[extra2 犬と猿]
肘に押されて隅っこにある消しゴムが転がっていく。
丁度文字を消そうとしていた所だったのに、使い潰されて丸くなった消しゴムはコロコロと教室の床はるかかなたまで消えていく。その光景を眺めているうちに私の何かがブチィイ!と音を立ててはち切れた。
「う゛わぁあああああああああ」
「うるせぇよ!バカ!」
頭を抱えて断末魔の叫びを上げた私に、すかさず犬塚君から苦情が入る。
此方を向いた犬塚君を逃がすまいとその机に両手でしがみつく。
「…なんの真似だ」
思いっきり不審げな顔をされたが構うものか。
「犬塚君、どうしよう数学が分からない…」
そう、猿河君の宿題だ。あれから図書館で家で参考書や教科書を見てやってみたのだが、全くちんぷんかんぷんだし眠気に負けていつの間にか寝てしまう。なんでB組とC組でこんなにやってる範囲が違うんだ…。ていうかC組進むの早すぎんだろ。そもそも自分の勉強もままならないのに。実は今日、前もって猿河君に指定された宿題の提出締切なのだ。なのに、ノートにが圧倒的に白が多い。こんなのあの暴軍こと猿河氏にそのまま渡したらどんな目にあうか…。
「今は古文の自習だろ。プリントやったのか」
「や、やりましたよ。もちろん」
…名前を書くだけは。いいのだ、どうせ来週答え合わするだけだし、うまくいけば解答するのは当たらないかもしれないし。それより今はこっちの方がウェイトが高い。
犬塚君は私の机の上の紙と私の顔を交互に見比べ、尚納得のいかなそうな顔をして口を開いた。
「……見せてみろ」
「わお、犬塚君やっさしー」
なんだかんだで面倒見いいもんなぁ、犬塚君は。さすがお兄ちゃん。
そして犬塚君が真面目にちゃんと予習復習していることは知っているのだ。だからもう最終手段で彼に教えてもらえることをアテにしていた。
せっかくその気になってくれているようなので遠慮なく犬塚君の机の上に問題集を広げた。
「この20ページから26ページにかけてなんだけどあの…全体的にお願いします」
「ん、まず問1からか」
一応問題自体は十分すぎるほど目を通したので、私が疑問点とか引っかかっている部分を質問した。
さすが隠れ優等生、私の質問に淀みなく丁寧に答えてくれた。実のところ、教えてくれてももっと乱暴にやるだろうと思っていたのに。しかもめちゃくちゃ分かり易い。数学教師の小木Tよりもずっと教えるのが上手い。
「あ、あんさん神や…!」
私の尊敬の眼差しを、嫌そうな顔をしてハイハイと犬塚君が受け流す。いやいや、おちょくってるとかじゃなくてマジで感謝してるんだって!犬塚君、天才!
「おお…解ける、解けるぞ!」
ふはは、とつい笑ってしまう。理解してみれば、えらくしょぼい部分で躓いていたことが分かる。見方をもう少し変えてみれば自力でも分かったのに、と思うとちょっと悔しかった。
「ていうか、鬼丸」
「はい?」
天変地異の前触れかというほどこれまでになく嬉々としてシャーペンを走らせていると、不意に犬塚君に呼ばれて顔をあげる。
「それ、誰の問題集だ」
「はっ…?」
思わず顔が強張ってしまった。
大きくて愛らしいお目目なのに、なぜかやたら覇気のある視線に緊張してしまう。
今まで何のツッコミもなかったから、スルーしてくれるのかと思ったのに。
「やだなぁ、私が自発的に予習してるだけだって。それ、自分で購入したものだし。あは…」
「俺が認識している鬼丸哀はそんなことをするわけがない。なぜならアホだから」
「ちょ、そこまで言っちゃいます!?」
ショックを受けたフリをして、犬塚君の注意が逸れたのを見計らって問題集を抜き取った。
いや、抜き取ろうとした。
「遅い」
しかし、ひょいと問題集は目の前で持ち上げられた。当然ながら差し出した手は見事に空振った。
「あぁ!ちょっとダメだって!プラ、プラ…プラバシーの侵害だって!」
「プライバシーだ、バカめ。……誰だ、猿河って」
「いや、あの…と、とも、だちッス…」
犬塚君がどうやら猿河君を知らないようなのがせめての救いだ。
「なんでお前がその友達の宿題をやってる。そういえば、望月と萩原達が最近お前が弁当を持ってきてるのにパン買っている所を見たとか言ってたけど」
偶然にも、と低い声色で強く言い放つ。
私いますごく顔面蒼白になっている自信がある。気分はもう噛み付き五秒前の野ネズミ。
「一昨日、買い物の途中で男子とそいつの鞄を持ってる下校途中らしきの誰かさんを見たんだけど」
「う゛…あの、えっと、それは」
誘導尋問じゃないか、こんなの。言葉に詰まって、あうあうと口だけ無闇に動かしかできない。
ひどい!このSめ!そんなに私を追い詰めて楽しいか!
