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沙耶ちゃんとたべりながら購買部でパンを買いに行ったら、重じいに捕まって次の保険の授業で使う心肺蘇生法練習用人形を運べとおねがいされた。というわけで、下手に反抗して内申を下げるくらいなら寧ろこういうちょっとした所でポイントを稼ごうとえっちらおっちら二人ででかくて手足がだるんだるんなマネキンみたいな人形を運んでいた。
「あ、ちょっと哀」
「ぐえ」
少々乱暴に沙耶ちゃんに引き止められる。制服の襟足を掴まれるという…。
「な、なんぞ。沙耶ちゃん」
「お黙り、ちょっと端に寄りなさいよ」
こわいので従う。
見ると、周囲の人たちもそうして立ち止まる。…とても不自然だ。
「あれ」
私の首の横から出した人差し指が示している方を見遣る。目を凝らすまでもなかった。
「桐…むぐっ」
沙耶ちゃんに手の平で口を塞がれたので、その先を喋れなかった。沙耶ちゃん、いくら人形持ってて両手の自由度が低いからってその扱いは、いや、いつもの事か。私が喋る気配を失ったのを見計らって手は離れた。
それよりも、目の前の人物の話だ。
桐谷先輩だった。
桐谷先輩が丁度此方側に歩いてくる所だった。
人だかりが先輩を避けるように一斉に廊下の端に寄る。誰も彼も奇妙に静かだ。妙な緊張感が漂う。
先輩は何ひとつ動揺した様子もなく、堂々と廊下の真ん中を歩いていく。
なんだかその光景は…。
「モーゼ?」
つい小さく呟いてしまった声が届いたのか、先輩と目が合った気がした。
いや、気のせいではない。先輩が何を思ったか方向転換して私たちの所へ歩いてきた。
「…え、あっ」
「手伝おうか、それを運ぶんだろう」
その雰囲気とか表情は北極のど真ん中に立っているほど冷たいのに、本当に何気なく言葉にする。周囲の何人かの空気を飲み込んだ音が聞こえた。
それ?と一瞬思ったがすぐに私たちが持っているマネキン人形のことだと分かった。
「あ、えっと大丈…」
「か、会長が気になさることは何も!ではっ!」
「あ、ちょっと沙耶ちゃん…ぎゃん!」
急に手を取られて足がもつれてそのまま床に尻もちをついてしまった。
しかし体制を立て直す間もなく焦った様子の沙耶ちゃんにそのまま後ろ向きに引っ張られる。
「待て」
桐谷先輩の制止を聞こえないふりをして、沙耶ちゃんと後ろ向きのままの私は逃げた。
よく分からないまま沙耶ちゃんに連れられるまま走った。
それほど速度は速くなかっただろうに、先輩は追ってこなかった。
ただ左手を差し出したままだった。眼鏡ごしに見えた切れ長の目は此方を見ていた。なんの感情も持ち合わせてないみたいな色で。
なんだかすぐそこに透明な壁に隔てられてるようだった。
逃げてきた先は突き当りの音楽室横の女子トイレだった。
「こ、ここまで来たら大丈夫でしょ」
「さ、沙耶ちゃん…」
膝小僧を支点に屈んでぜえぜえと息を整える沙耶ちゃんと私。
音楽の授業があるクラスはないのか、私たち以外の使用者はいないようだった。
「…なんで逃げたん?」
いまいち沙耶ちゃんが私を連れて逃げた理由がよく分からない。
先輩は私たちを手伝ってくれたのに。ちょっとひどいのではと思うのだ。
「なんでって、桐谷先輩に粗相して無事でいられると思ってんの。あんたみたいなのが一番目を付けられやすいんだから!逃げてなきゃ絶対面倒なことになってたわよ」
「先輩手伝おうとしてただけじゃない?」
「ないない!見たでしょ、あの険しい顔。めっちゃ怒ってたじゃん。廊下で変なもの運んでたから。風紀を乱す生徒としてしょっ引く気まんまんだったじゃん」
「違うと思うけど…」
そうだった。桐谷先輩は全校生徒に恐れられているんだった。
そりゃあ、桐谷先輩は顔怖いし喋り方は堅いけど別に取り締まるとかじゃないと思うんだけど。
要するに異様に存在が浮いているだけなんじゃないのか。
「どしたの、妙に先輩気にしてるじゃん」
「あ、いや…」
まさか、友達になったとこの状況で沙耶ちゃんにいえようか。いや、言えない(反語)。
曖昧に言葉を濁して俯く。正直、なんだか胸やけがする。もやもやする。
「あんたバカだから言っとくけど、ああいう人には関わらない方がいいよ。碌なことにならないから。
先輩だって私たちみたいな下々の劣等動物となんて慣れ合いたくないに決まってる。
ほんと、なんであんな人がうちみたいなたかが知れた私立校に来たんだろ」
「さぁ……。あっ」
「なによ」
「沙耶ちゃん、人形は…?」
記憶を辿れば、トイレに駆け込んだ時には二人とも持ってなかった。
さーっとお互いの顔から血の気が引いて行った。
その後、二人で現場に戻ってもそこに何も無くどうしようと教室に戻ったらクラス中が大騒ぎしていた。
