01:
「あ、あの…犬塚君、犬塚君」
どうしよう、いやー、ホント、どうしよう。
私は定規で隣の男子の頭をつつく。
さっきから全然動かない犬塚はるか君を。
周りの人達に助けを求めて、視線をあげてもすぐに逸らされる。ひどいっ…。
私こと私立桃園高校一年B組出席番号10番、鬼丸哀は、片手に「クラスTシャツサイズ希望書」と書いてあるルーズリーフ一枚持って途方に暮れていた。
みんなで決めた期限は今日の放課後まで。このクラスTシャツ、学祭で着るものでデザインもクラスにいる美術部の子がした。業者さんに発注して作ってもらうのだが、あまり注文が遅くなると他のクラスと注文時期が被って製品になるのが遅れる。私たちはまだ1年生なので経験はないのだが、過去には遂にTシャツが間に合わず学祭は各自持ち寄った要らないTシャツにたまたま余っていた真っ黒なペンキを塗りたくったものを着て、かなり浮いていたクラスもあったというと担任から聞かされてそれはもう恐ろしいと感じた。それはもう戦慄が走るくらいカッペカペでゴワゴワだったそうだ。高校最初の年、せっかくの学校祭をそんな暗黒色に染め上げたくない。だから、ウチのクラスは念には念を入れ早めにTシャツ制作に乗り出した。
クラスの皆は比較的協力的で、サイズ希望書はすでに全員の名前が書かれている。
いや…すまん、嘘をつきました。
この犬塚君を除いて、全員である。
そして、彼にこれを渡せと、何サイズがご希望かと聞いてこい、という指令が下された。
何故、この私なのかと。
正直言うと、犬塚君とは全く仲が良くない。
そもそも会話が成立したためしがない。私だって最初こそちょっとは会話できるようになろうとは思ったのだ。「ヘーイ!犬塚君!私、鬼丸っていうんだ、これからよろしく!」って笑顔で話しかけた。そしたら返ってきたのは舌打ちのみ。心折れたね。
あと英語の授業の時、犬塚君と小テストを交換して私の回答が間違っているたびに舌打ちする。しかも全問間違えていた時には、『遺伝子形成からやり直せ、カス』って書かれていた。そして猛犬の名に恥じることなく、仮にも女子の敵意むき出しの目で睨んでくるのだ。これ以上近寄ってきたらコロス、と。
そんな私がどうして犬塚君にサイズ希望書を書いてもらう役目を担ってしまったかというと、隣の席だから、だそうだ。
犬塚君の席は一番窓際の最後列。なので、私しか隣の席がいない。
にしてもだ、前の席はいるのだ。しかも男子。どう考えても同性のほうが話しかけやすいだろと思う。こんなの絶対おかしいよ!という反論はクラスで最下層のヒエラルキーにいる私にはできなかった。
そうして、現在困っている。
今、昼休み。次の授業は選択授業で教室を移動しなければならない。その次は体育。放課後はきっと犬塚君は人の話も聞かずに早々に返ってしまうだろう。
この時間しか、もうないのだ。もうそのリミットは10分を切っているのだ。
そして犬塚君はまさかの爆睡。
しかも、次の体育は屋外だから着替えなきゃいけない。知っているか、犬塚君。ちらほら男子たちがジャージに着替えだしているんだぞ。ここに女子である私が一人ぽつんと取り残されてしまっている絶望。友達は早々に更衣室に向かってしまった…。このままだと私、完全に痴女になってしまう。
つんつんつん、定規でつつくのが焦りから、カッカッカッと力強く素早いものに変わっていく。
早くっ…!早く起きて、犬塚君!
