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「遅え……」
犬塚君は不機嫌だった。
クリスマスパーティーの最中だった。大きくはないがツリーもある、ケーキもある、部屋の飾り付けも頑張った。犬塚君がかなり料理に力を入れていた。お腹がいっぱいでひとしきりはしゃいだ輝君と昴君はうとうとしている。時刻は夜8時半をまわっていた。
「黒澤さん、なかなか来ないね」
こっそり呟くと、犬塚君に睨まれた。
「別に。あんなやつ、来ないほうがいい」
「いや、でも今、『遅え…』って」
「言ってねーよ」
「そ、そう…?」
無意識に出てしまったのかな?でも、別にそんな否定しなくても…。犬塚君にとって、黒澤さんを待ちぼうけている事実は、自他共に認めたくないのかもしれない。
「急にお仕事、入ったのかなぁ?」
黒澤さんに電話してみたが全く出ない。向こうからの連絡は、勿論ない。
「あいつはそういう奴だよ。昔から変わらない。今まで何回ドタキャンされてきたことか…」
犬塚君が渋い顔で甘くないココアを啜った。
「そのうち、あいつの言うことは全部その場しのぎだって気づいた。本当に俺らのことを大事に思ってくれているわけじゃない」
あーあ、と私は悲しくなった。
これで黒澤さんが来なかったらなにもかも終わりだと思った。私がどんなにフォローしようが、犬塚君がもうこの先黒澤さんを受け入れることは難しいだろう。
大人の事情なんか、子どもに通用しない。約束を破られたら、悲しいに決まっている。どんな理由でも、受け入れ難い。
惜しい。あまりに惜しい。ここで全て終わるのは。
「わ、私のお父さんは…」
この重い空気を打破しようと絞り出した声は、あまりにか細く犬塚君に届いたか分からない。
「その場しのぎでも、約束なんかしてくれないよ。私は愛されてないから」
私にだってプライドのひとつやふたつあるから、こんなことを言いたくない。何も知らない犬塚君にはただの不幸自慢にしか見えないだろう。
それでも、この言葉を伝えることでなにか変わるかもしれないと思って伝えた。
「それでも、何も希望なんかないのに私一人勝手に期待して、結局裏切られた気持ちになる。最初から、気持ちなんかないのに」
勝手に悲しくなって、勝手に泣いて怒って、絶望して。他人に与えられているものが自分にも当然与えられると思ってた。
「私はずっと犬塚君が羨ましかったよ。いや、他の、誰かに愛されている人全員が」
足りない。足りない。到底足りない。
胸に空いた穴が埋まらない。誰かに無条件で愛されたいのだ。守られたい。大切に思われない。
記憶を失ってからずっと焦がれ続けている。ただ、ずっと手が届かないままだ。
「鬼丸…」
「家族なんだよ。気持ちがあれば離れていても、やっぱり。だから、もうちょっとだけ待とうよ。信じてあげよう。黒澤さんは意外と信頼のおける人だよ」
なんせ祐美ちゃんが、犬塚君たちを託した人なのだ。
どんなに窮地でも祐美ちゃんは、適当な人を選んだりしない。
「…!」
突然、うたた寝をしていた輝君と昴君が同じタイミングで頭をあげた。
目をぱちくりぱちくりさせて、キョロキョロと周りを見渡す、
「どうした?お前ら…」
「…おかーさん…」
「は?」
「おかーさんが帰ってきた!ハル兄、おかーさんが帰ってきた!」
「はぁ?なわけねーだろ。裕美子は病院だろうが。会うのは明日…」
その瞬間ドアが開かれた音がして、懐かしい「ただいまぁ〜」という柔らかい声が確かに私にも聞こえた。
「なんで…」
祐美ちゃんが本当に帰ってきた。
その隣に黒澤さんがちょっとばつの悪そうな顔をしていた。
「はるか君、輝君、昴君。ただいまぁ。メリークリスマス〜」
玄関まで来た三人を、祐美ちゃんはぎゅーっと抱き込んだ。流石の犬塚君も固まったままされるがままになっていた。
「遅くなって、ゴメンね…?病院の許可おりるの時間かかっちゃって」
コソッと黒澤さんが私にボソボソ言い訳していた。
一体どんな手を使ったというんだ。体力が心許ないから絶対安静って看護師さんにあんなに言われてたのに。
「まぁ…うちのボスが、ちょーっと院長にコネクションがあってさぁ…」
「え、あれって、黒澤さんの会社なんじゃ…?」
「オレ?オレは所詮雇われ店長よ。親には頭が上がらないのよ。まぁ、そのご威光のおかげで色々無茶も出来るんだけどさ」
…なんか詳しく聞くのは、色々黒っぽい事情がありそうだからやめといた。とりあえず黒澤さんグッジョブ。
良かった。夢を見ているようだった。
まさかまた祐美ちゃんがこの家に帰ってこれるなんて。
泣きそうだ、と思った時にはもう涙が頬をつたっていた。
何を捧げたって構わない。何を代償にしたっていい。
エゴだと言われても何とも思わない。だって、これは私のただひとつの宝物だ。これを守るなら、私はなんだってする。
とん、と軽く背中を軽く押し出された。
大人の男のひとの手だった。
祐美ちゃんが手招きしてくれていた。馬鹿みたいに私はそれが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
家族ではないのにこんな所に混じるのは、我ながら本当に空気読めないとは思う。だけど、頭に触れた祐美ちゃんの手が優しくて、また泣いてしまった。
お母さん。
無償の愛が自分にも与えられているような錯覚に陥る。温かい。本当なら私が、祐美ちゃんを、犬塚君たちをお手伝いして支えなきゃならないのに。
ごめんなさい。
一度だけ。こんな時にごめんなさい。一度だけ口にされてください。
「お母さん…」
もう二度とこんなふざけた真似をしないから。
「うん…ただいま。心配かけて、寂しい思いばっかりさせてばかりでごめんね。あたし、君たちのこと大好きだからいつも笑っててほしいのに」
目を閉じてしまえば、祐美ちゃんはいつもの祐美ちゃんで、いつも通りの日常がこれからも続くような気がした。
「本当に、本当に、愛してるよ。ずっと見ていたかったよ、みんなのこと」
私の命も体もなんだって差し出せるのに。それで、祐美ちゃんが助かるなら。どんな汚いことをしたっていい。
神様、どうかお願いします。
祐美ちゃんを救ってください。彼女たちに幸せな日常を返してください。
「あたしがいなくなっても、ちゃんといつも通り生きてね。困ったら大人を頼って、辛くても出来る限り苦労しないように」
「裕美子、それは」
まるで遺言みたいじゃないか、と私も思ったが口にしたら最後本当にそうなってしまいそうでやめた。何も出来ない自分が情けなかった。
「立派な大人にならなくたっていいよ。幸せな人になってくれたら。あたしの願いはずっとそれだよ」
祐美ちゃんはそれから少し一緒に話したあと、黒澤さんに連れられて病院に戻って行った。
そして、年が明けた頃。
祐美ちゃんは、眠ったまま二度と目を覚ますことはなかった。せめて安らかに逝ったのが、かろうじて救いだった。




