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もう終りだ。何もかも。
頭を抱えてみても状況は変わらない。私が泣いても、叫んでも、願っても変わらない。
やってしまったことは取り返せない。変えられない。
分かっている。分かっているのに、私はずっと後悔しつづける。失ったものを惜しみ続けてしまう。
私は気づいているのだ。すべての原因を取り除かないと、状況は改善しない。
それでは、原因は?
……すべての原因は…そんなの決まっているじゃないか。
◆
「哀、お前昼休みどこいってんだよ」
聞かれて、露骨に肩が震えてしまっている。
くりくりの大きな黒い瞳がしっかり私の目を直視してくる。かわいいのに怖い。なんだか怒っているようだ。
「え、あ…生徒会室にいるよ。卒業式近いし…」
「そう思って、昨日行ってみた。そしたら、桐谷先輩が寂しそうに豪華弁当食ってた。なんか可哀想だったから一緒に飯食ったわ」
「そ、そうなんだ。それは、ほのぼのシーンだね」
ははは、と笑っても犬塚君は威嚇顔をやめない。ぐるるる、と背後にチワワのスタンドが見える。
「茶化すな。で、どこにいるんだよ。なんで教室いないんだよ。一緒に弁当食べるって言ってるだろうが」
言えるわけがない。
ハギっちや金城さんがいるなかで、犬塚君といるのは正直針のむしろだ。
だから居場所がないというのならまだ可愛げがある。だけど、実際逃げているのは居心地がいい猿河氏のところなのだ。
これは紛れもない裏切り行為だ。どれだけ犬塚君を傷つけてしまうか。
「…最近、ちょっと、立ちくらみがして、一人で休んでいるんだよ。熱も出たり引いたりしてるし…」
「……ほんとうに?」
ずいっと顔を近づけられて、目をそらしてしまう。
「まぁ、確かにずっと調子悪そうだからな。病院行ってんのか?」
目を逸らしたまま首を振る。
「よし、明日行け。ちゃんとした検査受けろ。そして、結果を俺に報告しろ」
びしっと、犬塚君が人差し指の先が私の方に向けている。その言葉に胸が痛む。苦し紛れに言った私の嘘が、私に罰を与える。
忘れられない。私にとって一生忘れることができないあの人の顔が思い浮かぶ。
裕美ちゃん。
私の大事な人のひとりだ。かけがえのない。
私にとってそうなら、犬塚君ならもっとそうだろう。
ごめんなさい。犬塚君の優しい気持ちを踏みにじってしまって。
また、内蔵が痛い。口の中が苦いものでいっぱいになる。頭が重い。苦しい。
「…うん」
でも、本当のことは言えない。
そんなことがあったから、今日は猿河氏には会いたくなかった。
良心が痛むから今日くらいは大人しくしておこうと思ったのだ。
別に毎回約束してないし、猿河氏なら多少適当なことをしても対して気にも留めないと思うし。
と、思った矢先に鬼電。
出るか出ないか迷って、電源を切った。そして一人になれそうなところを探した。
そういえば屋上とか穴場だったなと思って、行ってみた。まさかそこに猿河氏がいるとは知らずに。
「…え」
意味が分からなかった。
猿河氏も目を丸くしていたから、多分偶然だったのだろう。
「あ、ごめ、お邪魔した…?」
動転して逃げようとした私を、信じられない疾さで捕まえた。
「邪魔じゃない。いてよ」
引き寄せられて、あっという間に猿河氏の膝の上に座らされている。唇を摘まれては、齧られた。
「なんでここにって?哀ちゃんとの電話通じないから、電波悪いのかなって来てみた。第二理科室ってアンテナあんまり立たないじゃん。まぁ、今日はそこそこあったかいし、外で会ってもいいかなと思ってたんだよ。でもやっぱ連絡つかないから、今から哀ちゃん探しに行こうと思ったとこ」
