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桐谷先輩SIDE章
『お母さん、僕のお父さんはどんな人ですか』
幼い頃に母に聞いてみた事があった。
何しろ、生まれてこの方父親に会った事も顔を見た事もない。
『そうね、一言でいうなら嫌なやつよ』
母はデスク後ろの窓から空を斜めに見上げながら答えた。
遠い異国の地で生きているらしい父の姿を思い浮かべているのかもしれなかった。
『なにしろ、偏屈で、融通が利かなくて、心が狭くて、わからず屋で天邪鬼、世界で一番尊いのは自分だって思い込んでいる哀れなほどに痛い人だったから』
当時の僕には少しもその内容を理解出来なかったわけだが。
両親は僕が生まれてすぐ離婚し、母は僕を連れて渡米した。母はそこで働き、僕はシッターに預けられながら米国で暮らした。
『かわいそうに、ユキはお父さんに顔が似てしまったわね。自己表現が苦手な所も。もしかしたら、ちょっとだけ苦労してしまうかもね』
母の膝に顔を付けて纏わりつくと、優しく頭を撫でてくれた。とてもいい匂いがした。弁護士をしていて、いつも忙しいけれど、子供とのコミュニケーションは毎日欠かさない出来た女性だった。
『でも大丈夫。貴方は優しい子、時間が掛かってもちゃんと人の気持ちを考えられるから。〝ごめんなさい〟と〝ありがとう〟が言える子だから』
日本の父に手紙を書いた。習ったばかりの日本語で。文法も酷いもので、ひらがなは多分『ぬ』と『め』と『あ』を混同していたと思われる。読めなかったのだろう、父から返事が来る事はついに無かった。
『いつか、そんなに遠くない将来、貴方の事を理解してくれる友達が出来るわよ。絶対に。あとは簡単、ユキはその子をうんと大切にすればいい。そうすれば、裏切りや嫉妬なんか恐れなくていい、それほど素敵な友達になってくれるから』
母は何もかも知っていた。
スクールで孤立してしまっている事も。僕が逃げ場所を探していた事も。
『そうだ、いっそ日本に帰ってみる?ユキにはその方がいいのかもね』
全てはその一言から始まった。
◆
「にゃあ」
「これじゃあページが捲れないじゃないか」
机の上で本を読んでいたら、その上に飼い猫のワトソン君が乗ってきた。
かわいらしい。非常にかわいらしいのだが、本の内容の続きも気になるわけで。
「わ、ワトソン君…」
力を込め過ぎずなんとか退けようとするが、とうとう香箱座りしてしまったので、もう読書は諦めて、彼の背中を撫でる事にした。ごろごろごろ、と猫科特有の喉ならしをし始めてご機嫌そうなので、まぁ別に良いだろう。
「雪路さん、車の準備が整いましたよ」
お手伝いさんの千津子さんがドアを開けて告げた。
彼女は僕が日本に来てから桐谷家の専属メイドとして本家から配属されてきた。実に三年ほどの付き合いになる。
彼女は気さくで、穏やかな人柄で僕はとても信頼を置いている。
「ああ、ありがとうございます」
制服のブレザーを羽織り、本の上のワトソン君をひと撫でして部屋を出る。
夏休みが終わって、高校二年の新学期が今日から始まる。
特になにも変わる事はないのに、なぜ少し気持ちが高揚してしまっている。
そういうものだろうか。
一階に降りて、扉が閉じたままの書斎に「行ってきます」と声をかける。
三日ぶりに帰宅したまま、調べ物があるといって書斎に引きこもったままなので、大丈夫なのだろうかと思う。
「忍様は著書の執筆活動もあるので無理されているのでしょう。お休みになるようお伝えするので大丈夫ですよ」
千津子さんが朗らかに微笑んだので安心した。
僕は今、父と暮らしている。
と言っても住み込みで千津子さんも飼い猫のワトソン君もいるが。
父は医師をしている。曽祖父の代から続いている病院の院長に2年前から就任している。
共に暮らして七年程になるが、父の事が分からない。
基本的な情報なら大体把握している。例えば、年齢、職歴、家族構成など等々。
