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迷惑だろうか、忙しいだろうか。
あまりにしつこいと嫌われてしまうかもしれない。でも、それくらい自分の口で説明しなきゃだめだ。
電話をかけようか何回も迷って、爪先が引っ掻いた通話ボタンを慌てて中断した。
これでいい。きっと時間があるのなら、履歴を見てかけ直してくれる。
携帯を胸の前で強く握り締めた。大丈夫、こうなるのは仕方がない。
いつか私の記憶が戻ったらきっと全部上手くいく。今は我慢するしかないのだ。
私だって自分の事をなんにも知らない他人をいきなり家族だと思えるかなんて自信がない。きっとその位、家族とは重いものなんだろう。
誰かが耳元でけたたましく笑っているのが聞こえる。
耳を塞いでも塞いでも止まらない。顔を隠しても、誰かに見られている感じがする。
夏でクーラーも付けてないのに、手足が冷たい。タオルケットに包まって親指の爪を齧る。…また、やってしまった。また爪を切りそろえなければ。深爪するからやらないように気を付けていたのに。
大丈夫、あと2、3時間もすれば彼女がやってくる。
それまでの辛抱。きっと彼女が来れば全部解決してくれるだろう。
いつもの私に戻してくれるだろう。
こんなの変だ。異常だ、と誰かが言ったら、残念ながらそれを否定するだけの根拠が揃ってないから事実になってしまう。だから最後まで人の目に触れないよう隠し通さなきゃならない。
時計の秒針の音が部屋の中で大きく響いている。
◆
雨が降っている。
小雨だが、朝からずっと降っていて空が分厚い雲に覆われているせいで暗い。蒸し暑いというより、肌寒い。雨の匂いが鼻腔にずっと留まっている。
頭が痛い。偏頭痛というほどじゃないけど、時々ひどい頭痛に襲われる。それはこういう降り方をする雨の時が多い。
だから、私は雨の日があまり好きではない。
「じゃ次、鬼丸さん次の英文読んで」
その言葉にハッと我に返った。
そうだった、今は授業中だ。慌てて教科書に目を通すけど、何処を読めばいいか分からない。
「54ページの5行目。There is no humanの所」
見かねた隣の席の犬塚君がこっそり教えてくれた。やっと読む場所を見つけて、たどたどしく英文を読んだ。
何やってるんだ。普段の日常こそしっかりしなければならないのに。
頭痛のせいか。違う、それだけじゃない。休み時間になってケータイをチェックしてもまだ折返しの着信もメールも来てなかった。
一息ついて、顔をあげてびっくりした。
「鬼丸、どうした今日」
犬塚君に顔を覗き込まれてた。完全に気を抜いてたから、思いっきり仰け反ってしまった。
「え…何もないけど?私、何か変?」
「ぼーっとしてるっていうか、いつもより元気ない感じする」
「えへぇ?そうかな、そういえばちょっと寝不足かも。…徹夜でゲームしてて」
「お前な…」
呆れ顔をされて、ほっとする。それが多分へらへらしているように見えたらしく説教モードに移行していくのを感じ取る。近頃学祭を乗り越えて何かしらのリミッターが外れたのか、犬塚君が世話焼きを所構わず発揮するようになってきたので少し対処に困る。
「少しは勉強もしとけよ。夏休み開けたらすぐ期末試験だぞ」
「あー…そうだテストが…。やばっ、そういえば補習あるんだった」
「いいことだ、遊び呆けてサボんなよ」
はーい、と明るめに答えて犬塚君のツッコミレーダーに引っかからないようにこっそり額に掌を添えた。
相変わらず雨のせいで頭が痛い。鞄の中に鎮痛薬が入っていたのを思い出す。朝にも飲んだけど、やっぱりもう一度飲んだ方が良いだろう。
水飲み場目指して廊下を歩いていると、誰かに名前を呼ばれた。
「うわぁ…如月さん、ここ一年のトイレ前ですよ。何やってるんですか」
カメラを頭から下げて女子トイレをうろつく姿は、見紛うことの無い変態だった。
「理科室からたまたま通りかかっただけだ。ていうか、鬼丸。お前最近ミッションサボってるだろ。たるんでるぞ、そんなんで目的を果たせると思ってるのか!」
また、面倒な人に遭ってしまった…。
そして怒鳴られると頭の中で反響して痛いどころか気持ち悪くなるのであまり大声を出して欲しくない。
「…たるんでるのは如月さんじゃないですか。杉田さんにデレまくった結果、もうこのまま愛でる会のカメラマン一直線コースですよ」
