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実をいうと、不安で不安で仕方がない。
ぜんぶ最初からのやり直しというこの奇妙な状況で、当の哀ちゃんは何も覚えていなくて。そして、前とは全く起きる事も変わっている。まるで今までの事が無かったことになったみたいで。
どうしようもなく怖い。今まで築きあげた全てが今はもう何も無い。ともすれば全部、妄想の一言で片付けられてしまいそうで。
「…はぁ?最初から妄想だったんだろ。そんな事より鬼丸の身の安全の方が大事に決まってる」
このくりくり目のちんちくりんボーイこと、犬塚はるかはソフトドリンクのリアルゴールドが入ったグラス片手に面倒臭そうに頬杖をつきながら僕の話を聞いていた。放課後のファストフード店。何が悲しくて男2人でいなきゃならんのかって話だが、先日哀ちゃんの地元に行った時の情報を二人で整理していたところだ。
「君は良いよね。普通に哀ちゃんと前みたいに親しく出来ているんだからさぁ」
「あ?そりゃそうだろ。元々、猿河みたいな軟派な奴に鬼丸は似合わない。交流あったのが不思議なくらいだ」
交流あったんじゃなくて付き合ってたんだっつーの。…ま、その経緯を話したら「ほとんど脅迫じゃねーか」と一蹴されるから言わないけど。
「ていうか、見た目でどーのこーの言わないでくれる?僕、別に片っ端から女の子に手を出したりとかしてないし、けっこー純情だと思うんだけど。それなら、無自覚で思わせぶりな態度取っている犬塚の方がよっぽど性質悪い気するけど」
「なんだそれ。俺がいつそんな事したよ」
認めたくないけど、僕は犬塚が羨ましい。妬ましい。本当、生まれながらの光属性というか主人公気質というか。
犬塚と哀ちゃんの事は、ほとんど彼女から聞いている。そして彼女が自覚しているかは知らないが、哀ちゃんは犬塚を特別視している。おそらく最初から。
僕が犬塚のポジションだったら、その立場を最大限に利用して絶対離さない。けど、犬塚はそんな事をしない。家族みたいにただ見守っている。その無欲さが憎らしい。僕はどうしても欲しくなってしまうから、哀ちゃんの全てが。
「鈍ちんが。その鈍感さに哀ちゃんがどれだけ困っていたか」
もしくは救われていたか。…きっと知らないんだろう。本当に間抜けで幸せな奴。
こんなに一人の女の子が好きで好きで尽くして、それで結ばれない事なんてある?結果当て馬とか絶対嫌なんだけど。バームクーヘンエンドになったら式場で大号泣した上に全裸になって台無しにしてやる。あーやだやだ、想像したら吐き気してきた。
「もう無駄話しか話すことないなら、僕帰るから。今日、哀ちゃんは家に来ない日なんでしょ?君にはもう用無いし」
「元はと言えば、猿河が話を脱線させたんじゃねーか」
◆
こうやって振り出しに戻ってみると、僕の立場って本当に動きにくい。
「修司、今日も異常は無いわ。下駄箱のラブレターも処分しましたし、付き纏っていた女子も厳重注意したから」
杉田 旭陽率いる親衛隊がいる。この杉田さんは、中学校から一緒で僕の何が良いのか知らないけど崇拝している。以前はそれはそれでまぁ良いかとしたいようにさせていたけど、一度解放された感覚を知ってしまうと窮屈に感じてしまう。
哀ちゃんに話しかけに行けない。うまくかいくぐって接触しようとすると、犬塚が邪魔してくる。まさに踏んだり蹴ったりだ。
「ああ、いつもありがとう。俺はもう帰るから、皆も帰った方が良いよ。送り迎えとかはいいからさ」
桐谷先輩はうまくやっていて、哀ちゃんと校庭のベンチで二人で話しているのを見る。目撃したら積極的に邪魔…いや、絡むようにしてはいるけど。
「そんな!修司が襲われたりしたら、大変だわ」
女の子が何人束になって襲いかかろーが負けないって。と、心の中でツッコミを入れつつ笑顔ではぐらかし、なんとか足早に帰った。
すると、なんとラッキー。前方に見慣れたふたつのお下げが揺れているではないか。
「あーいちゃん!」
全速力で走って声をかける。ビクッと肩を揺らして振り向く。眠そうな垂れ目につい顔が綻んでしまう。