その時、4時間目の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
天の救い!とばかりに犬塚君の手から問題集を回収して自分の席に戻った。
「じ、じゃあこの話はこれでおしまいってことで…」
あはは、と愛想笑いをして沙耶ちゃんとハギっちの所に行こうと踵を返した途端腕を取られた。
「行くぞ」
振り返るといつの間にか立ち上がっていた犬塚君。どこに、とも言う暇も無く私は引き摺られるように教室を出た。
◆
「いじめられてるなら早く言え」
廊下に出て、犬塚君が言った。
すでに隣のクラスで猿河君を呼び出している最中である。
どうやら犬塚君は私が猿河君にいじめられていると思っているらしい。
「ち、違うって…これはいじめとかじゃなく、えーと、なんて言ったらいいのか…」
奴隷…って言ったら余計に誤解されるよなぁ。
大体考えてみたら猿河君のやっている事って限りなくいじめに近いような…。
まぁ、それは置いておいて。こんな状態の犬塚君が猿河君が遭遇したら確実に面倒臭いことになってしまう予感がする。
「ね、ねぇ、犬塚君やっぱり…」
犬塚君の制服の端を掴んで、今日の所はハウスしてもらおうとしていたら硬めの雰囲気をぶち壊すようなひどく明るい声がした。
「はーい、俺のこと呼びました?」
あ゛ぁあああ来ちゃったぁぁ……。なんで今日に限ってそんな無防備に来てしまうんだよ。
ひょっこりと教室から顔を出した猿河君に絶望する。
「猿河だな」
「あれ、鬼丸さんと…」
ちらりと合った微笑んでいるのになぜか絶対零度を思わせる視線に、恐怖で肩がびくついた。こ、これは怒っていらっしゃる…。
「単刀直入に言う、もう鬼丸に手を出すのをやめろ」
堂々と言い放った言葉にずべっとつい転げそうになった。
いやいやいやいや!
犬塚君、その誤解を招く言い方止めてくれます!?
「へぇ、手をねぇ…」
「鬼丸をいいように利用して苛めまがいの事をしているのは聞いた。これ以上、こいつに手を出したら俺が相手になる」
犬塚君の発言に激昂するどころか、にやあ…と笑みを深める猿河君が怖い。
ていうか後で私が目に遭わされるのかが怖い。
「なに言っているかちょっと俺には分からないなぁ。全部彼女が自分からやるって行ったことなんだし。利用とか苛めとか人聞きが悪いなぁ」
「あ゛ぁ?」
「鬼丸さん、すごく俺のためになんでもしたいって言ってきかないんだよね。しかも、少しでも傍にいたいからってわざわざ親衛隊に入ったくらいで。ね?」
「は、はい…うん!」
疑わしげに此方に振り返った犬塚君からつい目を逸らす。
犬塚君には申し訳ないが、もうこの場は猿河君に任せてしまった方がうまく収まる気がする。すごく勝手な事を言われてるのは今は堪えて。親衛隊に加入したのは事実だし。
「だとしてもおかしいだろ。大体男として恥ずかしくないのか、女子をパシリみたいにつかって」
「え?何それ、今時そんな固定観念に囚われてるの?」
ぷっと吹き出した猿河君に、確実に場の空気が音を立てて軋んだ。
なにこの人。一体どうしたの、何かの病気なの。さっきまで猿河君と私は同じ目標をめざしているのだと思ったのに…急に裏切られた気分だ。
「男だからとか女だからとかそういう古い考え、この男女平等社会じゃ通用しないんじゃない。まぁ、思想は個人の自由だけれどもそれを押し付けられたら堪らないなぁ」
「ちょ、猿河君!」
「そうやって固っ苦しくまとまって他を認めないからクラスでも馴染めないんじゃない?猛犬チワワ君」
「猛犬チワワ?なんだそれ」
あ、と小さく上げてしまった私の声は多分誰にも届かずに空中に消えてしまった。
言っちゃった…。ついに言ってしまった。我がクラス最大の禁則事項が破られてしまった。
こうもあっけなく。
「え、知らない?ホラ君のあだ名。チワワみたいに小さくて可愛い顔しているのに、中身は超獰猛な猛犬みたいだからって。噂では聞いてたけど俺もまさかここまでギャップのある人だとは思ってなかったよ」
にやにや口角を釣り上げた猿河君が犬塚君を見下ろす。そしてわざとらしく屈んで、にやにや嗤った。
とてもじゃないけど友好的な態度には見えない。どうした鉄壁王子の猿河。なんか猫が剥がれ落ちてませんか…?
「犬塚はるか、っていう名前印象的だから覚えちゃったんだよねぇ。うん、なんていうか可愛らしくて君にぴったりの名前じゃないかな。これで女装とかしてみたら似合うんじゃない?そうだ、学祭のミスコンとか出てみない?きっと犬塚君なら優勝できるんじゃないかな。だって中々こんな可愛い顔した男の子とかいないし。あ、化粧なら知り合いに得意な人知ってるから任せといて……」
そして、犬塚君の頭突きが猿河君のデコに命中したのもあっという間だった。
叫び声もなく猿河君がよろめいて額に手を当てる。
「ぺちゃくちゃと下らねぇこと喋ってんじゃねーよ、うざったい!男なら一言で簡潔に済ませろや!」
犬塚君が少しの冷静さも殴り捨てたように怒鳴る。鼓膜がびりびりして、身体が萎縮してしまう。
大声をあげたせいか騒ぎを聞きつけて周囲に人が集まってきたのに不味いと思う。こんなカオスな状況、他人から見れば好奇心をくすぐられない訳が無い。
これ以上はだめだ、うん。彼らを好奇の眼差しに晒してはいけない。
怖いという気持ちを丸めて握りつぶして、犬塚君を引っ張って強制ハウスさせた。
取り敢えず、大人しく自分の席に戻った犬塚君だがそれからその日はもうずっと不機嫌で、どう機嫌を取ろうとしてもむっつりと押し黙ったままだった。
どうしてこうなった…。
私が悪いのか。犬塚君に数学教えて貰ったのがいけなかったのか。
一方、猿河君の方は保健室で貸出したアイスノンを額に当てながら「なにあのバカ犬、絶対いつかシメる…」と珍しく分かりやすい恨み言を吐いていた。
やっぱり犬と猿だから相性が悪いのかなぁ、とか下らないことを考えたのは誰にも言えなかった。