家族なのだから当たり前の事のようだけれども。
しかし、情けない話なのだが、父の性格や嗜好、趣味はよく分からない。
中学の時は僕の方が寮生活だったのもあるのだけれど、実際に生活して特に会話や雑談もする事は無いし、何を話していいのかも分からない。
勉強の事や試験の点数や成績についてのコメントをする。が、まるで決まりきった台詞を受けるだけ。はい、しか求めていないのは一目瞭然。
仕事や出張で家に帰るは二週間おきで、それすら書斎に篭っているので接触自体少ない。
所謂ワーカーホリック。
人の事は言えないが。
僕だって、生徒会や勉強が忙しいと何かと帰宅するのを遅らせている自覚はある。
家族なのに、息が詰まる。どうすればいいのか分からず、途端に頭の中が真っ白になる。
逃げているのだとは分かっている。
逃げて逃げて、そのまま大人になって、独立して、この先はまだ考えたくない。
「…あ、すみません。ここで下ろしてもらっていいですか」
運転手さんに車を止めてもらってドアを開けた。
反対側の歩道に手を振ってみた。流石に大振りで振るわけにも、声を出すわけにも行かないので、彼女は気付かない。かといって横断歩道もないので、渡れない。
上手くいく確証はないが携帯を取り出して、LINEでメッセージを送った。
おはよう、と打ってみたら、彼女はブレザーのポケットに入れていたらしく携帯を取り出して、すぐに返事が返って来た。それが嬉しかった。
『おはようございまーす(*Ü*)ノ"☀…てか、さっきも言ったじゃないですか~笑』
文章というのは人柄が出て、とてもいい。そう思う。明るくて可愛らしい。
彼女と携帯で遣り取りするのはとても楽しい。会話するのと同じくらい楽しい。
左にいる、と打つと顔を上げて辺りを見回す彼女はミーアキャットに少し似ている。
少し手を上げると、気付いてくれたようで手を振り返してくれる。心底嬉しそうに。
『あれ、先輩今日は歩きですかー??珍しい…』
『ついそこで下ろして貰ったんだ』
『ああ~。学校の前に止まるのさすがにちょっと目立ちすぎますもんね(^_^;)』
本当は鬼丸君がいたのが見えたから下ろしてもらったんだが。まぁ、いいか。正直に言ったら、そんな事しなくて良かったのにときっと言われてしまうから。
彼女は鬼丸君。
後輩の女の子。元気で明るく素直で、可愛らしく優しい。そして僕の友達。
二つのふさふさしたお下げと大きな口がトレードマークと僕は思っている。
ほら、口を大きく開けたり閉じたりしてニコニコ笑っている。見ているだけで元気が出てくる。
『鬼丸君はちょっと見ない間に少し日に焼けたな』
『え?そうですかねぇー?先輩は全然変わらないですね!!』
僕は夏休みに軽井沢の別荘に行っていた。散歩みたいな運動はしていたが、あまり外に出歩かなかったからだろう。元々日に焼けにくい体質だというのもある。
『そういえば犬塚君の風邪は治ったのか?』
『もう大分元気らしいですよ~』
〝そうか、それはよかった〟まで打って何か顔文字を付けようか迷っているうちに新しいメッセージが来てしまった。
『あ~、学校始まって初日で数学の中テストあるんですよー…。最悪ですわぁ…(´Д`)』
『そうか。それは大変だな』
『かくなる上は、先輩にカンニング協力を依頼するしか…』
『あいわかった。何時間目だ?』
『いや、冗談ですよ?』
友達はいいものだ。
非常にそう思う。楽しい、嬉しい、暖かい。そういえば寂しいとか悲しいとか、彼女と会ってからは思っていない。意図せず誰かに怖がられたり、避けられても前ほど不快に感じなくはなっていた。
「あ、やっと合流できましたね!改めまして、おはようございます!桐谷先輩!」
校門前で鬼丸君が立ち止まって僕に言う。
柔らかそうな髪が揺れて、丸い頬がくにゃりと変形した。
「…ああ」
眩しい。
鬼丸君の笑顔が眩しくて、とても直視出来ない。
「せ、先輩…。なぜにそんなに眉間に皺が?お腹の調子が…?」
違う。違うのだけれど、うまく言葉で表現出来ない。




