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祐美ちゃんが盲腸で入院したのを教えてくれたのは、目の下に隈を作った犬塚君だった。
「いきなり救急車で運ばれて即入院だからチビ達がギャン泣きで、興奮しすぎで全然寝ねーしおねしょはするわ二人で質問責めしてくるしで参った…」
祐美ちゃんの体の方が心配なのは勿論のこと、輝君と昴君のお世話疲れか犬塚君があまりにげっそりしていたので、私もついポロっと口走ってしまったのだ。
「大丈夫?私でよければ、なんか手伝う?」
しまった、と思った。
犬塚君にはあまり近づかないようにするつもりだったのに。譲るとか言ってしまった手前、罪悪感に苛まれた。
「頼む。お前がいれば助かる。真面目に」
そして犬塚君もこんな時ばかり素直に答えてしまう。
い、いや入院一週間だけだし…誤差の範囲…ただ一週間犬塚家にまた入り浸るくらい。それにこのガード激固男である犬塚君相手にどうにかなるわけがない。
◆
一旦家に帰って着替え等準備した後、二人で幼稚園に迎えに行った。確かに、輝君と昴君は犬塚君の言う通りかなり不安定になっているようだった。
いつもなら元気いっぱいにタックルしてくるのだけど、今日はめそめそ泣きながら近寄ってきて抱きしめてやると全力でしがみついてきた。
「おに〜お母さんが死んじゃう〜…」
えぐえぐと2人の暖かな体液で私のブレザーが湿っていく。よりよし、と頭を撫でて「大丈夫だよ」と繰り返し唱える。
「祐美ちゃんはスーパーお母さんだから絶対死なないよ。今ちょっと体の中に出来物ができたから取っただけですぐ良くなるよ。皆で祐美ちゃんのお見舞い行こう」
そうだぞ、と後ろの犬塚君が答える。
「早く行かないと面会時間終わっちまう。裕美子に会いたいならちゃんと自分の足で立って歩け」
しかし、仔チワワ達は私からしがみついて離れない。
「おにー…」
うるうるしたお目目で此方を見上げる。
私はそれに逆らえない。犬塚君は叱ろうとしたが、私は今日ばかりは忍びなくて折れた。
「お前ら鬼丸に甘えすぎだ。なにやってんだ4歳にもなって赤ん坊みたいに」
昴君を背負いながら、犬塚君が溜め息を吐いた。同じく、私の背中には輝君が乗っている。よ、4歳児ってやっぱり見た目によらず結構な重量あるな…と思いながらも顔に出さないようにして「大丈夫だって。今日くらい甘えたっていいよ」と答える。
「大丈夫って…無理すんな。お前の限界は大体分かってるんだから」
ふーーーん、とそんな犬塚君の小言を聞き流してなんとか自分の脳と体を騙し騙し病院についた。
市内の総合病院の大部屋に、裕美ちゃんはいた。
「あ、来てくれたの?嬉しい」
さすがお母さん。
祐美ちゃんの姿を見つけるなり輝君と昴君がものすごい早さで飛びついていった。さっきまでちょっと痛いくらい私の体を掴んでいたのに。
「鬼ちゃんもごめんねぇ。なんかすごく大袈裟な事になっちゃって…」
祐美ちゃんがいつもと限りなく同じようにケロッと笑っているので私も少なからず安心した。
「ううん、大丈夫。祐美ちゃんもゆっくり休んで元気になってね」
「家の事は大丈夫だから安心しろ。あと、欲しいものあったら連絡しろ」
ぶっきらぼうに言い捨てながら、せっせと着替えやタオルを手際よく棚にしまっている犬塚君もなんだかんだですごく心配していたんだなとよく分かった。
「えへへ、なんかそうしてると鬼ちゃんとはるか君って夫婦みたいだよね。部屋に入った時から思ってたけど」
ぽわぽわと祐美ちゃんが漏らした言葉に「あほか」と犬塚君が直ぐにツッコんだので私はホッと胸を撫で下ろした。のも、束の間。間髪入れずに祐美ちゃんの追撃が来る。
「えーだってお嫁さんに来るなら鬼ちゃんみたいな子がいいなぁ。だめ?鬼ちゃん、ウチのはるか君とは結婚したくない?」
「えっ、えーと…」
いつもの祐美ちゃんの軽口だ。分かっているのだ、そんな事は。動揺なんかしちゃだめた。なのに、まんまと心を取り乱す自分が嫌だ。
「やめろ。心細くなったのは分かったから困らせんな」
犬塚君が代わりに話を収束させて、祐美ちゃんが不満げに口を尖らせた。「これだから男の子はー」とか文句を言っている。
ああ、死ぬかと思った。
面会時間があっと言う間に終わって後ろ髪を引かれるように病院を後にした後は、帰宅した。犬塚家に。
時間も遅くなってしまったので犬塚家の夕食はコンビニで適当に買った惣菜だ。
「なんか負けた気がする…」と最後まで犬塚君は抵抗していたが、私がゴリ押ししたのだ。
だって犬塚君自身も肉体的にも精神的にも随分疲れていたようだったから。多分本人は気付いていない。いつも通りにしながら、疲労が溜まって犬塚君まで再起不能になってしまうパターンだ。犬塚君まで倒れたら、輝君と昴君は一体どうすればいいんだよ。
祐美ちゃんがいないだけで、この有様…。犬塚家やばいぞ、となんだか見ていられなかったのだ。犬塚君並びに犬塚家には随分とお世話になっている。だから、今回くらい恩返ししてもバチは当たらないよね。
輝君と昴君を寝かしつけ、今度は犬塚君を無理矢理にでも布団に押し込んだ。
「寝るんだ!家事とか勉強とかいいから!とにかく休むんだよ!」
「わ、分かったから!ドサクサに紛れて変なとこ触んなや」
私は何も悪い事をしていない。これはやむを得ない事態だから。何の下心もない。ハギっちを裏切ってなんかない。
『うそ』
暗闇の中で、ゼロが嗤う。
『うそつき。本当は誰にも譲りたくないくせに』
息をひそめて何も答えないでいると、助長したゼロがますます勝手な事を囀る。1人で耳を塞いでみても、なぜか全部聞こえてしまう。
『哀のものなのに。折角見つけたのに、居場所も価値もやっと。それなのに、なんで他人と被ったら諦める必要があるの』
違う。そんな事なんか思ってない。私は、
『嫌だ。離れたくない。戻りたくない。だって、そんな事をしたら』
友達に信用されたい。仲間だと認められたい。敵だと思われたくない。そうでないと私は生きてけない。
「ひとりぼっちになんか、なりたくない」
声に出てしまって口を塞いだ。違う。違うのだ。これは私の言葉なんかじゃない。
ゼロの口角が上がった唇が首筋に触れた。死人みたいに冷たい手が私の腕を掴んだ。長くうねった髪が顔に当たった。
『そうだよ、哀。そうなんだよ。それでいいの。もう我慢する必要なんかないのよ。罰ならもう充分受けたから』
ゼロがどんどん生き物になっていくのを止められなくて、怯える事しか出来ない。
どうしよう。彼女は存在しちゃいけないのに。駄目だ。もうこれ以上、命を与えてはいけないのだ。
『どうせ何も覚えてないんだから仕方ないよ。私たちの欲しいもの、何だって手に入れたって良いんだよ』
冷たい身体に包まれたような気がして、反射的に目を瞑った。
しない。私はしない。欲望のままに、誰かを手に入れようとなんかしない。絶対に。




