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事件はその日の昼休みに起きたのだった。
私は久しぶりにポン太を探しに来ていた。
季節は1月。積りはしなかったが雪が降り、すっかり冷え込んだ。この辺りを縄張りにしている三毛猫のポン太の事が気がかりだったのだ。
「ポンちゃーん、ちゅーる持ってきたよ〜」
「鬼丸君?」
先客がいた。思えば、当たり前だ。
桐谷先輩だってポン太の存在は知っていたのだ。ポン太は桐谷先輩の腕に抱かれてぬくぬくしていた。
「あー、えーと、お邪魔でした…」
「鬼丸君」
誰が逃げられようか、そんな目で見られて。
桐谷先輩とは毎日顔を合わせている。
同じ生徒会執行部に所属しているので、当たり前だ。しかし、二人きりになると途端に緊張する。桐谷先輩がまったく悪気無く爆弾発言と大胆不敵な行動を投下しだすからだ。
「ポン太に会いに来たんだろ?折角だからもっといるといいんじゃないか」
先輩が言うことももっともだ。第一、桐谷先輩の顔を見た途端に逃げるとか失礼すぎる。うちの学校の生徒会長だぞ。
「僕はなにか君が嫌がる事をしているだろうか?だとしたら、教えてくれないか?」
「…いえ、別に」
ほら先輩も気にしてしまうし。心なしかしゅんとしてるし。
私だってもっと割り切って対応したい。桐谷先輩に優しくしたくないわけじゃない。
「ワトソン君は元気、ですか?」
「うん、元気だ。今朝なんか父の背中によじ登っていた」
「それは、怖いもの知らずですね…」
あの滅茶苦茶恐ろしげなお父様の背中に…。私がワトソン君なら絶対に出来ない。
「鬼丸君は」
話を振られただけでドギマギする。こんなにも緊張させられるのは桐谷先輩くらいだ。
「最近、少し雰囲気が変わった気がする」
「え?」
なにが、変わったというのか。私は何も変わっていないはずだ。対外的には。
桐谷先輩は冷たい目で私を見下ろしている。いや、先輩にはそんなつもりはないはずだ。
後ろめたい事は勿論ある。
桐谷先輩の気持ちに応えないまま近くにいること、花巻先輩を間に入れて誤魔化していること、本当の事なんか何ひとつ言えていないこと、猿河氏のこと。他にも山のようにある。
「何か、困ってはいないか?なんだかひどく心配だ」
「なーんにも…あれ?」
はぐらしついでにくるりと右足を軸にして一回転する。そして、空中におかしなものを発見した。目を凝らして、それは高速で迫り来るバレーボールだとやっと気付いた。
「危ない!鬼丸君!」
やばい、これやばいやつ。
バツン、と激しい音がして反射的に身を竦めた。めっちゃ痛……くない?勢いが無くなったボールが足元に転がり、とある予感がして恐る恐る顔を上げた。
「き、桐谷先輩…!」
私の前に立ちはだかったのは桐谷先輩だった。
先輩の顔は赤くて、つぅ…と鼻血が一筋垂れていた。そして、桐谷先輩のかけていた銀縁眼鏡は無残にもフレームが折れ曲り、やがて力なく地面に落ちた。
そう、事実はこうだ。桐谷先輩は私を庇い、顔面キャッチしたのだった。
「あ、すいませーん。こっちにバレーボール飛んで来ませんでしたか〜…ヒィイイッ!」
ボールを取りに来たであろう男子生徒が、惨状を目の当たりにして瞬時に全てを理解し怯え、勝手に土下座した。
「先輩!だ、大丈夫ですか?」
「問題ない」
「いや、問題ありまくりですから!保健室行きますよ、保健室!」
見た目の割にリアクションが薄い桐谷先輩の「問題ない」はどうしてもあてにはできないので強制的に保健室に連行することにした。全面的に私のせいだし、やっぱり放っておくことなど出来ない。
