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どいつもこいつも不可解だ。
裕美子も、鬼丸も、猿河も、萩原も、桃園も。揃いも揃ってわけの分からんことを言うし、勝手にする。
それの意味とか理由なんかいちいち考えてられるか。知るか、こっちは暇じゃないんだよ。
と、自分に言い聞かせるも横隔膜から湧き出てくる苛々はふつふつと煮えたぎってくる。ものや人にやつあたりしないように、手元を動かしたくて、ついつい手編みが捗ってしまう。無心で編んでたセーターがもう完成しそうになっていた。
「黒澤さんとのお出かけ、私が犬塚君の代わりに行くから。犬塚家の第4子として」
鬼丸が輝と昴を寝かしつけた後、そう宣言した。
お前はいつからうちの子になったんだよ、という言葉はまず飲み込む。
「は?なんでお前がそんなことすんだよ。つーか、止めろ。不用意に近づくな。あいつは節操なしだから危険だ」
言っても鬼丸は首を横に振る。
鬼丸のくせに絶対引かないような意思を感じる。こういう時の鬼丸は無駄に強情だから困る。きらきらと光る無邪気な目で。
「お前に関係ないだろ」
怒ったふりをしてもきっと無理なんだろう。
「犬塚君、黒澤さんの何がそんなに許せないの?」
何がって…。そんなこと、いちいち言うまでもない。
「女癖が悪い、頭が悪い、軽薄、不誠実、無神経、不潔、だらしない、脳筋、下半身が緩すぎる、喫煙者、肌が汚い、歯が汚い、声がでかい、デリカシーがない、おっさん、足が臭い」
「…よくそんな即座に言葉が出てくるね。逆に滅茶苦茶気にしてんじゃん…」
はい、と鬼丸にココアが入ったマグカップを渡された。甘くない砂糖入っていないやつ。
「私は赤の他人だから、犬塚君のように黒澤さんの事知らないけど、普通にいいお父さんになりそうだと思ったけどなぁ」
「は?どこが!?」
いやだって、と鬼丸が食い下がる。不思議なことにこの女子相手だとそんなに怒る気になれない。
「何回か輝君と昴君と私でお出かけしてるんだよねぇ、実は」
「!?」
驚きすぎてココアを吹き出しそうになった。
いくら瞬きを繰り返しても、「嘘だよ」の言葉は鬼丸の口から出ない。
「勿論、裕美ちゃんからのお願いだし、輝君と昴君もオッケーしたからね。あの子達はちっちゃいけど、裕美ちゃんと犬塚君にちゃんと説明されてなくても、なんとなく察してるんだよ」
「嘘だろ…。んな、残酷な事させるなよ。教育に悪い…」
鬼丸は何かを言いかけたが、すぐ口を噤んだ。それから、少し寂しそうな顔をして多分別の言葉を吐き出した。
「黒澤さん、普通に輝君と昴君と遊んでたし、可愛がってたよ。遊園地で仮面ファイターショーを一緒に見て、ゴーカートで競争して、トリプルアイス食べて、プリクラ撮ったよ」
「お前にセクハラは?」
「お尻は2、3回触られてけども」
「クソじゃねーか!!」
「ノーアングリー、ノーアングリー…」と謎の呪文を唱えながら鬼丸が隣の椅子に座って、俺の右手を自分の両手で包んだ。なんでこいつはケツをおっさんに触られてヘラヘラ出来るんだ?
