[extra19 天使]
私には12歳以前の記憶が無い。そして、きっと記憶を失う前の私は碌な子供じゃなかった。
そうでなきゃ私はあんなに沢山の人間に恨まれる訳がなかった。
私が川に流された日、双子の姉も一緒に流されて彼女は死んだ。
病院で目を覚ました時「なんで役立たずの方が生き残ったんだ…」というお父さんの声を聞いた。私は自分の中に生まれた黒いものを感じて、もしかしたら私は姉が邪魔だったのかもしれないと思った。
それを否定出来ない証拠は何一つなかった。
その後の私は、生まれたばかりの状態といっても過言ではなかった。
言葉や常識についてのある程度の事は分かるのに、人との接し方がまるで分からなかった。
ただ本能のままに、胸に空いた穴を誰か他人で埋めようとした。そして、結局は誰にも愛される人間にはなり得ないと気付いただけだった。
罰は間も無く下った。
私が異常者で肉親を屠った疑いのある人間だという事はいつの間にか広まって、私の周囲から人間がどんどん離れていこうとした。
許しを請うて、繋ぎ止めたその手は悪魔の手だった。
心も体も、もう壊れた。
苦痛も、羞恥心も、怒りも悲しみも、もう何も枯れ果てた。そこで感傷に浸れるほど、私 にはまともな部分がない。
だから、ずっと嫌だったはずだった。
私の事を知られる事を。あの日のように、これまで築いたものが全て台無しになってしまうと分かっていたから。
全て知った上で私の事を受け入れようとする人間なんかいない。
だけど、気がついたら私は猿河氏に向かって全てを事を感情を吐きだしていた。生きている生身の人間に向かって。全てを。
「寂しい」
「うん」
「寂しい
「うん」
「寂しい」
「そうだね」
夢をみているかと思ったけれど、痛みも感覚も充分すぎるくらいにあった。
いつものように暴言を吐いて欲しかった。痛めつけるか、訳わかんないくらいに混乱させて良いように汚して欲しかった。
でも、猿河氏はそのようにはしなかった。ただ、支離滅裂な私の言う事に相槌を打っていた。時々、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった私の顔をティッシュで拭った。
「私は、クズで馬鹿で悪い子、なんだよ」
「知ってるよ」
体が熱い。それは平熱の低い自分一人だけの体温だけではないからだ。猿河氏の熱を私は奪っている。
「でもそれで誰に責められる謂れがあるの?」
「それは…」
一瞬、お父さんの顔が思い浮かんだが思いつかなかったふりをした。しかし、猿河氏は目を細めて私の顔に張り付いた髪の毛を払って言った。
「なに?言えばいいのに」
「…前から思ってたけど、猿河氏はエスパーか何かなの?」
なんでだろう。同い年なはずなのに、何かと猿河氏には私の考えている事を当てられてしまう気がする。やはり対人経験があるひとだとそういう能力に長けているものなんだろうか。
「エスパー?なんでまた」
「だ、だってなんか何か隠し思っていてもなんかお見通しみたいだから…。ていうか、なんか色んな事をゲロっちゃってるしそういう超能力者なのかな、って」
馬鹿な事を言った。けれど、本当に勢いで全て話してしまうのは私にとってあり得ない事だった。猿河氏のせいにでもしたくなる。
「そんなわけないじゃん」
おばかさん、と猿河氏は吹き出して抱き寄せた私のこめかみに唇を落とした。
「全部見通せるんなら何も苦労はないよ。でもそうだな、もし僕が言うことが哀ちゃんの考えている事を言い当てられているんなら、それは共感できる事が多いからかもね」
「共感…?」
「哀ちゃんがクズで馬鹿で悪い子なら、僕もそうだよってこと。同類だからこんなに一緒にいて居心地が良い」
そんな。目の前のこんなキラキラした人間が?
「さ、猿河氏は、もっと自分に自信持ちなよ」
「それ、哀ちゃんには言われたくないけどね」
やっと決壊して溢れ出た色んなものが落ち着いたと思ったら、徐にひっくり返されうつ伏せにされた。ゆっくりと背中にかかる体重に恐怖を感じたが、耳元でごにょごにょ囁かれると力が入らなくなってしまった。やっぱりエスパーなのかな。
「…ぅ…」
「まだ痛い?それとも苦しい?」
「ひどいよ、猿河氏…」
「喋っていいよ。気が紛れるんでしょ。…まぁ、返事はしてやれないかもしれないけど」
さっきよりは一応手加減はしてくれているのだろうとは分かるけど、布地と頭が擦れて口を動かしにくい。
「私は、天使に、なりたいの」
唐突にただ頭に浮かんだ事を口にした。
「天使?」
「この世界の、ひと全てを、幸せにできる天使。神様みたいな、大きな、力はないけど、誰からもっ……必要とされるっ、天使」
背中を噛まれた。猿河氏の返事はないが、(そんなものになれる訳ないだろ)という意思が伝わった。
「なるよ、今は出来なくても」
また肩甲骨を噛まれた。羽根を毟るように。
天使になりたい。人間でいるのは辛すぎる。だから自分の事は何ひとつ考えなくて済む、天使になりたいのだ。
そうしたら、私は人の幸せのために生きていける。人を助けて何の見返りも求めずに済む。私は良い天使になって、誰からも愛される。私はやっと価値を手にする。
「猿河氏だって、救うのにっ…」
猿河氏は私の背中を噛み続ける。多分、背中は歯型だらけだ。酷すぎる。
「なれないよ」
「…ん…」
「天使なんかに、させない。あんたはずーーっと、惨めで浅ましい人間のままだ。それで、死ぬまで僕の隣にいるんだよ」
ばっさりと切り落としながら、猿河氏は私の腰を思いっきり抱き締めた。痛い、苦しい。だけど温かい。今だけだ。今だけそれを嬉しいと素直に思う。それ以上は…。
それ以上は
「ぁ…」
いけない、とは分かっているのに。




