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あとひとつ私には向き合いたくないことがある。
…私が犬塚君と付き合ってしまったとしたら、傷ついてしまう人がいる。
私は教室の前の席に目を遣る。
「(ハギっち…)」
ハギっちの耳には入っているんだろうか。
何も知らないでいてほしい。気づかないでいてほしい。バレなきゃいいってわけではないけど。
犬塚君とは、ハギっちの方が似合う。きっとハギっちなら、犬塚君のいいところ分かってくれると思うから。
「なんだよ、その顔は」
犬塚君がくりくりの目をして、問題集をめくっている。テスト期間中の自習時間で、私がサボらないよう犬塚君が私の机まで来て指導してきているのだ。
やっぱり付き合うのやめようと言ったら、犬塚君は許してくれるだろうか。
…でも、色々と心にダメージを受け続けている犬塚君に余計な心労をかけたくない。いやでも、私といることのほうが犬塚君にとってマイナスでしかないしな…。
一体、犬塚君は私の何が好きだと言うのか全く分からない。私が他の女子と、例えばハギっちに、優っているものなんかひとつもない。
私じゃなければいい理由なんか一個もない。側にいる人がほしいなら、私以外の誰かの方がいい。でも、私は犬塚君の側を離れられない。
犬塚君は幸せになってもらいたい。いや、なってもらわなきゃ困る。それは恋愛的な意味でもだ。
「こら。ボーっとしてんじゃねぇ。集中しろ、集中」
悶々していると、軽めにチョップされた。
優しい顔と甘い声色を目の当たりにして、胃がシクシクしてくる。
「…犬塚君、帰りなよ。君こそ私のせいで勉強できてないじゃん」
「いいんだよ。別に予習済みだしな。それより、お前の勉強見てやることの方が有意義だろ。どこでつまづいているのか分かると、これからテスト対策の勉強教えるのも楽になるし」
近いよ。犬塚君、君は私との距離が近くなってしまっているのは、気づいているのだろうか。危険だと思って距離をおくと、「どしたよ」とますます近づいてくる。ひー、と泣きたくなる。
もう沢山だ。こんな悪夢。
犬塚君は私が困り顔してるだの、元気ないだの言って離れてくれない。犬塚君といると様々な罪悪感で押しつぶされそうになる。
やっとのことで逃げて一人になったのは、男子女子で分けられる体育の授業だった。
私は露骨に焦りながらハギっちに擦り寄った。自分を安心させたい一心で。
「は、ハギっち…元気してる?」
ハギっちは振り向かない。黙々とバレーネットをかけている。
「ねぇ、また部活ない日とかに遊ぼうよ。沙耶ちゃんと三人でさ…」
やはりハギっちは無言だ。背中から冷や汗が吹き出し続けている。私が何を言ったところで、ハギっちには無神経な言葉にしか捉えてもらえない気がして。
「ハギっち」
「ごめん、哀。いま私、本当にひどくて理不尽で最低なこと言っちゃいそうだから、放っておいて。お願いだから」
ハギっちは最後まで私の方を見なかったし、私も前を向けなくなって、足元をみた。わけもなくハギっちに謝った。それすら彼女を傷つけているのだ。
本当に馬鹿だ。私は。
ハギっちが、犬塚君を大切に思っているのは知っていたのに。彼女の恋を壊したのは私だ。
金城さん達のグループの女子からは全員無視された。
自分に関する嫌な噂も聞いてしまった。剥き出しの敵対心を向けられ、どうすることもできなかった。
これが私に対する罰なら、もっと激しい痛みを伴っても構わない。それで許されるなら。
でも、きっと許されることはない。
本当に、なんで私がこんなことをしたのか分からない。こうなるのは、ずっと前から分かっていたはずなのに。
「猿河氏」
そして馬鹿な私は、卑怯だから他の男の子に縋っている。たった16年程度しか生きてないのに、自分の汚い生き様に吐き気がした。
「なに?僕の仔狸ちゃん」
ワイシャツの中の大きな手が背中を撫でた。
クズで汚い私を、否定も肯定もしない安全地帯に逃げた。私だけ搾取している自覚はあったから、体は差し出す。それが対価になるかは自信ないけど。
「もう、やなんだけど。こんな現実。助けてよ、私ごと連れていってよ。お願い」
ずっと遊んでいるように思えたのに小気味よく背中の金具が外れていった。
「…それ、本気で言ってないなら、君後悔するよ」
もちろん本気な訳がない。
深緑の虹彩が、濁って粘ついた光り方をしている。今の私には、その光が救いだった。
ワイシャツのボタンも気付かないうちに全部外されていたので、驚いた。
「見せて、僕のためだけの身体」
決してそういう気分ではなかったということを、猿河氏には悟られないようにワイシャツの前を開いた。生身の肌が外気に触れて寒かった。
「逃げればいいよ。嫌なことは忘れちゃいなよ。いくらでも匿ってあげるから」
鎖骨、臍、脇腹、腰、乳房、に他人の皮膚がなぞる。何度繰り返しても背中がゾワゾワする。うっ、という自分の呻き声が空間に響く。
逃げていいのだろうか?
ハギっちを傷付けた無神経な私も、犬塚君を弄んでいるいい加減な私も、全部全部見ないで、それでなかった事にできるのか?
「君は、自分がそんな真っ当な人間だと思ってる?少なくとも、僕が知っている鬼丸 哀は結構なクソ女だよ」
私を玩具みたいに扱いながら、綺麗な顔で笑った。
「僕だって、まともに君のこと好きになりたかったよ」
「でも、君は僕の気持ちを大事にしてはくれないし、必要としてくれる訳でも、何よりも優先してくれるわけでもない」
「そんな君が憎い。嫌い。恨んでる。でも、やっぱり僕には哀ちゃんがかけがえがなくて、痛いほど恋しいし、側にいれるならなんだってするって思っちゃう」
肉を喰んでは舐めて、彼はそんな言葉を吐く。
「たとえ、君に利用されているだけでもいいなんて、この僕に思わせるなんて、ほんといい度胸してるよね」
熱い吐息を、敢えて吹きかけてくる。
また、猿河氏にも残酷なことを言っているし、している。分かっている。
苦しい。自分の罪の重みで潰れそうだ。
もはや私が消えることでしか、この人達を救う術はないようにも思える。
床でクシャクシャに脱ぎ捨てられた、ブレザーから携帯のバイブ音が鳴り続けている。
「うるさいから切って。気が散る」
そのくせ猿河氏は、私の二の腕を握りしめ続けていて離してくれない。動けない。
「どうせ、あのバカ犬でしょ」
吐き捨てた言葉には、前にはなかった毒を含んでいるようにも聞こえた。
私がいなければ、もっと違う関係性を気付けたかもしれないこの二人を思って、絶望した。
いや、桐谷先輩も、他の人たちを苦しめているのは私のせいだ。
全部全部、私のせいだ。
この世界を歪ませ、壊したのは私だ。