「その場しのぎの演技じゃないと思うよ。こう見えて、人を見る目だけはあるつもりなんだ。黒澤さんは子ども好きだし、それに経験者だからか犬塚君より扱い上手だと思うよ。それに…ちゃんと裕美ちゃんのこと…愛してると思うよ」
「適当な事言うな」
腹立たしいのに、ドライヤーかけたての女の髪は雲みたに柔らかそうでしかも鬼丸は割と赤毛気味で細い髪質だから、いつ見てもどうにも気になってしまう。
「犬塚君は、自分が思っているよりずっとマザコンだよ」
「マッ…」
急に実に不名誉な事を言われて、絶句した。自分が思ってるより、というか俺がマザコンだったことなんか一度たりともない。そんな事少しも気にした様子もなく、真顔で俺の顔を見つめながら話し続ける。
「犬塚君はずっと裕美ちゃんの事ずっと心配してる。黒澤さんの事をこんなに拒否するのも、結局、裕美ちゃんの事を傷付けたのが許せないからだよ。また、裕美ちゃんが苦しまないように一生懸命抵抗しているんだよ。裕美ちゃんの事が大好きで、守りたくて、放っておけないんだよ。ずっと前から、犬塚君は裕美ちゃんのために生きてるんだ」
「……」
「でもさ、裕美ちゃんだって、犬塚君の事大好きなんだよ。裕美ちゃんは犬塚君達のために生きてるよ。どんな事をしても守り通したい大切な宝物なんだよ。だから、今回のことだってそうなんだって分かってほしい」
鬼丸が裕美子に懐いているのは知っているが、なんで鬼丸が他人の裕美子についてこんなに真剣に喋っているのか分からない。分からないし、認めたくない。他人のくせに何が分かる、と怒鳴りたい。しかし、苦しい。胸が苦しい。
「気をつけて。時間は限られているから」
別に押さえつけてられてる訳じゃないのに何故か動けない。垂れた目の中の瞳が潤んでいる。なんでお前がそんな顔をする。苦手なのだ、こいつの泣き顔は。直視できないし、どんな言葉をかけてやればいいのか分からない。
無様に硬直した俺を尻目に、鬼丸はまた「今日は帰る」と言い出した。
時刻は午後11時過ぎ。どう見ても、女子一人で外をうろつける時間じゃない。それでも、少しも怯えていないのは。
(また、猿河と帰るのか)
というのは、死んでも聞けないけど。
◆
鬼丸とあんな事を話したからか、昔の夢を見た。
ほんとに昔。俺がまだ輝と昴くらいの時。
今の家より少し広い家に住んでいて、まだ表面上は裕美子とあいつもそれほど険悪な関係ではなかった。
けど、当時から家に帰らない日の多かったあいつが物心ついた時から好きではなかった。
あいつは高校中退してグレてて、バイク屋やらパチ屋勤めを転々としていて、最終的にたどり着いたのはほとんどヤクザみたいな仕事だった。
そんなわけで幼稚園での俺の評判はすこぶる悪く、裕美子も他の保護者から孤立してしまっていた。
『よし、父ちゃんと遊びにいくか』
友だちもいない俺に気まぐれにあいつがそんな事を言った。
やだ、と断った記憶がある。
『YADA?なにそれ、英語?父ちゃん、そんな言葉知らなーい。よし、映画行くぞ!映画!』
裕美子は丁度出かけていて、家にはあいつと二人きりだった。
映画の内容は覚えていない。確か当時好きだった戦隊ヒーローの映画だったと思う。
その時の自分の気持ちすらよく分からない。嫌だったのか、怒っていたのか、気まずいのか、楽しかったのか、嬉しかったのか。
ただ、その帰りに食べた目玉焼きの乗ったナポリタンがものすごく美味しかったのだけ、覚えている。満腹になって眠くなり、誰かの背中の温もりを感じながら運ばれた事も。
◆
火曜はバイトの面接の日だった。
そして、奇しくも裕美子たちがあいつと食事に行く日だった。
「任せて!犬塚君の代わりにお腹いっぱい食べてくるから!フレンチビュッフェ!」
鬼丸も裕美子も、バイトの面接の件は知らない。
面接に受かったら言うだけ言ってみようと思う。裕美子あたりは反対するだろうが、受かってしまえばもう何も言わせない。
そんな決意があったから、裕美子達を今日のところは何も言わずに送り出した。
今日の面接は家から通えるほど近場のファミレスだった。裏方希望で。接客には自信がなかったし。
「うーん、真面目そうだし、清潔感あるしホールでも全然いけそうだとおもうんだけどねぇ」
店長は人の良さそうな中年の男性だった。説明された労働条件もさほど厳しくなく、少し慣れたらまた新しいバイトを増やせるかもしれないと感じた。
「じゃあ、とりあえず来週から来れるかな?」
…随分、判断が早いし緩いな。別にいいけど。
出勤時間を確認したら幼稚園の迎えには間に合いそうだった。
「制服を用意しておくから、サイズ教えてくれない?…えっと、君、電話鳴ってない?大丈夫?出ていいよ」
鞄の中で携帯のバイブがけたたましく鳴り続け止まない。電源を切っておけば良かったと思いながら、店長さんに甘えて事務室から廊下に出た。
電話は鬼丸からだった。
「どうした、いきなり…」
『犬塚君!大変なの!』
鬼丸はとにかく焦っていて、鬼気迫る声で電話越しに話しはじめた。嫌な予感がした。
『祐美ちゃんが倒れて…今、救急車で…!お願い、犬塚君も今すぐ来て!早く!』
目の前が真っ暗になった。
「は……?なんだそれ…?」
間抜けな声をあげて呆然とする事しかできなかった。




