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タバコの匂いが嫌いだった。煙を嗅ぐと咳が止まらない。迷惑だった。ムカついたから、タバコを吸い出したら真冬でも窓を開けてやった。
裕美子が妊娠したから禁煙しろと言っても、奴は聞く耳持たなかった。保健体育の授業で受動喫煙の怖さは知っていたから、今回ばかりは許せなかった。タバコの箱を問答無用で捨てたし、それでも吸おうものなら水をぶっかけた。
次第に奴が帰らない日が続いた。
特に気にしなかった。半ばチンピラみたいな奴にはたまにある事だったし、家に居ない方が平和だったからだ。しかし、気付いたのだ。
『あれ、はるか君…。いたの?』
汚い。気持ち悪い。全裸の男女の吐き気を催す光景が今も目の奥に蘇る。
最初から最後まで、あいつは最低だった。
◆
ごとごと、揺れる電車の背もたれは固くてしかも座ったままだからあんな嫌な夢を見てしまった。
外は白くて、もう夜は明けたのだろう。不思議と寒くない、と思ったら肩に寄りかかっている人肌が心地良かったからだ。
「…なーにが、一人させない、だよ」
あてもなく家を飛び出した自分にこいつ、クラスメイトの女子に過ぎない鬼丸哀を巻き込んだのはただただ不本意だった。母親である裕美子に裏切られたような気持ちと、彼女の決定に納得出来ない怒りで頭がいっぱいで、先の不安も鬼丸に助けてもらいたい気持ちもなかった。ただ、鬼丸があまりに健気で絆されてしまった。たったそれだけの事だった。
変な奴だ、鬼丸哀という女子は。
男らしくもなければ愛想もない俺を好きだという変な奴。ドジで頼りなくてアホな癖に、散々俺を振り回してくる女。
そして、気がついたらすぐ隣にいるから侮れない。こんな状況になってもなぜか悲壮感が無いのはきっとこいつのせいだろう。
「……どこだ。ここ」
とにかく家から離れたくて、すぐ発車する電車に乗った。行き先は確認していない。どうせ行くあてなんかない。鬼丸は何も言わずについてきた。適当で行き当たりばったりの自分の行動を咎めたりはしなかった。
携帯には着信はない。時間は朝の5時。携帯のバッテリーは70パーセント。所持金は五千円あまり、電車をおりたらさらにこれが半分になる。
これで一体なにができよう。
幸い、というか今日は祝日だった。学校に裕美子が連絡を取るかは分からないが、今日のうちに向こうでどうにかなる事もないだろう。
『10分間の車両点検を行いますーーー』
車両内にアナウンスが流れた。
他に周りに人もいない。目の前の駅名標を見て、こんな所まで来てしまったのか、と思った。
「ねぇ」
ぼんやり人の声を聞いた。鬼丸かと思って、横の頭を見て見たがすやすや寝息を立てているだけだった。
「こっちだよ、そこの君」
いつからいたのだろうか。腰まである柔らかくゆるくうねった長い髪の少女が目の前の席にちょこんと座っていた。きっと同い年くらいだろう。
眠そうな垂れ目と大きめの口が特徴的で、どこか不思議な雰囲気だった。全く面識ないにもかかわらず、なにか直感的に引っかかる女だ。
「…何ですか?」
我ながらつっけんどんな対応だが、人見知りする性質なのだ。
「どこに行くつもり。まさか、この街になにか用事あるわけ」
「は?」
「私はただ、君とその子にこの駅で降りないでほしいだけ」
なんでそんな事を言われなきゃならないのだろう、見ず知らずの他人に。
「……意味わかんないんですけど」
ずっと真顔の少女に、(もしかして、こいつやべーやつなのか?)とも思えてきた。さすがに口や顔に出したりしないが。
「付き合っているの?」
そして、何の悪気もなさそうに聞いた。少なからず面食らった。
「いや、別に…」
答える義理はないが、反射的に否定した。
「じゃあなんでセックスしたの?」
「は?」
あまりにぶっとんだ質問に目を見開いた。
意味が全く分からないし、してない。するわけがない。ありえない。
「ふーん。君じゃないんだ」
「なんなんだよ、お前は…」
私?と少し少女は首を傾げた。
