ちぶれるわけないぐらいの家柄じゃん。しかもそんな猛勉強してる様子も見えないのに異様に頭良いし、要領も常人の1.5倍は良いじゃない」
「1.5…どこからその数字が…」
「と、当社比よ!細かいことは気にするなっていっつも言ってるでしょ!」
「そうか…」
そうよ、と花巻がコーヒーを啜った。
「見た目だって悪くないし…。いや、これ褒めてないからね」
「そうだろうか?人に恐怖を与えてしまうような顔だと自分では評しているんだが」
「ああ、いつも真顔だからね。真顔だと怒ってるように見える系統の顔ではあるわね。でも、実際はなーんも考えてないんでしょ」
ふん、と花巻が鼻で笑った。
思えば彼女とは色々とあった。
まず、入学式の日に飛び蹴りされた。どうやら、彼女がやるはずだった新入生代表の挨拶を急遽僕がする事になってしまったからだった。謝ったのだが、結局「許す」の一言は貰えなかった。
そして、生徒会に同時に入った時は、「手柄横取りマン」と渾名をつけられ常時呼ばれた。なんとか懐柔出来ないものかと菓子を頻繁に渡していたのだが、ついに態度は軟化する事はなかった。
テストの度に、返却された答案を奪われ「頭おかしーんじゃないの!死ね!」と毎回罵られていた。しかし国語か日本史で二度ほど、彼女の得点が上回ったらしい時はとても機嫌が良く花巻行きつけの店でラーメンをご馳走になった。
一年後期の生徒会選挙に立候補の時に、体育館の壇上で握手をした時に足も力いっぱい踏まれていたが、その目があまりに真っ赤になっていたので何となく何も文句を言う事が出来なかった。
「損してるのは、そうね…あんまりにも完璧秀才生徒会長というキャラクターが定着して、誰もが自分の足元にひれ伏すのに、そんなものに執着どころか全然価値を見いだせない所」
「…花巻、君は一体何が言いたい?」
顔を上げると、一瞬目が合ってしかしまた逸らされた。
今日の花巻は少し様子が変だ。
「あの子なら、そんな概念ごとぶち壊して普通の人として仲良くしてくれるとでも思っているの」
「あの子?…鬼丸君の事か?」
「そう、鬼丸哀。ぽっと出のよく分かんないやつを、あんたは随分特別扱いしているようだけれど、本当にそれでいいの?確かに桐谷を恐れてないようだけど、それがあんたの良い部分さえも何も理解してないのだったら?あんたの利用価値に気付いた途端、裏切られたらどうするの」
「あり得ない」
「いや、世間知らずのド天然が言い切れるわけない。あんただって、鬼丸の何を知ってるわけ?誰でも良かったんでしょう?あんたがずっと欲しかった普通の友達になってくれそうな人なら」
じゃあさ、と花巻が言葉を続ける。
何故か分からないけど、声が震えているように聞こえた。
「私だって、良かったわけじゃん…」
「花巻?」
花巻は無言でそのまま生徒会室を出て行ってしまった。てっきり、DVDの返却を待っているのかと思ったが、放送局に行くともう帰宅したと告げられた。
しかし、どういうわけなのか。
話を纏めるとこういう事なのだろうか。
・鬼丸君を疑え
・花巻は友達になりたかった?
