07:
猿河君は本当にひどい。
ほんにひどい男やで…。あないな男をなぜ過去の私は聖人などと評したのか。
奴隷生活三日目。
「ぐぬぬ…」
図書館にて、一人呻き声を出す私。
数学の問題集を前に頭をかかえる。とっくの前に答えは見たが数字だけしか書いてない。
私の宿題ではない。猿河君のだ。
ていうか先生が違うから問題集も違うし、授業速度も違う。今やってる範囲はまるきり未知だ。分からない…分からないんだよ…。
これくらい自分でやれってんだ。
猿河氏から昼休みに「今日実行委員入っちゃってさー、君暇でしょ?ならこれやってくれる?」と渡されたノートと問題集。私が氏の宿題をやったら意味がないだろ、そもそも自分の勉強もままならないんだよ!と抗議したのに、「奴隷の分際でたてついてんじゃないよ。まぁ、やりたくないなら別にいいけどそれ相応の手段は取らせてもらうよ」というありがたいお言葉をいただいた。そして、今に至る。
数学と英語の予習。英語はさっき辞書を片手に単語を調べまくり、多少意味の不明な文章もあるがなんとか1レッスンを訳し終えた。問題は数学である。か、確率分からない…。場合の数って⁉︎順列⁉︎円順列⁉︎組み合わせ⁇しかも文章題ばっかりだし。手も足も出ないとはこのことだ。これ、分からないってことで空白のまま提出しちゃだめかなぁ。確実にぶちのめされるだろうなぁ。
はああ、と溜息をついてノートに頭を伏せるとだんだん瞼が重くなってくる。
なんか知らないけど図書館って眠くなる。ちょっと薄暗いから?紙の匂い?いいや、少しだけ寝よう。その方が頭冴えるかもしれないし。うつらうつらといい感じになった時、いきなり頭に衝撃。
「なにサボってんの」
猿河氏だった。
そして今、頭にチョップかましたのも氏だった。ていうか痛いぞ!君は手加減というものを知らんのか。
ていうか。
「こっここ、人前っ!話しかけてこないで下さいっ」
言うとなんともいえない顔をして私を見返す猿河君。
「あんたは本当に自分の保身のことしか考えてないよねぇ」
いいよ、その身勝手さ~。という言葉とは裏腹に勝手に私の髪を握って脅しをかけてくる。や、止めろよ…それ痛いんだぞ。
「安心しなよ、こんな図書館の奥にしかも放課後だし見てないよ。杉田さん達も問題ないよ。だって何のために実行委員になったと思ってるの?」
「えぇ…」
まさか実行委員を口実に人払いしたんだろうか。こんな人をなんでいい人だと信じていたんだろう。
「まぁ、それはいいや。ちょっとこれ」
目の前に置かれた大きな紙袋。
中にはたくさんの筒が入っている。なんぞこれ…。
「学祭のポスター、商店街に貼ってもらうやつ」
「へー」
「へー、じゃないよ。あんたがやるんだよ」
「えぇっ?!なんで」
思わず立ち上がってしまった。その拍子に椅子ががターンと音を出して倒れた。うるさいよ、と涼しい顔で猿河君。
「逆になんで哀ちゃんがいるのに僕がやらなきゃいけないの」
聞きました?完全なるゲス男ですよ、この人…。
そうです、私たちの関係は奴隷とその主人。私に拒否権なんてないんだった。
そして私はでかい段ボールを抱えながら、商店街に寄るハメに。もちろん猿河君はついて来ない。
これリストだからと渡されたお店の数実に20。これ今日中に終わるのか…?