「え、あっ猿河王子…こんにちは」
その関わりたくないって大書きされた顔でも見れたら嬉しい。食べちゃいたいほどかわいい。
「今帰り?用事無いならお茶でもしない?」
「あー…それはちょっと」
「僕本当に暇で死にそうなんだよね。ね、人助けすると思って。一生のお願いお願いお願い」
「…駅まで一緒に帰る程度なら。猿河君ならいくらでも暇潰しに付き合ってくれる子いると思いますけど」
デコピンしたろかと思う。それか、気が狂うほどチューするか。
「ねぇ、哀ちゃん。前も言ったと思うけど、僕の事は猿河君じゃなくて修ちゃんって呼んでよ。もしくはダーリンか猿河氏」
じっとその顔を見下ろすと、哀ちゃんが顔が引きつっていく。まったく、つれない子なんだから。
「あの…猿河君」
「猿河氏」
「猿河君。なんで私にそんなに構うんですか?私、別に目立たないし、猿河君に気にかけていただくほどの人間じゃないです。それにほら…困るんです。猿河君と仲良くしている所を親衛隊の人に見られたら、どうなるか」
哀ちゃんの困り顔って好きだな。一生懸命眉間に皺を寄せちゃって。でもなぁ、そんな顔されたって、僕当時でも罪悪感なんて無かったと思う。だって、君を困らせたいし。僕の所まで引きずり込みたいし。
「なんか君とは気が合う予感がするんだ。ねっ、今度デートしない?」
「えぇ…」
無理です、と哀ちゃんははっきり拒否する。近寄っていた距離があからさまに遠くなる。今更そんな事に傷付いたりしない。もっと酷い事をこの子にはされた。
「なんで?哀ちゃんは僕が嫌い?」
「嫌いというか、意味分かりません。怖いです。何か企んでいるんですか…」
「企んでるよ。どうにかこうにか僕にメロメロに出来ないかなぁとか。もっと僕のこと見てほしいなーとか」
「誰にでもこんなにしつこく絡んでるんですか?猿河君なら、どんな女の子だって簡単にその気になると思いますよ。何も私じゃなくても良いじゃないですか」
僕だって君じゃなくて良いならそうしたいよ。もっと僕の事を大事にしてくれる人を好きになりたかった。でも、好きだっていう感情は全然自分の思うようにならない。
「…僕は知ってるよ、君の正体」
我ながら卑怯な手口だと思う。哀ちゃんがどんな言葉に反応するのか知っている。
「え?」
みるみる顔色が悪くなっていく哀ちゃんをずっと見つめ続ける。実は危ない橋を渡っている。
「君は自分が自己犠牲が大好きな天使だって思い込んでいる、ただのちっぽけな化け物だ。中途半端に残酷で、中途半端に優しいお化け」
「…」
はっ、と面白くないのに笑ってみせる。こんな卑怯な台詞を吐かなきゃ哀ちゃんの記憶に残れない。哀ちゃんの中に存在できない。
「幽霊になんか攫わせない。そんなものを使ってみすみす逃げさせたりしない。僕は…哀ちゃんが、どんな罪と恥に塗れてたって、同じ星の同じ人間の男と女で、地べたに裸足のまんまで」
「…」
「それでも、何も他に無くっても、こうやって目線をしっかり合わせながら君の隣にいたいよ。僕は君といるのが本当に幸せだから」
意味不明な発言だと笑われたって別にいい。僕にとって意味があればいい。あの時回りくどい言い方なんかせずに、こんな風に素直に話せたら良かった。そうしたら、僕だってこんなに捻くれて愛情を示さななくて良かったのに。
「え?何の話?全然分かんないんだけど」
哀ちゃん、と一度その名前を呼ぶ。かわいそうだけど、僕だけ除け者にする君が悪い。
「そういえば哀ちゃんに言ったっけ?僕の家、駅経由するって。たしか初めて一緒に帰ったよね」
桃園学園は街中に建っていて自転車通学を許される程の遠距離通学をしている生徒は実は少数派だ。そして僕が自転車に乗って来ていないって事は駅を経由しなければならないのだ。何回も一緒に帰ればさすがに把握できるだろうけど。
「あはは、たまたまだよ」
「たまたま?自信無かったら普通僕に聞かない?…哀ちゃん、もう良いよ。君も巻き戻る前の記憶があるんだね」
哀ちゃんは何も答えない。その顔には一切表情が無くて、あの双子の姉とか名乗る女の子に確かにそっくりだった。