しかし、犬塚君まったく起きる気配がない。
もうだめだ、こいつ…。もういいや、取り敢えずLLサイズって書いて提出してしまおう。大は小を兼ねるっていうし。犬塚君なんてダボダボのTシャツ着ればいいよ…。
私が半ば諦めた頃、それは急に動き出した。
急な出来事に私はうまく反応しきれず、そのまま定規を振り下ろしてしまった。
ざく。
「あ…」
「…………あん?」
刺さった。定規が、犬塚君の額に。
私は、大きな睫のびっしり生え揃った目の奥の瞳孔がゆっくりと拡がっていくのを見た。
あの、猛犬チワワの。
体温が一気に下がっていくのを感じた。
私の手から、定規が消え、床に叩きつけられたような音がした。
やったのは犬塚君だ。
「なにやってんの」
いつもの舌打ちではない、犬塚君の肉声は意外と低い。それが今は異様に怖い。
周りから一斉に音が消えた、そのくせ教室中の視線が集中しているのを感じた。
助けて、誰か助けて。だが、テレパシーは誰にも繋がらない。
どうしようどうしよう。
そうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。
な、なんか言わなきゃ。早く言わなきゃ。
私は生唾を飲み込んだ。
「あ、あああの、いや、定規で起こそうとしたのはですねっ、べべべ別に犬塚君に触りたくなかったとかじゃなくてですね!後で、私ごときに触られて起こされたら犬塚君が不快な思いをしてしまうんじゃないかなって思った次第でありまして!いや、本当っすよ!どうもすいませんっす!後生ですのでどうかお許しくださいっ!あと、これクラスTシャツの…アレっす!ほら、あの…アレするやつっす!どうぞご記名のほどよろしくお願い致しますっす!」
早口でまくし立て完全にテンパってしたあげく、ルーズリーフを犬塚君の顔に叩き付けてしまった。パァン!と、それはもういい音がした。
ひ、ひぃいい…!と私は自分のやってしまった行動が自分で信じられなかった。もう自失呆然状態。錯乱寸前の頭でなんとか自分のジャージが入った袋を抱えて教室から全速力で逃げた。
◆
「哀、なんか顔色悪くない?」
友人の沙耶ちゃんが私の顔を覗き込んで我に返った。
さっきからずっと犬塚君の件で思い悩んでいた。もうどんなに私が今更悩んだところで仕方がないとはわかっているけど。
「え、いや…なんでも、ない」
一瞬、ぜんぶ沙耶ちゃんにぶちまけて少しでも心の負荷を減らそうとか思ったけど、あの猛犬に事実上ケンカを売るような行為をしてしまったことが知られたら縁を切られそうだったから止めた。
「テンションも低くない?いつもの哀なら体育の時は、ぎゃー!幅跳びだー!うぇええーい!とか言って運動神経切れてるくせに無駄に大はしゃぎしてるのに」
「沙耶ちゃん…その顔芸は、もしかして私の真似?」
うん、と邪気のない顔で沙耶ちゃんは頷いた。凹むなぁ。沙耶ちゃん、それは微妙に結構凹むなぁ~。
5時間目の体育、グラウンドに集められて女子・男子に分かれている。ちなみに、先生も男子と女子で違う。男子の方がイケメンで若い先生で、こっちがおっさんなのは若干遺憾だ。
女子は幅飛び、男子はその隣のブロックでハードル飛び。怖いので、未だ男子のいる方には視線を合わせられない。できれば体育館とグラウンドとか出来るだけ距離は置きたかったのだが、こればっかりは私にもどうでもできない。まぁ、多分犬塚君といえども女子の中に乱入したりとかはできないのでこの時間は安全だとは思うけど。
「ああ、鬼丸!そういやクラTのやつ犬塚に書いて貰った?」
だらだらと沙耶ちゃんと話しながら柔軟をしていたら、荻原瑞希ちゃんがこちらに来た。萩原ちゃんこと愛称・ハギっちはうちのクラスのボス格にて女バレのエースである。170センチを超える高身長で割と男勝りで声も大きめで、なんていうか、とても迫力がある。
小心者の私は思わずビクッと肩を揺らせてしまった。
「う、うん。えっと…一応、渡した、よ。うん…」
ついハギっちから目を逸らしてしまう。
なにしろあのルーズリーフを犬塚君に渡してと頼んだのは彼女である。
ハギっちにものを頼まれないと、断れない傾向がある。だってハギっちはクラスのリーダー的存在で、人気者で女子の友達も男子の友達も多い。彼女の反感を買うことは自分の立場を危うくすることを意味する。
っていうかハギっちが犬塚君に渡した方がよかったと思う。絶対そのほうが円滑に物事が進んだ気がする。私はどちらかというとボケタイプなんだから、キラーボケの犬塚君と相性悪いのくらい分かるでしょうが!