うちの街の商店街は、学校からほどよく遠い。バスに乗ろうとしたら学生の下校ラッシュに巻き込まれもみくちゃになって座ることもできずでかい紙袋を抱えてたので色んな人に迷惑そうな顔をされながら、やっとこさ着いたのだった。
それで早速リストにあるお店を探してポスターを貼らせてもらうようお願いする。確か商店街って5時で閉まっちゃうんだよなぁ。
「じゃあよろしくお願いします!ご貴重なお時間ありがとうございました」
「いえいえ、頑張ってね~」
唯一救いなのはお店の人がいい人ばっかりなことだ。
全然こういうのに慣れてない私があわあわしてるのを見ても「ああ、今年もだね」って快く引き受けてくれた。猿河君の仕打ち後に触れた人の優しさでちょっと泣きそうになってしまった。
気付けばポスターも残り10本。
やった、あと少しで終わる!とテンションが上がってきた私の鼻面にぽつりと当たった何か。
「冷たっ」
見上げた灰色の空。厚ぼったい雲。
これはもしかして…雨。
え、マジで?
天気予報は…見てなかったからしらんけどぉ!傘なんて持ってないよ私!
どどどうしよう…。紙って一番だめじゃんかよ。
腕でポスターを庇う。しかし、当たり前の事だが隙間は埋まらない。
どんどん雨粒が大きくなって、たくさん落ちてくる。
頭皮に冷たい雨が当たって染みてくる。
「ひぃいい…!」
商店街には残念ながら屋根がかかってない。
近くに雨宿りできそうなものがない。なにぶん田舎なものでそんなに都合のいい場所にコンビニやらはない。木の下にでも入ろうかと思ったが、悲しいかな街路樹の枝はスカスカだ。とても防ぎきれない。
どっかのお店に入らせてもらおうか、とも思ったがこういう時に限ってシャッターばっかりの通りに入ってしまっている。
だめだ、やっぱり戻ってさっきの文房具店に戻って雨宿りさせてもらおう。雨がいつ止むかはわからないけどこのままここにいるのは無理だろう。
「ぎゃあああっ」
踵を返して走って移動した途端、体がついて行かなかったのか転けた。からんからんと鈍い音でポスターが袋から溢れる。膝小僧がじくじく痛む。
「う、うぅ…」
むき出しになったポスターにまずいと思って立ち上がる。
手を伸ばした瞬間影がさす。同時に雨が止んだ。
「おろ?」
「なにをしてるの、お馬鹿さん」
びっくりした。ただもう純粋にびっくりした。
「猿河氏、なんでここに…?」
そうなのだ。帰ったはずの猿河君がなぜか目の前にいる。しかも傘をさして、それを私の方に向けている。
「どうせこんな事だろうと思って来ちゃったんだよ」
「そ、そうなん?」
「ていうか!!」
「え?」
めちゃくちゃ不満そうに眉根を寄せる猿河君にどうしたのだろうと膝をついたままその顔を覗き込む。
「なに真面目にポスター配ってんの」
「は?」
そんなことを言われてもしろって言ったの猿河君じゃないか。ちょっと意味が分からないんですけど。
「だってあんたがやる事じゃないでしょ。何言われたとおりにへこへこ従ってんの。これだって宿題だって。パンも!なに大人しく奴隷なんて阿呆らしいことやっちゃってるの。なに、やっぱり僕に気でもあるのあんた。つーか、早くそれ拾って!水が染みちゃう」
「えっ、あっハイ…」
言われるままにポスターを全部拾って立ち上がる。よし、とまだ不満顔のまま氏が小さく頷く。
「じゃあ行くよ」
「え、どこに?」
その質問に答えずに、ふんと鼻を鳴らして猿河氏は口角を僅かに上げてみせた。
◆
「ちょっとォ、まだ開店前よぉ。入ってもらったら困るわよぉ」
紫髪の厚化粧のオネエさんがカウンターにやってきてびっくりする。えっと、そのスパンコールたっぷりの服、素敵です。
