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また玄関先で黒澤さんがウロウロしてる…。
犬塚君に塩を袋ごと投げつけられたトラウマなんだろうが、いささか女々しくはないだろうか。
ていうか、早く帰宅できる日は大体ウロウロしている。30分弱はウロウロしている。
「黒澤さん」
「わ、びっくりした!」
強面のおっさんが16の小娘に不意打ちに肩掴まれただけでびくつくってどうなのか。
「鬼ちゃんかぁー。ごめんごめん、どしたの。何か用?」
「何か用じゃないですよ。早く入ったらいいじゃないですか」
犬塚君も犬塚君で黒澤さんが帰りが遅いとイライラしているので、パッと入ってしまえばいいのに。
なんで普段、借金取りとして色んな人を泣かせているのに、こんなところでノミの心臓になるのだろう。
「待って。あと10秒心の準備が…」
「ただいまー。黒澤さんもいるよー」
強引におっさんの袖口を引っ張って中に入る。
第三者から見ればまったく焦れったい。祐美ちゃんが亡くなってから、当たり前だが犬塚君家の雰囲気は暗い。ただ、黒澤さんがいることで少しはそれが和らいでいるように感じる。
「おかえり。手洗い、うがいしろよ」
台所に立つ犬塚君が振り返って、黒澤さんの方へ一瞥を向けた。
「…コートは、ちゃんとハンガーにかけろよ」
「あ、あぁ…」
ほら、大丈夫だ。舌打ちはされているけれど、大丈夫だ。
黒澤さんはちゃんと馴染めていけてる。
「…ほら、あー君とすー君も、そろそろ仮面ファイターの時間じゃない!?ほらぁ、テレビつけて」
空元気を出しながら、輝君と昴君をぎこちなく抱き込めるのは流石だと思う。ちゃんとお父さんをできている。
「りっくん、おヒゲ痛いー」
「なんかタバコ臭いー」
…だ、大丈夫なはず…。
後日談だが黒澤さんはヒゲ脱毛をするようになり、禁煙外来に通院するようになった。
一番、心配なのは犬塚君だ。
普通に生活は出来ている。前ほどぼんやりはしていない。家事もこなせば、勉強もいつも通りしている。
彼のダメージ量は相当なはずなのに、泣いたのは一度だけだ。かなり落ち込んではいると思う。ただ、良い子であろうとするあまり、弱い部分を見せないようにして頑張っているならこれは危険だ。
また、同じような戦法を繰り返したら犬塚君は人に甘えられるようになるだろうか。
まったく愚策だと思うが、機を待って犬塚君にしがみついてみた。
「うお…!?」
犬塚君は驚いて、一歩たじろいたがそのまま動かなかった。
パブロフの犬的に泣くかなと思ったが、泣かなかった。
「なんだよ、これは…」
「ほ、ほら…ハグにはストレス解消効果が、あるらしいって、知ってる…?」
とっさの言い訳もガバガバすぎて、ツッコミどころしかない。
「ふーん、ありがとうな…?」
多分納得していないだろうに、犬塚君はされるがままになっていた。そして、ナチュラルに頭ポンポンしてきた。
「お前は本当に俺のこと好きだな…」
……??
