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「い、犬塚君のお父さんってさぁ…」
「いない。そんなものは」
犬塚君達のお父さんについてあの状況を見て何も聞かないのは不自然だと思って質問したら、此方を一瞥もせず犬塚君が答えた。
結局、あの日あの後は犬塚君の機嫌が物凄く悪くて部外者がこのままいていいのかどうか不安だったし、猿河氏からの着信が鬼のようにあったので帰った。だから気を取り直して、日を改めて日直当番で放課後居残って日誌を書いてる犬塚君にこっそり聞いてみた。立ち入った事を聞く代わりに黒板掃除を私がやる。
「え、そんなわけないじゃん」
「じゃあ、死んだ。あれは幽霊かゾンビだ。もうこの世にいないから忘れろ」
「…さいですか」
犬塚君は口を割る気はないらしい。
何があったか分からないけど、もうこれ以上、私には犬塚家の事情について知る術がない。
「それよりお前、最近また猿河に連れ回されてるけどどうした。もういい加減追っ払ってやるか?」
「大丈夫だって…。別に嫌がらせされてる訳じゃないんだし」
「お前、それストックホルム症候群っていうんだぞ」
「スト…?ちょっと難しくて分かんない。でも、猿河氏と何も嫌で一緒にいるわけじゃないよ。ていうか、犬塚君には関係ない事じゃん」
「そうかよ」
…なんか失敗した。
全然そんなつもりなかったのに、突き放したような言い方になってしまった。今更謝る事も出来ず、犬塚君も何もそれ以上言葉を発さず変な雰囲気になる。気まずい。
どうにかしなきゃと思いながら、特に何も会話を広げられずに黒板を消し終わってしまった。犬塚君も日誌を書き終えたようで、立ち上がった。
「黒板ありがとな。俺、帰るけど鬼丸も今日来るか?」
「…行かない」
行けるわけがなかった。私の立場的に。祐美ちゃんは、犬塚君関係無しに甘えて良いと言ったけどそうもいかないだろう。
「あっそ。じゃあな」
「うん」
素っ気ない挨拶が寂しかったりもするが、これで良いとも思う。犬塚君と変なことにならずに済んで良かった。ハギっちを裏切りたくない。
全てはこれで済むはずだった。
◆
その現場を見たのはそれから間も無くだった。
ばったり遭遇したのだ。犬塚父(?)に。
凶悪面にレスラーみたいな体型で、片手に半泣きのおじさんを抱えて「おっ」とか私を見て言うのだ。なんか怖くて無視もできない。
「え、それどんな状況ですか…?」
つい聞いてしまった。
「お仕事中。おうキミ、はるか君の彼女だろ?ちょーっとおじさんとお話しする時間あるかな」
はるか君の彼女じゃないので帰ってもいいですか?
クロサワファイナンスの事務所は駅から割と近いビルの一室にある。
黒澤力康さんはその営業者らしい。
「闇金?まっさかぁ、普通の貸金業者だよ」
じゃあ、別室から聞こえるおじさんの泣き声はなんなんですか。なんかめちゃくちゃガラ悪そうなお兄さんに連れてかれてましたけど。なんでついて行ってしまったんだろう。無事に帰れる気がしない。
「わ、私をソープに沈める気ですか…!借金のカタに」
後ずさった私に、黒澤さんはぶはっと噴き出した。
「面白いねぇ、お嬢ちゃん」
わしゃわしゃと乱暴に頭を撫でられた。
ん?意外と気さくな人…?いや、やっぱ怖い。顔がリアル般若。
「鬼丸だっけ…鬼ちゃんでいっか。鬼ちゃんははるか君のカノジョなんでしょ?いいねぇ、青春だね〜。あのちんまりしたはるか君がなぁ」
「いや、彼氏じゃないです。ただのクラスメートですよ」
あれ、と黒澤さんは意外そうに頭を掻いた。
「そっかぁ、ゆーみんから聞いてた話と違うなぁ。でも仲良い事には良いんだ。普通に一緒にごはん食べてたしねぇ」
まぁ、それは色々あって…。
というか祐美ちゃん私の事までこの得体の知れないおじさんに言ってるの?