「そ、それも計算のうちだっ!なんだそのムカつく顔は!べ、別に海で一気に距離を縮めようとか考えてないからなっ」
「救えない程に下心の塊じゃないですか…情けない。ていうか、如月さんやっぱ行くんですか?下手こいてバレるのも不味いし、一緒に辞退しません?」
一人じゃなにかと断りにくい。行かないのが私だけなら、仲間外れになるのだけは嫌だしその後、一人だけ話題に乗れないのも嫌だ。
誘ってくれるの自体はありがたいのだが、実は海みたいな水辺は苦手なのだ。出来ることならあまり近寄りたくない。
「はぁ?攻めは最大の守りだぞ。ここでネタを掴まないでいつ掴めるんだよ!」
「ちょ、大声出さないで下さい…。でも、あんまり私と如月さんが一緒にいる所を見せるとマズいと思うんですよね。猿河氏結構勘付いているような気が…」
やばい。本格的に吐き気がしてきた。
既にこみ上げてくるものがとうとう我慢しきれない状態にきている。これは一回吐いてきた方がいいレベルだ。
「じゃ、とりあえず話はまた後で」
「あ?ちょっと待てや!!うおっ…」
無理矢理話を切り上げて、トイレに向かおうとした所を手首を掴まれて引っ張られた。
私も余裕が無くて怒鳴り返してでも振り払ってしまおうと後ろを向いた。
「君たち、さっきから何の話してるの?俺の名前が出てるみたいだし気になるなぁ」
だが、私を引っ張った腕の主は如月さんじゃなかった。
我が校きっての麗しの美男子、猿河修司が穏やかな口調で険しい表情という矛盾を体現した様子でその場に立っていて、私はあまりのショックで即座に吐瀉物をスプラッシュマウンテンしてしまった。
◆
「顔見て吐かれたのなんて、生まれてこの方初めてだよ」
ジャージを着た猿河氏が保健室のベッド横の椅子に座っているのを見て、流石に申し訳なさに泣きたくなる。
こともあろうか、思いっきり猿河氏の制服にぶちまけてしまった。そしてダメ押しに、ショックで腰を抜かした私とドン引きする如月さんを尻目に猿河氏に汚物処理させてしまい、そのまま保健室に担ぎ込まれて今に至る。4限目の授業は抜ける事になった。付き添いという事で何故か猿河氏もいるがこの辺は何か裏工作の臭いを感じてならない。
「ごめん、本当ご迷惑おかけしました…。今日は何か朝から頭痛が酷くて」
「へぇー、だからこれ持ってたんだ。病院には行かないの?」
半分が優しさで出来ている薬剤の箱はすでに猿河氏の手に渡ってしまってるので下手に誤魔化しても墓穴を掘るだけだと判断してその部分は白状した。
「前に行ったけど、結局原因不明で。まぁ、滅多にならないからそれでもそんなに不便しないんだけど」
「原因不明?なんかストレスとかじゃないの?」
「ストレス…うーん、どうだろう。でも結構原因が分からない頭痛って多いみたいだし」
病院の先生に言われたのは、記憶喪失が関係しているのかもしれないと言っていた。
無理に忘れてしまった時の事を思い出そうとすると酷く頭が痛んだりするのだが、それと同じ事が無意識下で起こっているのかもしれないというのだ。それでも思い出せないんだから、痛いだけで全くメリット無しの迷惑なだけの話だ。
布団の上の私の手の甲をいきなり握り締められたので、何事かと顔を上げたのはやや半目になって此方を睨む猿河氏の疑わしげな顔がものすごく近くにあって「ひっ…」と思わず短い悲鳴を上げてしまった。
「哀ちゃんさぁ、何か隠してない?なんか臭いんだけど」
「え?な、何も?別に隠してなんかないですけど。臭いのは吐いたせいだと思うんであんまり近寄らないで…」
いいから、と猿河氏は人の尊厳を丸っとスルーして尋問する姿勢を崩さない。
「…もしかして、如月さんの事?」
「そっちも気になるけど、多分別件。もしかして、なんかずっと悩んでる事とかあるんじゃないの?もうこの際だから、何でも言って楽になっちゃいなよ。ほらほら、どんな馬鹿馬鹿しい事でもいいからさ」
「えー…」
何故、猿河氏がそんな事を拘るのか分からないが何と言われようと怪しまれようと、これ以上教える気はない。
「例えあったとしても、猿河氏には全く関係ない話だよ。それにさ他人の事なんて知らない事が多いのが普通でしょ。ましてや知り合って数ヶ月の人だよ?いきなり自分語りペラペラし出しても鬱陶しいだけでいい事ないよ」
