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私は本当にアホなんじゃないかと、いや、間違いなく純度ひゃくぱーアホなんだけど。
ぱちくりぱちくりと桐谷先輩が瞼を開ける度に睫毛が額に当たる。もう恥ずかしいというレベルじゃない。いつ憤死してもおかしくないくらいに、私は桐谷先輩と接近していた。
非常事態だから仕方がない、と頭の中で言い訳をするも、邪な感情を持ってしまう私はどうしようもない。
ことの発端は、私の軽率な行動からだった。
◆
私は、その日偶然にも女子生徒に桐谷先輩が話しかけられている現場に遭遇してしまった。横にいたので。
「あの、桐谷先輩…」
先輩呼びするという事は私と同学年だろうか。あまり印象がないから、クラスが離れているのかもしれない。
一瞬ちらりと目が合って、すぐ視線を逸らされた。サラッサラのロングヘア。
「もし良かったら一緒にお昼とかどうですか?」
行動力の鬼…!しかも割とかわいい!
「すまない。先約がある」
そして能面顔で瞬殺。でも、なんだろう。半年前より対応が柔らかくなった気がする。それとも雰囲気かな。
女子生徒がその場を去り、ちょっと気になったので聞いてみた。
「別に今日お昼にミーティング入ってないですよね?何か他に用事あったんですか?」
桐谷先輩は数秒間起動停止した。…ローディング中かな?
「君と昼食を摂る予定だろう」
「え、そんな約束なんか」
「だめか?」
「だめじゃないですけど…」
先約ってそういう意味じゃないと思うのですが。確かに最近執行部で昼ごはん食べる事が多かったけれども。
「実は最近なぜか急に生徒に話しかけられる事が多くて」
「はいはい、伺ってますよ」
「嬉しいというより、なんというか困るんだ。どう対応したら良いものかと」
桐谷先輩は相変わらず表情筋が死んでいて無表情に限りなく近く見えるが、わずかに眉尻が下がっているように見えた。
「目も見えないから見覚えがあっても確認できないし、不快にさせないようにしたいからあまり話さないようにしているのだが」
「…」
「僕には彼女たちが何をもって近付いてきているのか分からない」
こういうところが、桐谷先輩の桐谷先輩たる所以だと思う。
猿河氏や犬塚君とも違う。先輩がこういう部分を私に時々かましてくるから、そういう部分が【人間的に】好きだから、結局今も桐谷先輩の近くをうろちょろしているのだろう。
「別に何か企みあっての事じゃないと思いますけど。普通に先輩と仲良くなりたかったんじゃないですか?」
「何故?」
「何故って。それは…桐谷先輩は生徒会長だし、秀才だし、イケメンだし、面白いし、お近づきになりたいと思ってた人は多いんじゃないですか?」
「生徒会長であることしか当てはまってなさそうなのだが…」
「今度は私を使って断ったりしたらだめですよ」
そう言い終わり、ちらりと後ろを振り返ると目があった。ごく物陰から全然隠れる気なんかなく、大きな上背と限りなく金色っぽい茶髪。そしてその綺麗な顔を余すことなく使って蔑みを表現している。
いやいやいや、いつからいた?全然、気付かなかったんですけど。
(なんでいんの?)
口パクとジェスチャーを交えながら、後方に向かって語りかける。なかなか意思疎通方法としては難易度が高いが、対猿河氏には勿論通じる。
(哀ちゃんが眼鏡事件にかこつけて、桐谷先輩とイチャついてないか監視と牽制。ていうか、何が『今度は私を使って断ったりしたらだめですよ』だよ。上からかよ、凡ブスがうぜぇんだよ)
そして、めっちゃ言ってくる…。この距離感で口唇術と顔芸しながらそこまで言う?
(猿河氏、帰りなよ…。学校終わったら構ってあげるから)
(やだよ、もう我慢の限界。ていうか別に僕がいてもいいじゃん。君達を2人きりにする意味とか分からないし)
(いやいや、猿河氏と桐谷先輩のラストコンタクトめちゃくちゃ後味悪かったじゃない。超気まずいよ?)