連れられて入ってきたのは商店街の外れにあるお化けの出そうなビルの中に入っている怪しげなお店。
その名も「スナックパブ 富士子」
店内の天井にはどでかいミラーボール。照明は全部ピンク。おおう、派手だ…。
「ちょっと雨宿りさせてもらうだけだよ、頼むよフジコちゃん」
やっぱりこの人がオーナーなのかな。カウンターに立ってるし。
あらぁ、とフジコちゃんなる人が声をあげる。真っ赤な口紅と口元の黒子がマリリンモンローみたいで色っぽい。
「どうもぉ初めまして、フジコでぇす!ここのママやってまーす」
「鬼丸哀です。よ、よろしくお願いします」
声はやはり野太…いや雄々しくて素敵です。むき出しの二の腕が逞しいフジコさん。
いやそれよりもっと大きな問題がある。
明らかにここお酒出す系のお店じゃないか。世でいうバーとかいう類の。
「さ、猿河氏、なんで…未成年なのにこんなお店に…?」
氏の制服の裾を引っ張って小声で聞くと、両手を上げて肩を竦めまたアメリカナイズなポージングをする。
「なにいってんの、ここ別に普通の喫茶店だよ。ちょっとマスターに女装趣味があるだけの」
「そうそう、うちは至って健全な店よ?やらしいこともお触りも禁止してるし、アコギな商売も一切しておりません。ちなみにあたし自身も改造を行ってないは純連潔白なカラダよぉ、上も下も~」
普通の喫茶店にそんなに酒瓶が並んでるわけないですし。
店長が改造とかしないですし…。
「まぁ深く詮索はしないでよ。ここは哀ちゃんが思ってるような危ない所じゃないから心配しないで」
「そうよぉ~、修ちゃんのお友達なら別にとって食いはしないから」
そう言ってフジコさんは私の前にグラスを出す。
緑の炭酸水にバニラアイスが乗っかってるメロンフロートだった。
「当店からのサービスよん」
いい人だ…!めっちゃいい人。
夢中になってアイス部分を食べてると、あんたよく単純って言われない?と呆れ顔の猿河君が頬杖をついていた。い、言われるけどさぁ…。
「馬鹿だね」
「ばっ…あぁん?」
あんたがメンチ切ったところで全然怖かねーんだよぶぁああか、と吐き捨て頬杖をついてそっぽを向いた。
「何にも考えないで言われるまま損な事しちゃってさ。おかしいって思わないわけ?なんでくっそ真面目に仕事やってんの。まさかと思って来てみたらわざわざこんなところまで来てポスターちまちま配ってるんだもん。あげく雨に打たれて転んでさ。しかも何その膝。あぁ、フジコちゃんこの子に絆創膏とかあげて」
そうなのだ。転んだ拍子に膝小僧を擦りむいてしまった。もうそんなに痛みはないけど自分自身でもちょっと引いてしまうほど血が出てきて、猿河氏にもらったハンカチもかなりえぐみのある感じに仕上がってしまった。どうしよ、これ。
「いや大丈夫ですよ、血も止まってるんで」
「あっらー、ばっくりいっちゃったじゃない。まずお消毒しちゃいましょうか」
店の奥から救急箱を出しててきたフジコちゃんが手際よく私の膝に処置をしてくれた。優しい。
「ありがとうございます!!」
「これくらい気にしないで~。でも女の子はもっと自分の体を大事にしないとだめよォ」
「本当だよ。そんなボロ雑巾みたいにぼろぼろになって何やってんの。ばっかみたい」
「うーん、猿河君には言われたくないなぁ」
ぽかっと脚を蹴られた。猿河君がこんなことするから言われたくないんだよ。
「私は猿河君のいうことがちょっと、いやかなり分かんないです。やれって言ったりやるなって言ったり正直意味不明です。どうすればいいのか困る」
深緑の光彩がだけがきょろりと此方に向く。
