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鬼丸 千萱は、欲の無い男だ。
給料も、かつて信者から集めた多額のお布施も、自身では最低限しか使わない。生活も質素で無趣味だった。
ただ、この社会にしがみつきたいという思いは人一倍だった。
彼は人に認められる事に飢えており、その手段は自分の手でどうにかすることよりも、やはり一族の力を知らしめることだった。
だから、自分の娘が発芽したのだと知った時に、それを世に示さなければいけないという使命感にかられた。
十杷との間に生まれまた娘は、哀と零。
決して縁起のいい名前では無い。彼にとっては、絶望の象徴だった。もう鬼の一族は消えるのだと。
一卵性の双子らしく、二人は似ていた。
千萱に似て顔は丸くて十杷に似て口は大きい。二人とも小さな頃の千萱と同じように感情が薄く、表情も乏しかった。何をするにも、どこに行くにも二人は一緒だった。見分けるのが実の親でも難しい。
千萱も普通の親のように二人と接した。
彼には父親がいない。いや、種の主が誰か分からない。
本や映画に登場するような模範的な父親を演じた。それで元妻は喜んでいたから、多分それで良かったのだろうと今でも思っている。
千萱は彼女らを大事に大事に育てて、そしてその手で手折った。
涙が溢れるその目玉には、あの時の自分の母親みたいに汚らしい獣みたいに映っているのだろう。まだ小さい四肢を押さえつけるのは容易く、事を為すの自体は楽だった。
小さな身体を押し倒して、湿った生肉の中に自身をねじ込んだ。絶望を映したその目を見て、萎えそうになるのに堪えた。彼にとっては、ごく当たり前の事で勿論そこに性欲などない。酷いことをしたという罪悪感もない。それこそ双子のうち、どちらでも良かった。
◆
頭がひどく痛む。しかし病院にはかかりたくない。
千萱は市販薬の箱を開けて、中に入っている薬を全部飲んだ。
気分が落ち着いた後、パソコンのメールチェックをした。
そこにはハセガワの名前があった。
昔、立ち上げた宗教団体の幹部だ。零が死んでしまってから意味が無くなったから潰した組織だったが、そう思っているのは千萱だけで、代表を変えて細々と続いていた。
「零…」
娘が発芽したのだと知った時、千萱は狂喜した。
嬉しくて堪らなかった。ここまで生きてきて良かった、自分の生に意味があったと感じた。
自分は一族を捨てたと思ったが、腐っても鬼丸の人間だった。
双子の片割れの零は、千萱が知っている通りの力を使った。
生物の再生と破壊する能力。使えば使うほど、その力で出来る範囲が大きくなった。
効率良く零に力を使わせるために宗教団体を作った。病や怪我に苦しむ人間を集めてそれを治させた。零は嫌がる事も多くて、それを躾けるために千萱がとっていた方法があった。
美鈴と自分の間に子どもができたと聞かされてから、妙に落ち着かない。性別は分からない。女だといい、と千萱は思う。
零が死んでから、全てを喪ったとすら思った。
既に元妻と双子の片割れは眼中になく、零の存在が彼にとっては全てだった。
もしかしたら、また自分の人生は黄金に輝くかもしれない。
『会って話したいことがあります』
娘の哀からもメールが届いていた。
千萱は会う必要がないと思ったから、返信しなかった。
彼にとって、哀は出来損ないというだけで価値は無かった。
何の価値もない。発芽しない鬼丸の者は。千萱の母親のように。
哀は容姿こそ、零に似ていた。一卵性の双子で、顔も身長も体格も同じ。本当に小さな頃は親の千萱でさえ見分けが難しかった。
『零は生きています』
哀のメールにはそう書かれていた。
そんな事は嘘に決まっていた。小さな子どもにすぎなかった零が自分たち大人を欺けるとは思わなかった。それに、零には母親や双子の妹を見捨てられるとは思えなかった。
それに零の死体は見つかっていた。
川に流されて見つかった時にはもう殆ど原形が無かった。なぜ零が死んだのか今でも分からない。
零は聡い子でしかも小学6年生だった。
不用意に雨で増水した川に近づくとは思えなかった。残された哀に事情を聞こうにも、哀は記憶を失っていた。
そんなはずが、と千萱も最初は珍しく激昂した。
だけれど零は死んでしまった事実は変わらない。千萱の夢は終わった。鬼丸の一族も潰えてしまったと思った。千萱の日常はそれから何の色も失ってしまった。
