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11:


「…どうしても思い出せない」



自室の鏡の前で項垂れている男がひとり。

がりがりと爪をかじって、頭を掻き毟る。


何を忘れているのか、いつ忘れてしまったのかすら、分からない。ただ、とても大事な事を忘れてしまっているのは、覚えている。そして、頭が痛む。


彼の名前は、鬼丸 千萱。

45になる彼だが、かなり若々しく皺も白髪もなく、30代前半によく見られる。


性格は気さくで明るい。上司部下問わず会社の人間に好かれ、本人の実力以上に評価されている。そのくせ、ある一定以上には他人を近付けさせないような所がある。


そして、鬼の一族の末裔だ。






彼の出自は、山奥の小さな集落だった。

そこに住む人間はまるで戦前みたいな暮らしをしていた。また、皆少なからず血縁があり、苗字は鬼丸と名乗っていた。

そして、普通とは違う力を持つ人間がよく生まれた。決まってそれは女で、多くは怪我や病気を瞬く間に治してしまう。ただ短命で20になる前に大抵死んでしまう。

能力が発芽した女は売られた。その後の生活は知らない。ただ売られた鬼丸の女で一人も帰ってきた者はいない。


千萱も奇跡を見たことがある。

ひどい癌も、臓器不全も、火傷も、切断された四肢も治った。

逆も見た。

彼女らにかかれば、生者も死者に、死者も生者になった。とても人とは思えない力を持った生き物。故に、鬼の一族と呼ばれた。


発芽した者が出れば、それを売った金で生き延びられる。だからただ発芽する人間を作るのに必死だった。


この集落はただの家畜牧場のようだ、物心ついた時には思っていた。

鬼丸の男は種としか価値がない。発芽をしない女もまた似たような扱いだった。


『チガヤ、』


自分にのしかかった母親の白い腹が脳裏を過ぎる。腰を振るたびにだらしなく揺れていた。


まるで白豚だ。



彼が集落を出たのは、成人になってからだ。

鬼丸の発芽した女が生まれなくなって、親族は散り散りになった。俗世にあまりに関わらなかったせいで、他に生計を立てる術を知らなかった。


財産を売り、奨学金を貰ってまで学をつけようと思ったのは、千萱くらいだった。


母親も死んだ。

発芽する子を産めなくて、とうとう処分された。


他の遺伝子の血が混ざると力が薄まる、と聞かされていた。

もう一族とは関係なく生きていくしかないと、千萱は思った。

母親や集落の皆みたいに、くだらなく頭の悪い人生など真っ平御免だった。



彼は、医療機器メーカーに就職した。

営業という業務は彼に合っていた。友人は何人かいた。上司も癖を掴めば、業務をこなすのは苦ではなかった。


鬼の一族なんてものがあった事自体、嘘みたいに思うようになった頃。


「鬼丸さんって、地元どこなんですか?」


やたらと千萱に興味を持った女がいた。

友人の妹のさらに友達として紹介された。歳は5歳下で、美人ではないが人畜無害そうな雰囲気の女。


喫茶店のウェイトレスをしていて、千萱がでっち上げた嘘も気付かず、にこにこ聞いていた。頭が良くないだけだな、と千萱は気付いていたが口には出さなかった。


十杷(とわ)といると、周囲が自分を好意的に見られる事が多かったので、よく近くに置いていた。何より十杷は扱いやすかった。


所帯を持つ気はなかったが、出会って2年くらいで十杷が「妊娠した」と言い出した。





「鬼丸さん、どうです?今日飲みにでも行きませんか」


同僚が就業時間直前に声をかけてきた。

商談がまとまって上機嫌なのだろう。


「ああ、いいですね。でも」


人に会う約束をしていた。しかし、追求されるのは面倒だった。


「離れて住んでいる娘と電話する約束をしてまして。長電話になると思いますので、今日はごめんなさい」


勿論嘘だ。発芽しない娘など、彼にとっては何の価値もない。壊れた元妻と離婚後に引き取ったのも、彼の社会的立場を守るためだけだった。