◆
「あーあ、こんな赤くなっちゃって…。眼鏡までこんなにしちゃって、レンズも割れて。先輩す、何やってるんですか。あんな時に人の前に出てきたらダメですよ?手でキャッチできるような運動神経がないなら尚更、手なんか出しちゃ」
保健室に行って処置を求めたけれど、保健の先生はアイスノンひとつ私に寄越しただけだった。仕方ないのでタオルを巻いて患部(眉間から鼻先にかけての一帯)に押し当てた。
桐谷先輩に気安く接触するのは本意ではないけど、心配なので鼻血が止まるまでは様子を見ようとは思う。誰に言い訳する必要もないけど。
「仕方ない。それでも君を守りたかったんだ」
何を言ってるんですか、何を。油断していてつい桐谷先輩の天然攻撃を喰らってしまう。
「鬼丸君が無事で良かった」
先輩のばか。本当にばか。
鼻にティッシュを詰めながらそんな台詞を吐くんじゃない。私も私でアホみたいにドキドキさせられるんじゃない。
私なんか今更いくら外傷を受けたって大した影響ないのに。寧ろ、絶対桐谷先輩の方が繊細なような気さえする。
「もう。そういうことばっかり言ってると、花巻先輩に怒られちゃいますよ?」
「なぜ花巻が?」
「桐谷先輩が無茶な事したら花巻先輩だって怒りますよ。『友達』なんだから」
そうか、と桐谷先輩はいつもの平坦な口調で答えた。何かを考えているようではあるけど、桐谷先輩の考えてうる事など私に把握できるわけない。
「なら君も友達でいてくれているんだな。こんなに心配してくれているじゃないか」
「え!?私はただ…」
私の動揺をよそに桐谷先輩は涼しい顔で鼻のティッシュを取り除き「止まったな」と一人言っている。マイペースかよ。
そういえば、桐谷先輩にバレーボールぶつけた生徒はどうしているのだろう。少なくとも今日中に何らかのフォローを入れないと恐怖と罪悪感のあまり学校に来れなくなってしまうかもしれない。目撃者も多分数人はいただろうし、今頃噂話が校内を駆け巡っている頃だろう。生徒会副会長として処理しておかなければ。その前に花巻先輩にも報告して…。
「そうだ、鬼丸君」
桐谷先輩がまた突然私に声をかける。そういえば裸眼の桐谷先輩を見るのは久しぶりだ。凛々しい目元は眼鏡が無いと爽やかな印象が勝る。コンタクトにしたらさぞやモテるだろうに。
「今日の会議なんだが…」
なぜだろう。普通の話をしようとする雰囲気は感じるのだが、心なしか桐谷先輩の顔がどんどん近付いてくる。…いや、やっぱ近い。近すぎる。
「先輩…」
折角後退りして距離感を出したのに、桐谷先輩まで私の後を追って迫り来てはなんの意味もない。猿河氏じゃないんだから、桐谷先輩が人の意思を無視してそういう行動に出るとは考え難いけどこれはちょっと。
「鬼丸君」
「!?」
しっかりとした手つきで両肩を掴まれて逃げられなくなる。一気に身体中の血液量が増えた気がした。寿命も多分三年くらい縮まった。
「先輩、ちょ、ちょっと近いですって…」
鼻先が触れそうなくらい至近距離まで近付いて堪らず顔を背けた。桐谷先輩の真っ直ぐで綺麗な目を直視なんか出来ない。しかもなぜ真顔。
私の抗議にやっと桐谷先輩はこの状況のおかしさに気付いたようで、少し目を見開いた。
「…?ああ、すまない。見えにくくてつい近付いてしまった」
見えにくくて?
…そういえば、今桐谷先輩は眼鏡を着用していない。確か前に目がかなり悪いと聞いた事がある。まさか。
「それならそうと言って下さいよ!紛らわしい!」
「…なにがだ?」
桐谷先輩は首を傾げていた。いいです、私が自意識過剰で穢れているだけですので。




