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「犬塚君、今日のご飯ってなーに?」
ぎゅむっと後ろからなにかに包み込まれる感。振り返って確認するまでもなく鬼丸哀…が、無遠慮に抱きついてきている。
「…おでん、だけど。料理中は危ないから離れろよ、バカたれが」
「えー、包丁使ってないから大丈夫かと思って。えへ」
子どもみたいに無垢な笑顔を向けられて、怒るに怒れない。
丸出しの広いデコとか丸い顔の輪郭とか、いつも二つ縛りにしている髪をひとつにまとめて後ろで無理やり団子にしているのとか普通にかわいいと思うから困る。ていうか、なんだこれ。
「ほれ、味見しろ。大根」
とかごまかしつつ、変な雰囲気になるのを防ぐ。
「わーい!犬塚君だいすきー!」
はふはふしながら一生懸命大根に齧り付く鬼丸をあまり注視しないようにする。不用意にときめきを刺激されないように。
鬼丸が我が家に来るのは一ヶ月ぶりだ。
しかも自分から来たがるとか珍しい。鬼丸はなにかと家庭環境に問題があるらしいとはなんとなく気付いてはいるし、時々ものすごく不安定な姿を安易に見せてくるから心配で放っておけない。なんの根拠もなく目の届くとこにいてほしい感はある。しかし、鬼丸は無駄に構われる事は避けていたようだった。
俺が鬼丸を振った後は鬼丸自身も不用意に近づいたりしないようにしているようだったけれど、なぜここにきて鬼丸から予防線を越えてくるのか分からない。この前みたいに酔っ払っているわけでもないのに。
「おはよぉ~。あ、鬼ちゃんだ。はろーはろー」
のっそりと由美子が起きてくる。そしてそのままのそのそと風呂場にシャワーを浴びに行った。
由美子は入院した後、体力がなかなか回復せず店のシフトも減らしている。あのクソ父の事もあるし、あまり無理をしてもらいたくない。
実は、バイトの求人誌を通学カバンの中に隠したままだ。実は来週面接を約束している。
裕美子一人に家計を背負わせるなんてどのみち無理がくるとは思っていた。裕美子があのクソと再婚するのは、経済的理由があるのだと思う。その為に裕美子の気持ちやプライドを犠牲にするのは嫌だし、そんな選択をさせてしまった際には俺自身が自分を許せない。
バイトなんていくら掛け持ちしてもいい。進学なんかしなくていい。家事だって今まで通り完璧にこなしてみせるし、輝と昴だって自分の進みたい道まで押し上げてやる。
「おに!仮面ファイター始まっちゃうよ!」
「はやくはやく、こっち来て!」
輝と昴に鬼丸がリビングまで連れてかれる。それを見守りつつ、常々裕美子に言われていた言葉を思い出していた。
『はるか君、だめだよ。家の事やってくれるのはありがたいけど、学生の本分は勉強なんだからちゃんとそれに集中して。折角頭良いんだから、真面目に学校行って高校だって卒業して、大学も行って、ちゃんとした職業に着いて幸せにならなきゃだめだよ』
一見するとそれはまっとうな親らしい事を言ってるようにも聞こえるが、今なら思う。
それはエゴだ。洗脳だ。
気付くのに随分時間がかかった。もう小さくてひ弱で何も出来ない子どもじゃないのに。
俺が裕美子や輝と昴を守らなきゃいけない。今よりもっと頑張って色んな事を自分がやってやらなきゃ俺たちは破綻する。
【お願いだから、あいつと別れてくれ。そうしないなら俺を切り捨てろ】
俺があの時、あんな事を言わなきゃ違っていたのだろうか。あの言葉が裕美子を不幸にしているのだろうか。
不幸になんかさせたくない。俺一人生まれたせいで裕美子は平均的な女性よりずっと苦労した。だから、これからは俺がその責任を負う。辛い思いなんかさせない。
「来週、りっくんと出かけるからね。予定入れないでね」
「おうよ。……って、はぁ!?今なんか言ったか?」
裕美子が髪にドライヤーをかけた後、なんでもないことを言うみたいにさらりと爆弾発言を投下した。一瞬流しかけたほどに。ていうか驚きすぎて、おかわりをねだった鬼丸の顔にゆで卵を押し付けてしまった。ぎゃあああ!!と鬼丸が床を転げだして、彼女に謝りながらタオルを巻いた保冷剤を患部に押し当てた。…良かった、火傷はしていないようだ。
「もぉ、はるか君。女の子は大事にしなきゃだめだよ?気をつけてね」
「ていうかお前も!!何くだらねー冗談なんか言ってんだよ!笑えねーんだよ、クソが」
若干声が震えてしまいながら大声で言い返すが、裕美子は真顔のままだった。
箸が転がってもケラケラ笑っているあの裕美子が。
「冗談なんかじゃないよ」
空気が凍りついたのを察したのか、輝と昴の声がいつの間にかしない。テレビの音だけ、場違いに響いている。
「ふざけんなよ。馬鹿だろお前、あいつのした事許せるのか?」
許せないよ、と能面みたいな顔で裕美子は答えた。
「でも、そんな事よりはるか君たちの方が大事だもん。輝君と昴君にも、そろそろお父さんのいる生活をさせてあげたいんだもん。もう我慢なんかさせたくないよ」
綺麗事を言う…と、頭が痛かった。
今更そんなことを宣うか、お前が。
バカな男に引っかかって、うっかり妊娠させられて、高校にもまともに行けなくて、駆け落ちして結婚したら旦那には浮気されまくり。バカ不倫女が家に何度も乗り込んできては、ヘラヘラ笑って追い出した後に風呂場で一人で泣いていた事を知らないとでも思っていたのか?深夜に帰ってきたバカを怒鳴りながら殴っていたのを何度狸寝入りでやり過ごしてきたか。
「はるか君だって、ちゃんと自分のしたい事をさせてあげたいんだよ。努力した事をひとのために全部使っちゃうなんて馬鹿みたいだよ」
馬鹿…?なんでそんな事を俺が裕美子に言われなきゃならないんだよ。
自分のしたい事をさせてあげたい?