「また、別の日に飲みましょう」


彼は心情とは裏腹に、顔にいつも笑顔を貼り付けている。

真顔でも口角が上がっていて、穏やかな印象がある。生まれながらではなく、そうした方が生きやすいと思って習得した。





会社の駐車場に黒い高級車が停まっていた。

目立つ事はやめてほしいのに、と千萱は心の中で思った。


「別にわざわざ出向いてくださらなくても、逃げたりしませんよ」


車に乗っていたのは彼の婚約者の兄だった。

眼鏡をかけたいかにも冷徹そうな、千萱よりやや年下くらいの男だった。愛想は無く、軽く名乗っただけだった。

婚約者の桐谷美玲から、兄が会いたがっていると聞いたのはつい一週間前だった。

千萱としてはまだ結婚の挨拶は先だと思っていたが、美玲は家族に言ってしまったらしい。


「こんばんは、会えて嬉しいです」


笑顔で言ってみたが、桐谷忍はぴくりとも表情筋が動かなかった。


桐谷美玲とは付き合いで行ったバーでたまたま知り合った。

浮世離れしていて関わると面倒そうな、扱いやすく都合が良かった元妻とは正反対の女だと思った。しかし、桐谷という名前に仕事柄聞き覚えがあり、聞いてみると桐谷医院の令嬢だった。


「近々ご挨拶をと思っていたところです。忙しいでしょうにすみません」


「美鈴と別れてはくれないか」


まぁ、そうだろうなと千萱は思った。

そしてまたこの人は、美鈴とは違った性格だった。言葉は少ないが威圧的で、付け入る隙がない。


「お兄さん、そりゃあ美鈴さんとは住む世界が違って生まれましたけど…」


庶民の、それも出自が不明瞭な自分と妹が結婚するのは面白くはないだろう。


「貴方が不幸になるだけだ。あれは誰も幸せに出来ない欠陥品だ」


しかし、桐谷忍が強く言ったのは、実の妹の悪態だった。

笑ってしまいそうになって、千萱は少し俯いた。


「そんなことはないですよ」


「嘘を言わない方がいい。猫を被る能もないだろうあの女は」


この人は美鈴に相当嫌な目に遭わされてきたのだろうな、と思った。桐谷忍は言葉を続ける。


「目的は金か、それとも桐谷家か。新興宗教も昔立ち上げていたようだな」


さすがに調べられているか、と千萱は苦笑した。


「待ってください。それは昔の話です。それに何か怪しい事をして騙した訳でもありません。娘を亡くしてからは潰してしまいましたし」


桐谷忍に同情を買う作戦は通じないだろうが。


「それに美鈴さんは素敵な人ですよ。天真爛漫で…」


「手切金を出す。それでも不満なら、他の良家の女を寄越す。だから、美鈴とは関わるな」


桐谷忍は冷酷に言い放つだけだった。


「僕が気に入りませんか?美鈴さんを愛しているんです」


「気に入る、気に入らないの話じゃない。美鈴のせいでまた家と病院の名に傷が付く。巻き込まれるのは御免だ」


「お兄さんを巻き込んだりしませんよ、なんだったら駆け落ちしてもいい」


そんな事、美鈴の親が許さないだろうが。ただのハッタリだった。


「……」


そして、桐谷忍は口を噤んだ。

しかし納得したという訳でもなさそうだった。


「鬼丸さん、貴方も少しは本音を言ったらどうなんだ。先程から聞いていると、言葉が薄くて響かない」


左様ですか、と千萱は笑みを深めた。

この兄が反対しようが、縁談はまとまるだろう。

美鈴の両親は喜んでいたという。兄ひとりに反対されようと、美鈴は引かないだろう。この兄妹仲は悪い。


「実は今日、美鈴さんを会社に呼んでいます」


「…一人でという約束だろう」


車に駆け寄るヒールの音が響いて、桐谷忍はため息をついた。


「すみません。何やらどうしても今日話したい事があると言われまして」


桐谷忍は忌々しそうに千萱を睨んで車のドアを開けた。

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