「鬱陶しい?今は僕が教えてって言ってるんだからそんな訳ないじゃん。なんでそこまでして頑なに拒否するの。ゲロまで見た仲だよ?」
…ゲロは別に見せようと思って見せたものじゃないんで、勘弁してください。
「拒否なんて人聞きの悪い。こういうの、プライバシーっていうんです。ちゃんと認められた権利なんで侵害しないで下さい」
まだまだ不満の色濃く残した翠の眼を、私も見返す。
「…あんたの場合、プライバシーってかATフィールドみたいだけど」
「意味分かんないし…」
「僕は結構、哀ちゃんになら何でも思ってること話せるけどね。それってなんか不公平じゃない?」
「そりゃあ、猿河氏は超リア充で、自分のする事なす事に恥という二文字がないからだよ。不公平なのはこっちだよ、世の中クソだな」
それは6割がた事実じゃない、という事は分かってるけど、こういう言い方をすれば猿河氏が怒ると思った。それでこれ以上無駄な問答を止めてくれるだろう。私に何を期待しているかは分からないけど、無駄だと思う。ていうか断言してもいい。
私には何もない。過去も記憶も優しさも強さも感情も、大事なものが尽く欠けている。
「その通り。世の中クソだ」
しかし予想に反して、可笑しそうに(ていうかモロに喉を鳴らしながら笑い声を上げて)猿河氏が頷いた。
…何が面白かったのか全く少しも分からないけど。
「なんか薬飲んで眠くなったから寝る。猿河氏もう教室戻っていいよ…」
流れが切れた会話がもう二度と続かないように、猿河氏に背を向けてベッドに潜る。
戻っていいと言ったのに相変わらず背後から人の気配が消えず、もう一度戻るよう促そうとも思ったがそうすると猿河氏の思う壺のような気がして、考えた挙句無視してそのまま眠りに堕ちた。
人は置かれた環境に順応する生き物だ。だから、いつかきっと何も感じなくなる。
いつまでも捨てれない淡い期待も、繋がりを断ち切られていく痛みも、頭の上から爪先まですっぽり覆うような膨大な不安も、近い未来に消えていく。
振り返れば、こんなの全然大した事じゃなかったと笑い飛ばせるかもしれない。だから平気で大丈夫。
◆
目を開けたら、覗きこむ頭の数が増えていた。すぐに覚醒して飛び起きる。
「鬼丸君、そんなに慌てなくていい。まだ顔が真っ青じゃないか」
すぐさま桐谷先輩が私の体を支えて、またベッドに戻した。
なんで、桐谷先輩がここに…。そもそも学年が違うので私が保健室にいるなんて知りようもないはずなのに。
「やっぱり、調子悪かったんじゃねーか。早く言えば良かったものを。てか、なんで猿河もいるんだよ。お前、鬼丸に変な事してないだろうな?」
布団を掛け直しながら、猿河君を忌ま忌ましそうに睨む犬塚君。
まさかこの三人がこの場に揃ってしまうとは。なかなか不思議な組み合わせで、なんだか貴重な気もする。
「変な事ぉ?なにいってんの、吐くほど弱ってる哀ちゃん運んできたのは僕だよ?ああ、そっか。バカ駄犬は万年発情期だから、弱ってようが何しようが関係なく変な事しちゃうんだー。うっわー、サイテー」
「…こんの、クソ猿」
犬塚君に胸倉掴まれても、涼しい顔で憎まれ口を叩く猿河君はここまでくると清々しい程だ。
「あの、なんで2人はここに?」
乱闘が始まる前に質問して気を紛らわせて阻止する。実際に犬塚君と桐谷先輩がここに来た経緯がどうしても気になるし。
「俺は、鬼丸が倒れて保健室に連れてかれたって聞いて、大勢で来ても迷惑かかるだろうからクラス代表で様子を見に来た。早退するなら、鞄とか教室から持って来なきゃならないし」
犬塚君の話に頷いて、桐谷先輩も口を開いた。
「僕は犬塚君が保健室に向かう途中で会って、君の話を聞いて同行させてもらうよう頼んだんだ」
「えと…犬塚君と桐谷先輩って何か面識ありましたっけ」
いつの間に、そんな普通に世間話する仲に…。私全然知らなかったんだけど。
「先輩には学祭で助けてもらったお礼を言ってなかったからな。そんなに時間置かずに会えてよかった」
そういえば私と犬塚君が三年の人達に拉致された時に、一度会っていた。
ていうか犬塚君、普通に先輩に対して礼儀正しいな…。プチ不良設定はもう忘れ去られ気味だ。
「で〜?哀ちゃんの顔見て安心したなら、二人共さっさと自分のクラスに戻って貰える?病人だし、あんまりガヤがうるさいと休めないと思うんだよね」
面倒そうに頭を掻く猿河氏を、「いや、お前が帰れよ」と犬塚君が瞬時に切り捨てた。