「そっか!ありがとね!」
ハギっちは、もごもごと微妙に煮え切らない私の返事に特に怪しむ様子もなく労うように私の肩を叩いてくれた。でも、ハギっち…ごめん、ちょっとそれ結構痛い。
それでも、やっと私は緊張が解れていって笑えるようになった。
周りを見渡せば、まだ他の女子たちは同じように柔軟が終わってない人もいて先生の招集もかかってない。
そうすればすることは、もちろん雑談である。
「あ、そうだ。鬼丸って昨日の仮面ファイター見た?」
ハギっちの言葉に、つい「ああ!」と大きな声を上げてしまった。
私も見た!と隣の沙耶ちゃんも興奮気味に喋った。
仮面ファイター(正式名称は仮面ファイター正義)とは最近、ウチらのクラスの女子間で流行っている子供向け特撮ヒーロー番組である。なぜ16、15の乙女がそんな男の子をターゲットにした番組にハマリ、わざわざたまの日曜、朝八時に起きてテレビにかじりついて視聴しているのかというと。
「やっぱタケト超かっこいいよねぇえええ!」
そうなのだ、主人公役の俳優が超イケメンなのだ。その上そのライバル的ファイター役もイケメン、対峙する悪の帝王すらイケメン、その下っ端のショッ○ー的役も皆イケメン。主人公にいつも助けられるけど時にはピンチを救うヒロインポジもイケメン。もうイケメンしか出てこない!!イケメンインフレーションが起きている。
私たちみたいな女子校生がいるのか、それとも主婦層の食いつきがいいのか、仮面ファイターは歴代ファイターに比べ郡を抜いて視聴率がいいよね。
「私はやっぱ、ダークネス涼様派だな。昨日もめっちゃカッコよかった」
鼻息荒くする私に沙耶ちゃんは「あんた、結構ビジュアル系好きだもんね~」とにやにやして言った。
「え、涼って気障すぎじゃない?あと技出すポーズもダサいし…。私イマイチなんだけど」
ハギっちが涼様を否定する発言が飛び出て、ついオーバーに「えぇ~!」と仰け反ってしまった。
「なんで!?涼様めっちゃカッコいいやん!昨日もすっごく輝いていたよ!見た?昨日の涼様の新技!ファンタスティック☆エナジー延髄斬り!こうきて、こうやってっ、こう…腕から青い波紋を出して、さぁ…」
ばっ、ばっ、と昨日の記憶を頼りにして新技のポーズを取っているとバコ、と何かに頭を叩かれた。見上げると中年体育教師がいた。私の頭の上に乗っているのは出席簿。
「こら、いつまで騒いでるんだ。お前らそんなに元気が有り余っているなら器具室から巻尺とトンボ二本くらい運んで来い」
「はい…」
叱られて項垂れてなんかいい年して先生に叱られてなんか落ち込んで、私たち三人は大人しく器具室に向かった。
「それにしても重じいも、厳しすぎだよね」
器具室に入って最初に喋りだしたのはハギっちだった。
それに応えて私も口を開いた。
「本当、他にも喋ってた子いるのにねー」
「…いや、あんたは普通にはしゃぎすぎだったよ。めっちゃ目立ってたし」
沙耶ちゃんの言葉に「マジで?!」と目を剥く。そんなに派手な事してたっけ…。
私はただ涼様の魅力を皆に伝えたかっただけなのになぁ。
「ていうか巻尺どこー、整理くらいしとけよー」
ぎゃーホコリ臭っ、と言いながらハギっちがごそごそと巻尺を探して他の器具を退けようとしていた。それを手伝おうとして一歩進んだ所で妙な胸騒ぎがして立ち止まる。
開きっぱなしのドアに影がさしたのか、薄暗い部屋の中がさらに暗くなる。
振り返った沙耶ちゃんが「あ…」と声を上げた。
嫌な予感がした。
すごくすごく嫌な予感だ。
だってあのハギっちさえこっちを見たまま固まっている。
「おい」
低い、なんかつい最近聞いた声が背後からした。
恐る恐る首だけ振り返ってみるとやはりそこには彼がいた。
猛犬チワワだ。
いやもう、チワワどころじゃない。うるうるした愛くるしい目をしていない、凄まじい怒りのオーラを放って此方を睨むその姿はもう闘犬そのもの、土佐闘犬だ。横綱や!