(は?この僕が桐谷先輩相手にビビるとでも?)
そうじゃねーよ。雰囲気がピリピリしだすから周りにいる私が嫌なんだよ。
そして、猿河氏は絶対に言うだろう。私と猿河氏に肉体関係があることを。そんな事を桐谷先輩が聞いてしまった日には、その純粋さ故に卒倒してしまうかもしれない。そして、私は桐谷先輩からの信頼も何もかも失ってもう生徒会にはいられなくなる。
かくなるうえは、仕方がない。
「桐谷先輩、行きますよ!」
とっさに桐谷先輩の左手を抱き込み、走りだす。
後方から動き出した気配を感じる。勝てるわけない。運動神経に乏しい私と桐谷先輩の足が、奴に勝てるわけがないのは重々承知だ。
だから、ここからすぐ近くの物品庫に行けば鍵がかけられ一先ず撒ける。訳が分からないであろう桐谷先輩には申し訳ないが、私は勢いのまま物品庫に飛び込み内鍵をかけた。
「鬼丸君?」
「すいません、ちょっと追手が来てまして」
「追手?」
この物品庫はすっかり生徒会執行部の備品や書類の物置になっている。色々ごちゃごちゃしていて足元も悪い。
「…ていうか、すいません。いきなり走り出しちゃって。疲れましたよね」
背中を壁に押し付けると、視界の端で何かが揺れた気がした。
「鬼丸君!危ない!!」
私が何が起きたか知覚する前に桐谷先輩が私に覆い被さってきて、床に倒れて、一拍遅れて物凄い勢いで備品やらファイルやらが大量に棚から落ちてきた。
「桐谷先輩!?大丈夫ですか?生きてます?」
「生きている。…しかし、動けない」
私も動けなかった。なんとか頭などは打ってはいないが、身動きひとつでどうなるかは分からない。
「…庇ってくれて、ありがとう、ございます…」
ただ、こんな密着する事態になるくらいなら、一旦見捨てて後から救助してくれる方がいくらかマシだった。
「怪我はないか?」
「大丈夫です。先輩は?」
「僕も問題なさそうだ…ん?」
「どうかしました?」
何かまた負傷でもしたのかと、私も気が気じゃなかった。
「…君は、柔らかいな。それに何かいい匂いがする」
何言ってんの、この人。
「や、やややわらかいって」
「本当に柔らかい。ワトソン君より柔らかい。ふわふわしている」
そんな「新発見!」みたいに言われても、どうしろと。顔に熱が集まって痛いくらいだった。
「き、きりたに、せんぱいは、いがいとかたい、ですね…」
何を言っているんだ、私は。
「鬼丸君は温かい。平熱が高いのか?」
違う。それは私がいかがわしい事を連想してしまったからです。首に当たる息の生暖かさにゾクってしまったからです。
私が何の経験もない女なら平気だったのだろうか。分からない。私が元々いやらしいだけなのかもしれない。鼓膜を突き破りそうな心臓音が、桐谷先輩に聞こえているかもしれなくて怖い。
「鬼丸君?」
いけないと思うのに股関節に意識が集中してしまう。罪悪感と羞恥心で死にたくなる。
「た、助け呼ばないと」
「僕はもう少しこのままでも大丈夫だぞ」
「先輩」
「いや、君と密着しているのがあまりに気持ちがいいから。離れがたいんだ」
私は死んだ。
まもなく私たちは救助された。
近くにいた猿河氏が音に気付いて教員を呼んでくれたのだ。一応、物品の整理していたら事故が起きたという言い訳は通った。
「本当かなぁ〜〜?怪し〜〜」
約1名にはお見通しかもしれなかったが。
その翌日から、桐谷先輩の眼鏡は完成して全て元どおりの日常に戻った。私も時々あの時の事を思い出しては赤面するが、忘れてしまおうと心に決めた。
だが、まだ平穏には遠かったのだ。