顔中頬擦りして、私に何かを伝えようとしている。多すぎる言葉は何ひとつ意味なくて、猿河氏が伝えたいことはもっと別なことの気がした。
でも、私は理解できない。理解できない設定にするしかない。
「猿河氏、ごめん、今日はちょっと…」
食い込んでいる二本の腕に抵抗しようともがいたが、動けなかった。
「あの、申し訳ないんだけど、今日ちょっと誰にも会いたくないんだよ…。ごめん、離して」
え?と聞き返すのに力は弱まらない。
「会いたくない?なんで?なんかあった?」
「……」
本当の理由なんか言えない。言ってしまえば火に油を注ぐ。
「そ、そういう気分なの。とにかく放っておいてほしい、しばらく」
「暫く?」
あ、あーあ…。怒っているな、この笑顔は。
「嫌だよ。たいした訳もなく、そんなの納得できない。君と僕の絆が盤石ならまだしも、こんな脆い関係で離しとくなんて、不安で不安で仕方ないから。たかが気分で、僕のこと振り回さないでくれる?」
もぞ、と掌が動いた。嫌な予感がして、身体に力がつい入ってしまう。
「や、やだって、猿河氏。誰か来たらどうするの!」
「別にいいじゃん。見せつけたら」
色々と催したのは分かるが、ここではまずい。
いつもは話せば分かってくれる猿河氏が全然言うこと聞いてくれない。
いとも簡単に私を床にひっくり返してしまい、素早く下着を脚から抜きとってしまった。
「だめ、だっ、て…ぐっ…」
足をばたつかせたのなんてなんの障害にもならなかったみたいに、重い痛みと圧迫感を生じながら侵入してきた。
「やだ、猿河、氏…今日は、ほんと、やだよ…!」
「うるさい。ぐちゃぐちゃになってるくせに。そんなに嫌なら乾いてろよ、簡単に受け入れさせられるなよ」
まさしくその通りで泣けてくる。自分の浅ましさが嫌で嫌で仕方ない。
頭の中に犬塚君の顔が思い浮かぶ。
「やめて、お、ぉ、お願い」
これ以上裏切りたくない。これ以上誰も傷つけたくない。
渾身の力で猿河氏を押し出そうとするも、やっぱり動かない。玩具みたいにされるがままになるしかない。
「…なに泣いてんの。泣きたいのはこっちだよ、本当」
猿河氏が吐息混じりに私の首に顔を埋めたときだった、背後からドアが開く音がした。
嫌な予感がして「ひっ」と悲鳴を上げてしまった。
刹那、怒号が響いて衝撃が走った。
「お前、なにやってんだよ!!ぶっ殺すぞ!」
犬塚君がいた。犬塚君がこれまで見たことない顔してそこにいた。
私の頭は真っ白になった。
一番見られたくなかった人に見られてしまった。すべてを。
殴られたのか、突き飛ばされたのか分からないが、猿河氏はよろめいて、その体が私から離れた。
慌てて猿河氏に駆け寄ったが、それをまた引き離されて尻餅をついた。犬塚君は肩で息をしながら、猿河氏に掴みかかった。
「…痛ったいなぁ、随分な挨拶だね」
それを首を捻りながら弾き飛ばしてしまう猿河氏だって、一目見て正気じゃないのは分かる。
「だめだよ、ちょっと!落ち着いてよ、猿河氏」
押しても引いても全く動いてくれない。犬歯を向いて飛びかかってくる犬塚君に、そのまま立ち向かう。力加減なんて一切なく。
「なに、童貞がムキになっちゃって。そんなにショックだった?自分のカノジョが寝取られちゃって。あーあ、かわいそっ」
「うるっせぇっつ!!黙れ黙れ黙れよ殺すぞ!」
殴り殴られ、お互い無傷ではないのに、それを二人とも気付いていないようだ。
止めに入っては弾き飛ばされ、私にはどうにもできないのを思い知った。でも止めなければ。このままじゃどちらかが死んでしまうのだって有り得ると思ってしまう。
動けない。苦しい。どうしたらいいのか分からない。