おいでなすった!私の楽天的な予想を乗り越え易々とおいでなすった!
「悪いけど、こいつ借りてっていい?」
犬塚君がこんなに長い台詞を喋ったのは初めてではないだろうか…。できれば違う台詞がよかった…。
しかも私、今ジャージの襟首掴まれてない?うん、やっぱ掴まれている…。
「あっ、うん…いいよ、ど、どんどん持っていっちゃって!ね、ハギっち?」
「うっ、うん!私たちだけでも準備は出来るし!」
そして目の前で繰り広げられる友人二人の裏切り行為。
犬塚君はそれを聞いて了承したのか無言で私を引き摺って歩き出した。
私はそれほど、身長が高くない。
身長160センチと言いたい159.6センチである。その上、足が銅より短い。
一方、犬塚君は推定165程度でそこまで差はないはずなのに大股でしかも異常に早足なので必然的に引っ張られる形になる。さらにこっちは態勢的に後ろ歩きをしている。余計辛い。
さっきから「あの…ちょ、止ま…!」とか声をあげているが犬塚君は無反応。
やばいわ~、これは怒っていらっしゃるわ~…。
やっぱり昼休みの件だよなぁ…。
もう考えてみたら定規の時点で失礼だったもんなぁ…。
私、アホすぎ…。もうすごく反省して、これからは鬼丸・アホス・哀と名乗るからもう許してくれませんか。
腹パンとかされるんだろうか。壁に頭を擦り付けさせられ、そのままズサーってされるんだろうか。それとも砂場の砂の中に顔だけ埋められて、上から蹴られたり…?
どのみち私刑で死刑だろう。
だって相手は闘犬と化した猛犬だ。女子相手に手加減するような生易しい奴ではない。
ああ、短い人生だったな…。くそっ、あの私を売った悪魔どもめ。犬塚君にボコボコにされて死んだら化けて呪ってやる。
ていうか、犬塚君一体どこに向かっている。そっちはソフトボール場…そっちにいっても誰もいないよ…ってそうかいくら私が大きな悲鳴をあげても聞こえないようにってか。怖いぃい…あんさんガチで怖いわぁあ…!
私の嫌な予想を照明するみたいに犬塚君はソフトボール場の隅の空間、設計的に校舎の壁に四方を囲まれた所で手を離した。
「い、犬塚君…あの、本当さっきはごめん…」
謝りつつコンクリ壁に背中をぴったり貼り付けて横歩きで退路を探すも、次の瞬間、私の頭の両端の壁に犬塚君が殴るように手を伸ばしてきた。
あ…、これ私逝ったわー…。
絶望する私に、犬塚君は怒鳴った。
「全然違うんだよ、馬鹿が!」と。
へ?何が?と呆然とする私を放置して、ふいに犬塚君は後ろに下がって私から距離を取り出した。
そしておもむろに天空に右手をかかげる。
「こうやって、こうじゃなくてっ!右手はこう、左手は腰!八の字を描きながら、こうして、こうだっ!馬鹿者が!お前は全然分かってない!涼の事を何ひとつ分かってない!」
私の目の前で、あの猛犬チワワが、一見して面白い動きをしている。
すごく良いキレで。
「えっと…犬塚君、それは……なに…?」
は?と犬塚君は動きを止めて怪訝な顔をした。
「ファンタスティックダークエナジー☆延髄切りだ。お前名前まで間違っていただろ、ダークを抜かすな、ダークを」
「えっと…え、それが何…?」
「だから、ダークネス涼の新必殺技!お前やってただろ」
いや、それは分かるけど。
「え…ここまで連れてきたのって、それがやりたくて…?」
私の言葉にあろうことか犬塚君は、「そうだ」と即答した上にちょっと満足げな顔をしていた。
偶然その時、犬塚どや顔を前に固まった私の上空付近を通りかかった鳶がぴーひょろろろろと鳴いた。
私の中で、犬塚君のイメージが跡形も無く崩壊する瞬間だった。