なんか今宇宙との交信が入って音聞こえなかった。
しみじみとした声色で犬塚君が何か呟いた気がしたけど…。
結構前にうっかり告白まがいの事をしてから、私が犬塚君に振られ、今までずっと犬塚君が好きという流れになっているけど、そろそろ誤解だと言った方が良いのではないだろうか。この認識のズレが、今後ものすごく大変な事態を招くような気がする…。
ただ、失意のどん底にいて、無意識だろうけどポロっと天然の気障っぷりを発揮してしまう今の犬塚君にそんな事を言えるだろうか。
「う、うん、大好きだよ」
合わせたけど、こんなことを言って大丈夫なんだろうか。
そうか、と相槌を打って犬塚君はまた私の天骨をひと撫でした。
「じゃあ、お前はずっとここにいろ。離れんな」
いくら弱っているからといって言っていいことと悪いことがあると思うんですけど。
犬塚君はそれを言われた私の気持ちを正しく理解しているんだろうか。いや、していない。でなければこんな軽々しく口にできるわけがない。
「できるわけないじゃん。私は犬塚君の家族じゃないんだし」
つい刺々しい言い方で返してしまった。
所詮ごっこ遊びなのだ。いつだって私は他人にすぎない。祐美ちゃんと約束があるし、個人的にももう犬塚家にずっと関わり続けるつもりではあるけど、私のスタンスは変わらない。ごく近い他人にすぎない。
「なら嫁に来い、鬼丸」
ぶは、と吹き出してしまった。「汚ねぇな…」とかボケかました張本人が冷静に言っている。
あはは、と私は笑うしかなかった。気が狂っているとしか思えない。やはり犬塚君は今まともな精神状態ではないのだろう。
「なに笑ってんだよ。再来年にでもなれば俺たち普通に結婚できる年齢になるだろうが」
それはそうだけど…。
全てを通り越していきなり結婚するとか斬新すぎる。
「疲れてるんだよ。今日はもう休んだ方が良いよ、私も帰るし」
盛大なボケも受け流して、パッと身体を離したら、捨てられた子犬みたいな顔をしている犬塚君と目があってしまった。くりくりの可愛らしいお目目が寂しそうに歪んでいるのを見ると帰りにくくなる。
「…帰る、のか…」
一体どこでそんな技を覚えてきたんだよ、君。
少し前までそんな真似絶対しなかったよね?無意識だとしても、結構タチ悪いからね?
「あ、あー、あのー…」
助け舟を出してもらおうと黒澤さんの姿を探すが、全然見当たらない。黒澤さんめ…犬塚君の好感度を落とすまいと逃げたな。
「また、猿河が待ってたりするのか。その首のケガもあいつにやられたんだろ。近づくなって言ってんのに、バカたれが…」
猿河氏がなぜそこにでてくる…?
強いて言うなら、黒塗りの高級車が多分そろそろ犬塚家の前に停まっている。悪いのであまり待たせられない。
「く、黒澤さん!出てこないと、キャバ嬢の名刺をいつも胸に忍ばせていることを言うからね!」
「いや、それもう言っちゃってるから!!」
やっぱり近くにはいたか…。深くため息を吐いて黒澤さんは私と犬塚君の間に割って入った。
「まぁまぁ、はるか君。鬼ちゃんが帰るの寂しいのは分かるけど、さすがにもう遅いからね?パパなら一緒にお風呂から添い寝まで出来るから、パパで我慢しようね…へぶぁ!!」
黒澤さんは掌底を食らった。
なんやかんやで、なんとか犬塚君の家から出ることができて一息ついた。
「犬塚君、やっぱり相当凹んでいるんだと思います。アフターケアお願いします」
見送りしてくれた黒澤さんにこっそり告げると、きょとんとしながら首を捻った。
「凹み?まぁ、へこんではいるんだろうけど、あれは普通に君のこと好きなんだと思うよ?」
「…は?」
「好きになっちゃうでしょ。いつも甲斐甲斐しくフォローしてくれて、しかもめっちゃ好かれてるし、作ったもの全部美味しい美味しいって食べてくれるんだから」
「いや、それだけで好きになるほど、犬塚君は単純じゃないですよ。黒澤さんじゃないんだから…」
「単純だよ。だって俺の息子だよ?」
「えぇ…?」
「多分、ずっと前から好きではあったんだと思うけど。鈍感だからなぁ、他人の気持ちにも自分の気持ちにも」
おっさんの戯言だ、こんなの。
そんなものに情けなくも震えてしまっている自分が怖い。何も言葉が出なくて、急いで車に乗り込んでしまった。
そんな馬鹿な…。
そうだとしたら私は一体どうしたらいいのだろう。