「全部お前のせいだろうが」
俺にしたい事がないのも、自分の将来に夢を持てないのも。
一度爆発したはずの怒りが頭の中をマグマみたいにいたるところから噴出して渦を巻いている。絶対に普段言えない事を言っている自覚がある。裕美子との関係を修復する確証がないような重い発言をしてしまっている。それだけでなく、裕美子を致命的なほどに傷付けた。裕美子がどんなに家族を守ろうと必死になっているか、知っているのに。
「犬塚君ッ!!」
鬼丸が突然素っ頓狂な大声で叫んだ。
「やばいよ!おでんが!地獄絵図にぃいい〜〜!!」
火のかけすぎで鍋がいた吹きこぼれてしまっていた。慌てて鍋に駆け寄る鬼丸を制する。
「いいから!お前はコンロに近寄んな!逆に危ないから」
でも、偶然でも鬼丸があの場で空気をぶった切ってくれて助かった。じゃなきゃ、裕美子にもっと酷い言葉を投げつけていた。偉そうに。大した事も出来ない子どもの分際で。
「あ、ごめん!今日早出だったんだ、もう行くね!卵と巾着は残しといてね〜」
裕美子が時計を見て、慌ただしく家を出て行った。多少わざとらしくは見えた。なにも思ってないはずがない。逃げた、と小さな絶望が胸に過りはするが。
きちんと向き合ってくれない裕美子にここのところずっといらついている自覚はある。もともと腹が立ったら感情を抑えられない方だけど。
だけど、クズとの事だってきちんと説明しろ、と思う。裕美子はいつも誤魔化してばかりだった。にこにこしながらはぐらかして、ばつの悪い事は全部隠して、此方になにも言わせず従わせようとする。馬鹿なくせに卑怯だ。
「大丈夫だよ、犬塚君」
気付けば鬼丸が泣きそうな顔をして顔を覗き込んでいた。きっと俺がひどい顔をしていたからだろう。
輝と昴もテレビそっちのけで鬼丸にすがりついていた。その不安そうな表情を見て、自分こそ馬鹿なことをしたとやっと分かった。
「黒澤さんと無理に和解なんかしなくていい。許せないならそれでいいと思うよ。でも、犬塚君だってもうちょっと裕美ちゃんの願いを受け入れてよ。お願いします」
なんでお前が頭をそんな深々と下げる必要がある?意味が分からなくて、その旋毛をまじまじと見つめた。
元々変な奴だとは思っていたが、最近ちょっと違和感を感じて仕方がない。
「あ、ごめん…。連絡きてた、そろそろ帰るね」
バイブ音がして、鬼丸がポケットから携帯を取り出した。
「親か?送る」
送迎はいらない、と鬼丸は首を振った。せめておでんをタッパーに詰めて押し付ける。
最近親と仲がいいんだな、という言葉はなんとなく飲み込んだ。
夜中まで外出していたり、寂しいと泣いていたり、そういう姿を最近は見ない。ちゃんと自分の家にいるようだ。うちに来ても泊まる事はない。それはそれで安心している。
「じゃあ、犬塚君。また明日ね」
鬼丸は不器用に笑いながら、ドアを開けて出て行った。
しかしもう薄暗い時間だ。やっぱり不安で心配だから、ストーカー紛いな事をしないまでも、少しして遠くなった鬼丸を見送る。
「…?」
大人のような人影が、随分大柄な男の影に、鬼丸は駆け寄っていった。父親か?と思ったが、なにか距離感が妙な気がして手を繋いだ二人を暫く見ていた。
街灯の下に二人が通りかかって、ようやく男の方の姿が見えた。
男は金髪で、背が高く、若かった。しかも知り合いだった。
「なんでだよ…?」
同じ学校の男子の猿河修司だった。




