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歪んだ視界が何かを捉える。
ゆらゆらと浮遊する何かを掴もうとしたけれど、何一つ掴めなかった。視界が悪い。急に視力が落ちてしまって、自力で移動できなくなってしまった。
(『間違ってもかけて物を見てはいけないぞ。鬼丸君のせっかくの目が悪くなる』)
誰かの言葉が思い浮かぶ。笑おうと思ってみたけど、喉は限界まで乾涸びて声すら発せられなかった。
起き上がって立ちあがろうとしたら転んでしまった。
痛い。また骨が折れてしまっていたらどうしよう。
負傷して初めて気付いたのだけれど、自分の身体は自分で直せないのだ。
這いつくばって車椅子までたどり着いた。よじ登ってやっと座ってひと息ついた。
これのどこが、天使なんだろう…。
肉体はどんどん脆くなる。凄まじいスピードで体は崩れて弱くなっているのを感じる。
こんな事がいつまで保つのだろうか。
今更、足を止める事なんてできないけど。
「天使さま、儀式のお時間です」
ノックの後にドアが開かれた。
多分、長谷川さんだ。彼女はお父さんと一緒にこの教団を運営していた。30代くらいだろうか、怜悧で言葉が少ない。
私は彼女が何をしたいのか分からない。私も彼女に何をしたいのか伝えていない。お互い利用していて、同時にそろそろ身限ろうとしている。
エデンの苑の会員数は五千。
規模が大きくはなったが、ゴールはまだ遠い。
この力は、物体の時間を変える力は、私にはまだまだ使いこなせなかった。外傷ならまだ何とかなるけれど、大きい進行がすすんだ病なんかはまだ手に負えない。
子供騙しみたいな奇跡しか起こせない。
車椅子に押されて、エレベーターで地下に向かう。
長谷川さんには分かっているのだ。私の消費期限が長くないことが。
「さぁ天使様、受胎を」
地下の薄暗い部屋には信者達がいた。
私は丸洗いされて揉みくちゃにされた。痛かった。けれどそれだけだ。髪を引っ張られそれは大した力も込めずに抜けた。お腹の苦しさも慣れた。あの人に与えた苦しみに比べたらなんでもない。
(そんな事しても、次の天使なんか生まれないよーだ…)
絶対にそんな事をさせない。私や零みたいな子なんて作らせない。確定している不幸な子どもなんか作らせない。
私の子宮にもうその機能はない。既に生理は無く、閉経していた。老化して体のいたる所にガタがきている。思い通りにならなく使えなくなれば結果オーライだ。ここに入る時にそういう事をされるのは分かっていたから。実を結ばなくて本当に。
良かった。ほっとしている自分がいた。早く死に近付く事ができて。
私はこのままこの力を使い続けていたら、化け物になってしまうような気がしていた。もう人間とは呼べない状態かもしれない。だけれど力を完全に自分のものにする前に、覚醒する前に、私の体は壊れるだろう。
暴走してしまわなくて良かった。誰かを深く傷付けなくて良かった。あと少し、あと少しで終わらせられるから。
(お母さん…)
天使になった私なら、お母さんは褒めてくれるだろうか。受け入れてくれるだろうか。抱きしめてくれるだろうか。もう顔もよく覚えていないけれど。
注射針が腕に刺さって、痛みで現実に戻る。
私はまた車椅子に座っていた。
何かを注入されている。よく分からない。これを入れられると痛みが和らぐ。ただ意識が朦朧とした。眠い。寝ている場合じゃないのに。
私を操り人形にするための薬。名前は知らない。別に覚えられる気もしない。
怖くなんかないのだ。もう。例え一瞬先の未来が途切れたって。
ぶつり。
目の前が真っ暗になって、四肢の力が抜けた。
どくどくと血管の中で血が沸る音がした。
目がまわる。世界が反転する。
◆
「あん?なにやってんの」
机に突っ伏して中途半端に上げた顔が私を睨んでいる。
あれ…。ここはどこだ。今は何月何日。辺りを見回すと今はもう懐かしい学校の教室。
そして、彼は…。
「犬塚君…」
後退りしてしまった。もしかしてもしかしてやってしまったのか。また戻ってしまったのか。
「クラスTシャツのサイズ、書いてよ…」
間抜けな声で言うしかなかった。犬塚君は犬塚君のままだ。彼は真面目だからボールペンを差し出すと素直に書いてくれた。本来、私と犬塚君の接点はこれだけの事だったのだ。これで終わるだけだったのだ。
また、やり直しか…。教室から出て、脱力するのを感じた。廊下の隅でへたりこむ。もう体力も気力も限界に近い。
力が使えない。時間を巻き戻せも進ませる事もできない。また何も出来ない私になってしまった。だめだ。これではだめなのだ。私の存在に何の意味もない。何も変えられない。
零は、まだいないのだろう。それまでかかる膨大な時間に頭が痛かった。
私は犬塚君のあとをつけた。何日も何日も彼を見守っていた。放課後も休み時間もよく観察していた。そうしているとやがてはその行動が犬塚君にバレた。
犬塚君は立ち止まって、私を睨んでいた。警戒心と嫌悪があふれた顔で。
「何なんだよ、気色悪いからつきまとうの止めろ」
私は君に見つけてほしかった。
優しい言葉をかけて欲しかった。あたたかい家に迎入れて欲しかった。君の為ならなんだってしたっていいと思ったんだ。
「私は犬塚君を一人で頑張らせたりしない。私は君を分かっているよ」
だから私を受け入れてよ側に置いてよ、と言いたかった。言えなかった。私の発言はただの勘違いの意味不明なだけだった。
「きもちわるい…」
そうだよね。笑えてしまった。もう以前の私がどんな風にふざけていたかも、分からなくなってしまった。私は犬塚君の為になんにも出来ない。
「そぉ、おだよねぇ」
確かに私はキモい。恥ずかしかった。申し訳なかった。こんな一言で傷付く権利なんか私にはない。私は絵に書いたようなストーカー女だった。
君を手に入れたいなんておこがましい。触れることなんて許されもしない。
私はゴミカスなのだから。人間とも呼べない屑。
何にも変わっていない。生まれた時から、あの子の搾りカス。
「えへ、えへへ…好きだよぉ」
決して私を受け入れない君が好きだよ。私の全部をあげたいのに受け取らないで拒絶する犬塚君が好き。
伸ばした手を、叩き落とされた。それすら嬉しかった。私の真ん中の穴に何かが詰め込まれる気がした。
「二度と付きまとうな」
冷たく吐き捨てられた言葉はひりひりとした痛みを伴う。だけどとても安堵に近い感覚だった。
【鬼丸君】
誰かが私の名前を呼んでいる。頭の中で。知らない人の声。冷たくて抑揚のない男の子の声のように聞こえた。あまりに遠いその声を、聞こえなかったふりをした。