だからといって、千萱は自分の子どもとして零を愛していた訳でもない。
彼にとってみれば、零も哀も十杷も、他人も道具と同じでそこに愛着は無い。彼は他の人間から見れば異常だが、鬼丸の一族は皆どこか欠落した人間ばかりだ。今更そんな事で罪悪感に駆られたりなどしない。
千萱は哀の連絡には応じなかった。
これまで哀は何度も千萱の気を引くような事を言ったり、しつこく電話をかけ続けたりしたこともある。日頃の行いが悪い。
(そのうち処分しなければならない)
発芽しなかった鬼丸の人間は、子どもを産む道具になるか処分するかだ。
すでに壊れたあれが子を殖やせるとは思えなかったし、このまま千萱の人生において荷物になるのかと思うとぞっとした。
「お父さん」
ふいに呼ばれて顔を上げた。
この世に彼をそう呼ぶのはもう一人しかいない。
そこにいたのは娘の哀だった。
耳の後ろで括ったふたつの髪の束、虫唾が走るほど優しそうな誰か似の少女。自然と舌打ちをした。
なぜ哀がここにいる?千萱にはどうにも分からなかった。
こうやって乗り込まれるのを恐れて、引っ越し先の住所を決して教えなかったはずなのに。
「何しに来た」
哀は、あからさまに寂しそうな顔で無理やり微笑んだままだった。
「お父さん、あの…どうしても私と暮らせませんか?」
その話か。やはり先ほどのメールはただの嘘か。
哀を見ていると千萱は不愉快になる。哀は自分によく似ている。しかも嫌な所ばかり。そんな自分の子どもをどうして愛着が持てるのか。
「馬鹿なことを言うな」
ハリボテの善人面の、他の人間には少しも興味を持てない怪物。
嘘つきで人の顔色ばかり読んでいる。自分ばかり愛されないと気が済まない。変に狡猾で冷血で平然と人道に外れたことをするのに、いつまでも同じ所で立ち止まって動けない。
「私にはお父さんしかいないんです。私は他に頼れる人がいない、いつも一人でした。この先、お父さんが言うように一人で生きていけるとは、到底思えないんです」
だから?としか千萱には思えなかった。
確かに哀がこの厳しい社会で一人で生きれば苦労と苦痛を伴うことは分かっていたが、自分には関係のないことだった。自分だって殆ど身寄りのない状態から今に至っている。親は自分をまともな倫理感を持った人間に育てるなんて思いもしなかったろうし、情など与えられた記憶がない。
千萱の父親に至っては、誰が種の提供者かすら不明だ。それで正しい父親としての関わり方など分かるわけがない。
「お前がどうなろうと、おれには何の責任も関係もない」
いい機会だ、と千萱は思った。そのまま哀の首に手をかけて力をこめた。
前に宗教団体を立ち上げた時に、その筋の繋がりができた。死体の処分は比較的楽にできる。哀が通っている学校には一身上の都合で退学すればいい。この出来損ないが学校や社会で自分の居場所を作れているとは思えない。誰もこの娘を探したりなどしない。
「…それが、お父さんの、答えなんだ」
苦し気に呻くように呟いた哀に、変な違和感を感じた。
ぎりぎりと力を込めたはずが何故か指先が動かない。意図せず、哀の首から手が外れてしまった。
咳き込む哀は逃げたりせず、また立ち上がった。その目つきに既視感があった。
「お前……、零か?」
それは、まったく別人みたいに自分を睨みつけていた。
それは12歳で死んだ零がよく千萱に対し向けていた憎悪の眼差しだった。
「あんたが哀を見捨てるというなら、あんたに生きる価値なんか無い。ただ邪魔なだけ、あの子の人生にとって」
零、と千萱は何を思ったか娘を抱きしめようとした。先ほどまで首を絞めていた、娘の体を。
発芽した娘は、彼にとって宝だった。自分よりも価値があるように思えた。希望そのものだった。
「さようなら、お父さん」
娘の体はほんのり温かく間違いなく生きていると感じさせた。
それに比べて自分の体はどんどん冷えていく、と千萱は感じた。そのうち末端の感覚が無くなり、力が抜けて体を支えることすら叶わなくなる。
自分がフローリングの床に倒れたのに、千萱は痛みさえ感じられなかった。
ぼんやりと段々なにも考えられなくなっていく彼は、自分が死にゆくのだとやっと理解した。
「あんたみたいな畜生、地獄に落ちてしまえ」
零の養分になれるならそれはそれで良い最期かもしれない、と千萱は思った。