「この際なんでもいいや。鬼ちゃん、哀れなこのおじさんの為に一肌脱いでくれないかなぁ〜」
「一肌脱…やっぱりソープに…」
「いや、君みたいな子を沈めても大して儲からないし」
普通に失礼ですね。沈められても困るけど。
「まぁ、話を聞いてよ。待って、その前にちょっといい?」
黒澤さんは懐からタバコの箱を取り出して、一本吸い出した。別にタバコの煙が苦手なわけじゃないからいいけど。
話をかいつまんでまとめるとこのような内容だった。
今から5年前、黒澤さんと祐美ちゃんは離別した。
特に犬塚君が激怒しており、当時は再構築できるような状態じゃなかった。祐美ちゃんと犬塚君は県外に出て、全く離れて暮らしていた。黒澤さんは未練があったが、住所さえ教えて貰えずやっと祐美ちゃん達の所在を突き止められたのが去年の話。祐美ちゃんのお店に通い詰め口説き落として今に至る。
そして、あの日は祐美ちゃんと再婚したいという旨を犬塚君に言いに来たらしい。
「あの時お腹にいた子があんなに大きくなってたとはね。しかも双子。え?別れた理由?そりゃあ…浮気がバレた」
クズだった。正直に話してくれたけど、奥さんが妊娠中に浮気するクズだった。
「もう一度再婚したいくらい好きならなんでそんなこと…」
「嬢ちゃんには分かんないだろうけど、男は頭と下半身が別の生き物なのよ。据え膳食わぬは男の恥っていうじゃない?」
「いやいやいや…」
こんな話、あの異性関係に異様に潔癖な犬塚君が聞いたらどんな顔をするのか想像もつかない。
…ん?
あれ、もしかしてそういうこと?
「……もしや、犬塚はるか君が、その浮気現場見ちゃった、とか…」
黒澤さんは「んん?」とか言いながら首を捻り、しばらくしてどぎつい三白眼を見開いた。
「そー言えばそうだわ!ゆーみんが産気づいて病院に入院した後、女がウチに乗り込んできて仕方ないから相手して一発ヤッてたら、はるか君が何故かあの時戻ってきて…」
あ、あーあ…。
「そっからもーまともに口きいてもらえなくなっちゃってさぁ。元々、なんか知らないけど嫌われ気味だったけど。ゆーみんも浮気何度かしても怒るけど今まで許してくれてたし今回も大丈夫かと思ってたら、はるか君に知られちゃったのがだめだったらしくそっから離婚まっしぐらみたいな」
「……それ、もう絶対取り返しのつかないやつですよ」
そんな事をしでかしておいて、平気な顔で犬塚家に乗り込めるってハート強いな。
人様の親御さんをこう評するのはなかなか心苦しいが、この人ガチクズだ…。
「で、鬼ちゃんからもはるか君に是非とも再婚を認めてくれるように言ってくれないかな。ね?かわいそうなおじさんからのお願い」
「無理です」
「え?」
「無理です…」
どう考えても無理だ。私個人としても、祐美ちゃんと黒澤さんを引き合わせたくないし、そもそも犬塚君は今回の一件に関しては私の言うことに耳を貸さないだろう。
「そっかぁ、困ったなぁ」
黒澤さんは、ポマードでガチガチに固めたオールバックの頭を軽く抱えた。
「じゃあ、鬼ちゃんを人質にして家にいれてもらうしかないなぁ」
にこ、と顔に似合わず笑ったその顔が怖かった。同時に、今現在黒澤さんの所持する事務所内に自分がいる事とこの人の職業を思い出した。黒澤さんは最初から対等な交渉なんかする気がなかったのだ。