「桐谷生徒会長が急に来て、置いていったんだけど!」とハギっちが驚いているような興奮しているような声で説明してくれた。教卓の上には確かに私たちが持っていた心肺蘇生法練習用の人形があった。桐谷先輩が人形を拾って持ってきてくれたらしい。なんで学年とクラスが割れてんのよ!と沙耶ちゃんがガクブルしていたが、それは私が先輩に前もって教えたからです…と本当のことは言えなかったけど。
◆
「ぽんちゃーん…あっ」
昼休みに例のソフトボールグラウンドに煮干しを持ってポン太にご機嫌取りに行くと先客がいた。
なんてことだ、あんなに気まぐれで気性の荒いポン太が人の膝の上で丸くなって寝ている。
「鬼丸君」
足音が聞こえたのか、ベンチに座って何かのプリント用紙に目を通していた桐谷先輩が顔を上げた。
じっと此方を見上げるその表情が限りなく無で何を考えているのか分からない。
「あの、隣座っても?」
「構わない」
…とりあえず怒ってはないのだろう。先輩はポン太を撫でている。その撫で方になにやら堂に入ったものを感じる。意外だ。
「猫好きなんですか?」
「なぜ?」
「あ、いや、ポン太…私が勝手につけた名前なんですけど!そのポン太がそんなに警戒心なく人に体を撫でさせるの珍しいと思いまして。もしかして猫とよく接してるからかなって」
「そうか…」
お前ポン太というのか、と静かに呟いて子供に高い高いする要領でその体を持ち上げた。
ポン太はなぜか嫌がらない。私がやったら引っ掻いて逃走しただろ、おぬし…!
「家でマンチカンを飼っている。オスの3歳で名前はワトソンという。…お前もオスか。三毛猫でオスとは珍しいな」
「へぇ…」
とても意外だ。勝手に動物は苦手なのだと思っていた。そういえば昨日も熊の話がちょっと出たじゃないか。寧ろ好きな方なのかもしれない。
先輩はなんだかとても誤解されやすい。
口も柔らかくなったと感じ、私は改めて先輩の方に向き直った。空気が変わったのを感じたらしい先輩も顔を此方に向けた。
「あの、……今日はすみませんでした!」
「なにを謝る?」
「休み時間の、廊下のことです。いきなり逃げてしまってすみません。あと、人形も届けてもらっちゃって…」
今日の廊下での一件やっぱり失礼だったと思うし、罪悪感もものすごくてやっぱり小心者の私は謝らずにはいられなかった。
「ああ、それなら気にしていない。君も他の友人の手前では話しにくかっただろう。僕の方こそ配慮が足りなかった、すまない」
「先輩ぃ…」
逆に謝られて、もやもやは晴れないどころか影を濃くする。
傷つかないわけがない。私は先輩が普通のひとの感性を持っているのを知っている。
私が先輩のような扱いを受けたら寂しくて泣いてしまう。
「慣れている」
「そういう問題じゃないです」
「そういう顔をしないでくれ。その、非常に、気分が落ち着かない」
先輩は珍しくばつが悪そうに視線を逸らす。
「……嘘をついた。本当は少しだけ悲しかった。少しだけ。何も考えず接近してしまったのは僕も浮かれていたのだ。高校で初の、いや、人間では初めての友達だったから。正気じゃなかった。
ただし、分かっているつもりだ。鬼丸君にとって世界や社会は僕だけではない。君は僕よりもずっと複雑な社会で高度なコミュニケーションをとって生きていかなければならない」
「そんな大げさな…先輩だって複雑じゃないですか。生徒会長だし」
「そうでもない。僕が1日のうちにする会話や行動は殆ど変わらないし、そう多くない。こういう風に誰かと個人的な話を聞くことも話すこともない。生徒会は今の時期は人と話し合うことがあるが、それは例年のマニュアルに沿って行う事だし変化があっても微々たる改変で済む。去年や中等…いや中学でも生徒会に所属していたから慣れない作業で困惑することもない」
「中学でもやってたんですか。…そういえば先輩ってなに中だったんですか。私、中2の時に生徒会の書記をやってて他校との合流会やったりしたのでもしかしたら会った事あるかも」
「黒峰学院大に初等部から中等部までいた。君は?」
「私は藤中…って、えぇえええっ!?黒峰って、超名門じゃないですか。なんでそのまま上に上がらなかったんですか⁉︎」
先輩が上げた名前は、出来る限り受験から逃げていた私でさえ知っている一流名門校だった。しかも、全寮制で大学までエスカレーター式の。
「つまらなかったからだ」
「え?」
「均一化された生徒と教師。整いすぎた環境。既に決まった進路。どれも退屈だった。学校も父の母校だから受けたというつまらない理由だ。僕は新鮮な世界に飛び込みたかった」
「新鮮な、世界に」
うーん、そういうものだろうか。
私なんて退屈どころか毎日がいっぱいいっぱいだった。
外国は考えなかったんですか、と聞いたら「6歳までニューヨークに住んでいたから別に新鮮ではない」という返事が帰ってきた。へっ!