全然分からない。
鬼丸君を何故疑わなければならないのか不明だし、花巻にはそもそも嫌われていると思っていた。というか、昔実際に「嫌い」と言われた事があった。
取り敢えず、これは保留という事にしておく。花巻には明日にでも聞いてみよう。
送迎車が到着する17:00まであと20分程、今日の分の仕事を終えて正面玄関に向かった。
まだ数人、生徒がいる。部活帰りなのかもしれない。テストも終わって、今日から再開する部活も多いはずだ。
二年の靴置き場に座り込んで男女が数人何やら話している。
とても楽しそうで、僕がその場に行くと水をさすと思うので通るのは気が引けた。
といっても時間を潰す宛はなくて、そういえば図書館で借りたままの本があったのを思い出した。
「あれ、桐谷先輩?」
驚いた。
図書館で鬼丸君に会うなんて。
「あぁ~、私実は図書委員なんすよねぇ~。てか、後期から図書委員になっちゃって。本とか全然読まないのに。あ、本の返却ですよね。どうぞー」
差し出された手を反射的に握ってしまった。
「ん、握手ですか?」
にこにこ顔の鬼丸君を見ていると、時々泣きたくなる。
悲しいわけではないのに。
「あはは、やっぱ手きれいですよねぇ。先輩」
「そうだろうか」
「そうですよ。大きくてホネホネしてて、白くて指が長くて。ハンドソープのCMが出来そう」
「そうか」
「私、先輩の手すごい好きですよ」
握ったままの手を一緒に掲げて、鬼丸君がまじまじと見つめる。
随分久しぶりに顔を合わせた気がするし、会話も同じく。
「そうか、それは光栄だ。ありがとう」
会ったらまず誤解を解こうと心に決めていたのに、いざ目の前にすると決意も何もかも無意味になる。
それくらい嬉しい。訳が分からないほど、鬼丸君といるのが嬉しい。
「でも、前に手を繋ぐの嫌だとか言っちゃいましたよね。よくよく考えるとちょっと酷い事言ってしまったかなぁ…と」
「気にしていない」
「良かった~。あ、そうだ。私、5時で当番終わりなんですけど、良かったら校門まで一緒しませんか?久しぶりに会ったわけだし」
良かったのは此方だ。
鬼丸君に嫌われていなくて良かった。
そして、鬼丸君からの誘いを断る道理は無かった。
「じゃあ、ちょっと待ってて下さい!今マッハで準備してくるんでっ」
勢い良く敬礼した鬼丸君はそのまま、バックヤードに行って本当に5秒程度で戻ってきた。
「は~、やっとテスト終わったし、自由だ~。聞いてくださいよ、先輩!ウチのクラスのとっとこチワ太郎こと、犬塚はるかにここ一週間のあいだ強制的に勉強会させられてたんですよ~。朝も昼も休みもなく!家にも殆ど帰れず!携帯も触れず!横にはずっと、スパルタ鬼カテキョ・犬塚君が!私、この数日で2キロは痩せた気がします…!体感的に!」
「そうか。それは大変だったな」
彼女になかなか会えなかったのは、どうやら中間テストに向けて猛勉強してたかららしかった。
非常に感心する。それに比べて、勝手に寂しいなどぼやいていた自分が恥ずかしかった。
「ポン太も全然構えなかったし…ああ~、肉球不足ぅ…。やばい死んじゃう。肉球モフモフ不足病で死んじゃう」
鬼丸君は沢山喋る人だ。
話題がいつも尽き無い。そして面白く感じる。よく笑ってくれるから、見ていて飽きない。
先程鬼丸君は僕の手を好きだと言ったが、僕は彼女の笑顔が好きである。笑顔を振り撒かれると、幸せな気持ちになる。
「そうか…」
簡単な相槌くらいしか打てない自分がとても嫌だった。
よく喋る鬼丸君に、語彙の少ない僕。
よく笑う鬼丸君に、笑えない僕。
友達が沢山いる鬼丸君に、友達がいない僕。
くるくると色々な事に関わる鬼丸君に、あらゆる事を黙視しているだけの僕。
自分の事を卑下するつもりはないけれど、鬼丸君に比べて自分はやはりコミュニケーション能力が低いと感じる。
一緒にいるとさぞやアンバランスに見えるだろう。
それは、花巻に不釣り合いと言われるわけだ。
鬼丸君は間違いなく『素敵な友達』だ。理由や理屈無しにそう思う。断定してしまう。
でも、僕は鬼丸君にとってそのような存在だろうか?
「では、僕の家に来るか?ワトソン君がいるぞ」
そうなりたいとは思う。
「えっ、いいんですか!?」
鬼丸君が小さく飛び上がった。
びっくりした子兎のようで可愛らしい。
「おお…ついに桐谷邸に…。私、なんかこうもっとフォーマルな格好に着替えた方がいいんですかね?」
「制服のままで構わない。家も君が想像しているほど立派な家ではないと思うぞ」
ただ、歩み寄る事が不可能では無いと思う。
傍に居たいと思う限りは。
その努力は惜しまないつもりだ。