「…う…」
こんな時にかぎって頭いたい。いままでこんなに痛くてくるしいことはないほど、激しい痛みだった。
「た、たすけて…」
私のせいだ。全部わたしのせいだ。
殴るなら、痛みを味あわせるなら、怒りをぶつけるなら、私でいい。それで解決するなら私でいい。お願いだ。ごめんなさい。許されるわけがないけど。
目をつむっても、お腹を蹴られて咳き込む音が聞こえる。
耳を塞いでも、投げ飛ばされてコンクリートに叩きつけられた空気の振動が伝わる。
逃げたくても、全身が硬直して動けない。
そのどれもが私を責め立てている。絶対に私は許されない。
こうなることは分かっていたじゃないか。それでも、止めずにいたのは私自身の判断だ。
一番ひとを傷つける選択をしていたのは、誰のせいでもなく私だ。
「……、お願い、だからっ…」
頭が痛い。視界も暗くなってきた。目眩もしてきて、立っていられなくて踞ってしまう。
頭痛のときにありがちな変な光りが瞑った瞼から見える。
あたまがいたい。
「…ごめん、ごめんなさ…」
泣いたってどうにもならないのに、色んな体液が顔中から溢れでる。全身から汗が湧き出て、苦しくて苦しくて、それでも気絶することもできない。
全ての思考が「あたまがいたい」に淘汰されてしまう。
馬鹿な私の後悔も、自分が汚くて醜いという絶望も。
「……っう…」
全部やり直ししたい。そうしたら、こんなことは起こさせないのに。
ふと、顔を上げると、私の目がおかしいのだろう。
夜みたいに空が真っ暗なのに、だけど、じぐざぐに光の筋が走っていた。
「……?…なに、これ…」
光の幅がどんどん広くなっていく。それに伴って、頭の痛みが増してくる。
ひどい耳鳴りもしてくる。それが鐘の音のようにも聞こえてくる。
「…た、たすけて」
何でもいい。神様でも、悪魔でも何でもいい。
皆を救って。私という災厄から救って欲しい。
「わたしなんか。消えてしまえ…」
声に出して強く願った。不思議と今なら叶ってしまう気がした。
そうだ。もう「何回も」私はそうしてきたではないか。なんで忘れてしまっていただんだろう。
誰も私に近づかないで欲しい。私を見つけないで欲しい。この世に人間なんてごまんといる。私じゃなければいけないなんてことはないだろう。大丈夫だから。私は一人で生きていける。どんなものも欲しがらない。誰も傷つけたくない。何も壊したくない。罰ならいくらでも受け入れる。弱音も吐かない。
だから。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。「また」失敗してしまった。だからやり直します。もうどうしたらいいのか分からないんです。
頭の痛みにもうまともに思考が働かない。思わず右手を掲げた。私は、私がなんでまだ誰かに救いを求めいるのか、自分で自分が理解できない。
何度も知っていた。私は一人だ。その手はずっと空気を掻くだけだった。
「…だめだ、君が消えるなんて、僕は嫌だ」
だけど、その手はしっかり温かなだれかの手を掴んだ。
「間に合ってよかった。今度は、君ひとりに背負わせたりはしないから」
人のようなものが浮かんでは輪郭がぼやけて消えてくる。私の思考もはっきりとはしない。自分の感情すら分からない。耳鳴りで音もまともに聞き取れない。
『よくやったわ、早く退けて。その手を貸して』
冷たい皮膚が手に触れた。何かを喋っているようだけど、その意味すらよく分からない。
ただ、柔らかい髪が風に舞った。自分のものかと思ったが、そうではないのだと知った。
とてもとても懐かしい感じがした。
そこから先は、意識が途切れてしまって覚えていない。