「父に偏差値60以上という条件付きで他校への進学を許してもらった。最初は地元の公立高校を志望した」
「でも最終的にうちの高校に来たんですよね。なんでですか?あ、奨学金…は、ないか」
わが桃園高校には成績優秀者には入学料と授業料が免除になるという制度があり、それで人気がそこそこある。卒業まで一定の成績をキープしなければならないし、そもそも私にはとんと縁のない推薦入学者だ。
「受験日に雪が降り、ひどい渋滞で車が使えず会場には電車でいくことにした。乗った電車は反対方向行きだった」
「…はい?」
「いつまでも着かないので電車が違うと気付いて乗り直そうとして、所持金が切符代に満たないのに気付いた。クレジットカードで支払おうともしたが期限が切れていたので、徒歩で向かった。着いた時には試験は既に終わっていた。当然その学校は落ちた」
「…まじっすか」
先輩でも私みたいなドジを踏んでしまうことがあるのか。
しかし、学生服を来た先輩が憮然とした顔で財布を片手に駅で立ち尽くしている絵はなんともシュール…あ、だめだ。なんかツボに入ってにやついてしまう。
「む、無理もないだろう。初めて乗る電車だったんだ。笑うんじゃない」
桐谷先輩の白い頬に赤みがさしている、ような気がする。光の加減のせいかもしれないけど。
「というわけで、滑り止めも受けなかった僕は危うく中学浪人しかけたが、父がこの学校の理事長と知り合いでそのツテもあり晴れてこの学校に入学したというわけだ」
「え、じゃじゃあ、先輩って…」
まさかの桐谷先輩が裏口入学!?嘘でしょ!?
「一応試験は受けたぞ?」
「先輩って…先輩って…」
観察しようとその顔をじっと見つめると、先輩にも小首を傾げて見返される。
なんだかすごく、ことごとく予想外。今見えてる先輩はただの残像のようなものかもしれない。大部分の先輩は誰も見たことがきっとないのだろう。大きすぎて捕らえられないんだろうか。
沙耶ちゃんや他の人のいうように、真面目で厳しいだけの人ではないんだ。
「…おもしろい人ですね」
本当は面白いという言葉だけでは足りない気がするのだけど、私の少ない語彙じゃうまい言葉が見当たらない。
「そういうことは、はじめて、言われた」
「あ、嫌でした?」
なぜか固まってぎこちなく喋る先輩。何か考え事をしているようにも見える。
もしかしてからかっているように感じたのかもしれない。
「嫌ではない。なんていうか、その…落ち着かない」
「え、それって嫌だったんじゃ?」
「違う。多分頭で処理できないだけだ」
「あー、考えてみれば意味不明なこと言っちゃいましたね。困らせちゃってすみません」
「違うんだ。そうじゃなくて」
いや、先輩明らかに困ってるじゃないですか。
中途半端に上げた腕が所在なさげに空を掻いている。先輩、その顔は全校生徒にとてもお見せできません。
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「頭で、処理できないほど、…う、うれしい、のだと思う」
「な、なーるほど…」
嫌だとか不快じゃなくて嬉しかったのか。嬉しくてそんなに困っているのか。
不思議な人だなぁ、桐谷先輩。
その時、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。
「なんだか僕の話ばっかりしてしまった。申し訳ない、退屈だったろう」
「いえ、すごく興味深かったです」
「そ…うか、それはよかった。よければ、また話でもしてほしい」
ハイ、と答えたら先輩はまたすごく困ったような渋い顔をしていた。
先輩、一体それはどっちですか…?