「私はモモ」
「いや別に名前を聞いた訳じゃない…」
「きっとまた会うことになると思うから」
それと、とまた自称『モモ』は付け足す。
「ひとつ忠告。その子の目を覚まさせないで」
いや、普通に起きるだろ。ずっと眠った訳じゃない。現にこの会話のせいなのか「…ん」と少し身じろぎをした。
そして、再び前を見るとモモは既にいなかった。いつの間にか時間が経っていたようで、何事もなく電車は動いた。
なんだか釈然としなかった。
◆
「犬塚君、大丈夫?寒くない?」
それから鬼丸が目を覚まして、何の気なしに見知らぬ駅に降りた。人気のない無人駅だった。なんで我ながらこんなところに。
「…平気だけど」
呆れた様子もない鬼丸にもやっとする。連れ出しておいて大変勝手だけど。
「やっぱりお前帰れ」
自分一人ならどうなろうがいいけど、女子一人分の責任を背負う事なんかできない。なにかあった時に親御さんに申し訳立たない。
「…やだよ。犬塚君を自由にどこへでも行かせたりしないんだから」
鬼丸はここへきて変な強情をはる。いつもはへらへらと適当なことばかり言っているのに。
なんでこいつはいつも…。高校に入ってからというもの妙な局面でなんだかんだと軌道修正されている気がする。
誰かに好かれるとはくすぐったい。それに応える事が出来なくても纏わりついてくる鬼丸に不思議と嫌だとは思わない。
「地獄の果てまで、ストーキングするからそこのところよろしく」
地獄の果てって…。でも、現にこんなところまで付いてきてしまっているし。
鬼丸と自分以外誰もいない。怒りで我を忘れていた頭もすっかり冷えて、本来なら絶対に話さない事をうっかり口走りそうになる。
「…最悪だろ、父親」
そうだね、と鬼丸が目を伏せながら答えた。
「裕美子も、なんであんな男と…あんなんと一緒になっても、幸せになれない事なんか分かってただろ…」
もし映画や小説みたいに過去に戻れるなら、絶対に阻止するのに。…あ。
「…俺ができたから、か…」
少し考えたら分かる、当たり前の事だ。
俺がこの世に生まれてしまったせいで、大事な人を縛り付けて苦痛を与え続けてしまう。一種の呪いに違いなかった。
「祐美ちゃんも言ってたけど、犬塚君が生まれたことが悪いなんてないよ。私、犬塚君に会えて良かったし」
鬼丸は堰を切ったように言葉を続けた。
「祐美ちゃんも不幸なんかじゃないと思うなぁ。ちょっとの間しか見てないけど、私、犬塚君の家って私の理想なんだよ」
「賑やかで明るくて、おいしいごはん、やさしいお母さん、全部、私のずっと夢に見ていた通りのおうちで」
「それで犬塚君がいたから不幸なんて、ありえないよ」
「鬼丸…」
なんだかいつもと調子が違う鬼丸に、困惑した。そんな事を思っていたなんて知らなかったし。
「犬塚君。私、もう一度祐美ちゃんにきちんと事情を聞くよ。もしそれでも、黒澤さんと一緒に居るべきじゃないと思ったら、私も再婚には反対する」
「いや、お前がそんな事をする必要ないだろ」
「私がそうしたいから。だからするの」
鬼丸がこんなにも強硬な姿勢を見せるのは初めての事だろう。
「だから、今日は帰ろうよ。なにもかも放置して投げ出せる人じゃないよね、犬塚君は。家も学校も」
「お前、ここまで来て…」
いや、鬼丸は正しかった。遠くに逃げただけで、この先ここで何をする事も出来るとは到底思わなかった。まだ子供の自分たちには。
「ここに逃げたのは間違ってないと思うよ。だって、犬塚君と私にはクールダウンする時間が必要だったし、ここで二人で誰にも聞かれず作戦会議が出来た。それでいい事にしよう」
鬼丸は笑って言った。いつもの笑顔だった。
「犬塚君がまだ居たいならいいけど、私も付き合うからね」
「……いい、帰る…」
意地を張り続けるのも、鬼丸相手には情けなく思う。そういえば意思を曲げるのは嫌いなのに、なぜか鬼丸には折られてばかりだ。
そして、結果的に良い方に引っ張られている。
鬼丸は満足そうに頷いた。
もしかしたら、鬼丸は俺が帰られるようについて来たのかもしれないと少し思った。




