03:
5月。
鬼丸は去年と同じように、突然うちに乗り込んできた。
随分この感じ懐かしい感じがする。そんな事実は今までなかったと言われても、にわかに信じがたい。
「犬塚君ってさ、意外と普通っていうか、まっとうな人だね」
そう言えば以前も全く同じ事を鬼丸に言われた。
その時、自分は何を思ったのだろう。失礼な、とかきっと思ったに違いない。でも、今なら分かる。こうして鬼丸が俺のことを分かろうとしてくれたから、全ては始まったのだ。
◆
祐美子に人間ドックを無理にでも受けさせると、医師から再検査を言い渡された。身体のあちこちに異常があったのだ。
「身体しんどい時もあっただろ!なんで言わねぇんだよ!!」
祐美子は祐美子で休んだり病院に行けなかったのだ。そんな事分かっているけど、ついつい怒鳴ってしまった。
検査入院することになって、祐美子はしぶった。
「でもでも、シフト回らないし…お金が…」
「うるっせえ!金が無いなら、クソ野郎にでも助けを求めろよ!連絡くらいは取ってるし、たまに店にもきてるんだろうが」
クソ父を頼るのは気にくわない。しかし、そんなことは言ってられない。祐美子の命以上に大事なものなどない。
自分の言葉に祐美子は、目をぱちくりさせて驚いているようだった。
「はるか君、どうしたの…なんか急に大人になっちゃって」
大人になったわけじゃない、と思う。
ただ、我慢し続けた祐美子がどうなるか知っているだけだ。そして、ただの自分の意地のせいで祐美子に色々なことを耐えさせていたのを思い知った。
「……」
「え?何か言った?」
「…ごめんなさい。お母さん」
お母さんなんて暫く呼んでいなかった。恥もあるし、祐美子に甘えたくなかった。自分が祐美子を支えなければならないと思っていた。
祐美子はそれを望んでいなかったのに。
「なーに?急にどうしたの」
いつもと変わらない柔らかい笑顔を祐美子は浮かべた。
死なないでくれ、居なくならないでくれ。
そんな言葉を言うわけにもいかなくて、目を閉じた。
祐美子の入院が決まって、輝と昴が不安定になって全然言うことを聞かなくなった。
そういえ前もそうだった。全然寝ないし、寝ても夜中起きて騒ぎだすしおねしょもする。いきなり外にでて病院に行こうとする。宥めるので手一杯で家事もままならなくなり、疲労が溜まる。
このままじゃ輝と昴の生活を守れない、と思って助けを求めた。
俺には、助けを求められる人間なんて何人もいない。信頼できる人間なんてその時本当に誰もいなかったのだ。
鬼丸 哀にSOSを出した。
「え?子守り?…えーと、この前の仔チワワ…じゃなくて、輝君と昴君ね!いいよ!私ヒマだし!」
この時の鬼丸とはまだ全然仲良くなどなっていない。
鬼丸だって困ると分かっているが、頼らざるを得なかった。
「あ、あの可愛いお母さん入院したの?大丈夫?早く元気になるといいね」
ころころと表情が変わる鬼丸の顔が可愛いと思って、気付いたら頭を撫でていた。そして、女子に対してとんでもないことをしでかしたのを気付いて慌てて手を引っ込めた。
「えぇ?頭に何か付いてた?ほこりとか?」
鬼丸が勘違いしてくれて助かったけど。鬼丸が鈍感で良かった。
◆
昼休みに猿河に呼び出された。
生徒会室に連れてかれ、桐谷先輩がそこでパソコンに向かっていた。
「あのさぁ、これどういうこと?」
猿河に詰め寄られても意味が分からない。猿河は緑の目の奥に怒りが滲んでいた。
「全っ然、哀ちゃんとのフラグ立たないんですけど!」
「はぁ?」
そして、奴の発言も意外だった。「おや」と小さく桐谷先輩も声をあげた。
「僕は、携帯を拾われてから哀ちゃんと接点持つようになったの!それが何回携帯放置しても取りに来ないし!見かねて君のクラスに行っても全然こっち来ないし、話せないし!一向に出会える気がしないんだけど」