「僕は確かにやれって言ったよ。でも普通やらないじゃんって話。その分だときっと僕のことも誰にも言ってないんでしょ」
「え、なにそれ。言って欲しかったの?本性はナルシストかつ根性チョココロネだって?」
「なわけないじゃん。何言ってんの。ていうかなにその言い草」
「あだだ…ほっぺたを抓んといてください」
「僕が言いたいのは、普通ここまでされたら嫌気さすじゃん。だって理不尽でしょ。ペナルティに制裁してもらうっていっても僕への不信感が広がってしまったら元も子もないんだし。それを何まともに受けてるの、馬鹿じゃないの。まさかマゾなの」
違う違う、と首を振る。手をやっと離してくれた猿河君が肩を小さく竦める。
「そこまで考えてたらなんでこんなことするの。私がそんなに気に入らなかった?」
「あー、全然気に入らないね。そもそもさぁ、なんでそんなに僕と普通に接するの。普通に喋れるの。だって君は失敗作の僕を見たじゃん」
「失敗作?」
「失敗作だよ。あんなの、だって僕にふさわしくない。自分が誰より大好きなのも、こんな口をきくのも他人にこんなことをやらせるのも全く僕らしくない」
猿河君がさも忌々しげに吐き捨てる。険しい顔は誰より自分に怒っているのかもしれない。
変な人だな、猿河王子。
私はこんなことをこんなに真面目な顔で言う人を初めて見た。
普段の私ならここで引き下がっていたかもしれない。でも、なんだかそうしたくはない気分だった。
「そうかなぁ。私はこれが猿河君の地だと思うよ。たぶん自分を過大評価しすぎなんじゃないかな。
猿河君は全然完璧な王子様なんかじゃないよ。自意識過剰で自己中で暴力的で口が悪いただのおしゃべりイケメンなんだよ」
「は…なにその言い草」
呆然とした風の猿河君がちょっと面白かった。
「いいキャラだし、それでもいいんじゃない?まぁ、無理にさらけ出す必要もないと思うけど」
とうとう猿河氏、無言になる。
流石に私も偉そうだったかもしれない。そうだよなぁ、ほぼ面と向かって悪口を言っているに等しい状況だもんなぁ。
しばらく沈黙が続いて、罪悪感ゲージがマックスになった所で一回謝ろうと口を開こうとした。
が、猿河君が席を立つのがワンテンポ早かった。
「帰る」
それだけ言って止める間もなくさっさと出て行ってしまった。
やっぱ相当怒ってしまったのかなぁ。明日謝って許してくれるかなぁ。
「ごめんねぇ、あの子、美男子だけどかなり面倒くさい子なのよ」
それまで何も喋らなかったフジコちゃんが急に口を開いた。腰をくねくねさせ、物憂げに頬に右手を添える。
「確かに…」
でも悪い子じゃないのよ?とフジコちゃんが付け加える。
うん、悪人じゃないんだろうなとは分かっている。根性がねじ曲がっているだけで。
「あれ、あなたに腹が立ったわけでもないのよ。だから明日学校では忘れたふりでもしちゃってちょうだい」
「そうなんですか?」
おそらくねぇ、とフフッと笑ってみせる。
「やっと無防備な自分を見つけてくれた人に会ってどうすればいいかわかんなくなくなってるだけなんじゃないかしら。修ちゃんは今あなたと心のぶつかり稽古がしたくてうずうずしてるのよ」
「え、ぶつかり稽古?相撲?」
「そうよ~、だから哀ちゃん。今はどーんと修ちゃんの前では構えていてあげてるのよ。それで、いつか修ちゃんがまわしを締めて土俵に上がってきたら全力で相手をしてあげて。それが修ちゃんと仲良くなるためのアドバイス」
「は、はぁ…」
猿河君と相撲って。体格とか力の差的に私すぐ負けそうだなぁ。
冷たいメロンソーダに喉の奥がひりひりする。
フジコちゃんの話を聞きながら、私は猿河君にどう向き合いたいんだろうと考えていた。