知らねーよんなもん、と返そうとしたら「僕もだ」と桐谷先輩も続いた。
「僕は、猿河君の親衛隊に入って鬼丸君が困っているのを助けてから仲良くなったが、猿河君と接点を持たなければ当然出会うこともない。そもそも学年が違うからな」
そうなのか。同じことを繰り返しているならなぜこんな事が起きるのか。
「僕が報告を受けている限り、鬼丸君自身には記憶は無いようだ。しかし、猿河君や僕とは出会っていない。もう6月だ。文化祭の準備も本格的になる。忙しくなるから、余計に僕も猿河君も近づけなくなる」
「ちょっと待ってください、報告って何ですか?」
ああ、と桐谷先輩は平然とパソコンを閉じながら答えた。
「彼女の家庭環境は少々危険だからな。大事が無いように見守っているんだ。例の組織がいつ近付くかも分からないしな」
「え、それ監視ってこと…。先輩ってそんな顔して結構ヤバくね…?」
ヤバい。さすがの猿河も流石にドン引きしている。だが、桐谷先輩はどこ吹く風だ。
「鬼丸君の父親の交際相手が、僕の叔母なんだ。いずれ婚姻するだろう。桐谷家としても鬼丸君については警戒していて、ある程度は強力してくれるんだ。そうだ、そういえば犬塚君は僕らに話すべきことはないか?」
ぎくりとした。
桐谷先輩は天然でのほほんとした印象があったが、確かに見た目通り切れる一面があるのを思い出した。
「2日前から、自宅で鬼丸君と寝食をともにしているのだろう。自宅に鬼丸君を呼んで弟達の子守を頼んでいるといったところか」
「はぁ?!」
がくがくと猿河に揺さぶられる。やめんか、このゴリラが。
「ちょっと待っ、何それ、ずるい!え、何なの、ふざ、ぶざけるんじゃないよ。ヤッてないよね、まさか、及んでないよね」
泣きそうな顔の猿河に、頭を猛烈にシェイクされて「ヤるかばかやろう!」すら言えない。
「犬塚君にも事情があるのだとは分かっている。僕らと鬼丸君に接点が無いのは、君には関係ない。しかし、この状況は望ましくない。君らは【カオス理論】といった言葉は知っているか」
取っ組み合いをしている俺らに、桐谷先輩は淡々と話す。
「力学系の用語のひとつだ。かみ砕いて説明すると、1つの事象に対して僅かに条件が変わるだけで結果が大きく変化するというものだ。よくSF映画であるだろう?過去を変えたことで未来が思わぬ方向に変わっていくという展開を。バタフライエフェクトと言った方が一般的か」
「先輩、つまり何が言いたいんです?」
猿河に謎の締め技を喰らいながら動けなくなっている。こいつなんでこんなプロレス技強いんだよ。
涼しい桐谷先輩は立ち上がった。
「前回と条件が変わりすぎるのは良くない。どんな事故が起きるか分からないし、未来があまりにも変わると予測して動けなくなる。ただでさえ、僕らに記憶が残っているのだ。変化は少ない方がいい」
「は、はい…」
桐谷先輩に力強さは感じられないが、なぜかこの人には逆らえない気がする。よっぽど猿河の方が扱いやすいくらいだ。
「つまり、結果を調整する必要がある。犬塚君、頼む」
俺はもう頷くしかなかった。
◆
「…あ、えーと、こちら友達の桐谷先輩と、クソ猿…猿河なんだけど」
2人を家に招き入れると鬼丸はぱちくりぱちくりと控えめな目で瞬きをしていた。
「桐谷先輩て、あの、氷の生徒会長の…?あと、猿河王子!?うそ、犬塚君ってなんでそんな有名人と友達なの?」
狼狽えている鬼丸に「よろしく」と猿河が手を握っているのを、手刀で落とした。
「はじめまして、会えて嬉しいよ」
それにしても、でかい男が2人もウチにいると狭い。
輝と昴は怖いのか俺の足元に隠れていた。




