06:
それは紛れもなく猿河君だった。
もしくは睫毛の一本の角度さえ同じような他人。そんなのいたら気持ち悪いけど。
「さ、猿河君…」
猿河君はにっこりと口端を吊り上げて顎を少ししゃくってみせる。
「なにか?囀りたい事でもあるなら聞いてあげないこともないよ」
猿河修司君。
彼とはそんな話したことはなかったしまだ入学して二カ月も経ってないけれど、学校の有名人でハーフでイケメンで優しくて、何の綻びを晒してこなかったような人だった。
誰もが自分の理想に彼を重ねていた。
「猿川君はあの、ナ、ナルシストの人だったんだねぇ…は、ははは」
ナルシスト:ナルシシスト(自己愛を呈する人)のこと。
自分の身体や容貌に異常なまでの愛着を感じたり、性的な対象と見なす傾向にある人。日本においては「うぬぼれ」の意味で使われることが多い。
もちろん今回私が言ったのも、後者のニュアンスである。
「なに笑ってんの」
ぴしりと空気が瞬間冷凍する。
私の大きく開いた口も、親不知らずを露出させたままフリーズドライ。
その顎をむんずと猿川君が掴み、縦方向に潰され左右に揺さぶられる。その様子はまるで恐喝するヤの人である。
「そうですよ、ナルシストですよ?毎日鏡の前に5時間以上はいるし、自撮りが趣味だし、一日にかっこいいって言われた回数を数えてますが、何か。自分が大好きで悪いですか。ナルシストだと駄目ですか、犯罪ですか、法律に抵触しますか。え?」
質問されたのに、固定されたままぎこちなく首を振る。
だよね!と何故か急に激昂した猿川君にもう戸惑いしか覚えない。
ぱっと手を離しその掌を天井に向け、アメリカナイズな仕草。
「だって僕は美しいから!イケメン中のイケメン。完全無欠の超パーフェクト美青年。皆、僕の事好きでしょ、なら別に僕が僕を好きで何の問題がある?」
いっそ清々しいほどのナルシスズム。がらがら音をたてて猿河君のイメージが崩れていく。
あと猿河君は感情が昂ると一人称が僕になるらしい。
「さしあたって問題はないかと…」
「そうだよねぇ」
はっ、と白く光る歯を見せた猿河君に、私も笑ってみせる。その途端にまた顎と頬をギリギリと容赦ない力で掴まれた。
「だから笑ってるんじゃないよ」
「ひ、ひゃい…」
私だって笑いたくて笑ったわけじゃないやい。
「君にはやられたよ。なに?なんでこの時間にいるの、最初から狙ってたの?かなり質が悪いストーカーさん?」
「ちがいまふ…」
すべて偶然です。ちょっと自意識過剰じゃないですか、とはこの状況下では言えないけど。
「何、何が望み?」
「え?」
猿河君は眉ひとつ動かさない真顔。
「僕に何をしてほしい?だからわざわざこんなにタイミングを計ってたんじゃない?僕もぺらぺら触れ回れたら困るし。ほら、この糞狭い島国じゃあんまり褒められた事じゃないでしょ。こんなに完璧な僕にそれだけの事で傷がつけられるのは勿体無いし、悲しむ人も大勢いるだろうし」
「は、はぁ…」
「何でもいいよ。キスでもハグでも、なんなら彼女にしてあげてもいい」
「はっ!?いいです、いいです。そんなの」
「そんなのって…君みたいなのにそんな言われようされると腹立つことこの上ないよね」
にこにこと微笑みながら頬肉を潰す力が強まる。さっきから気になってたんだけど、そのサドっ気はなに。女の子扱いとかまるで違う星の慣習みたいに。
このままじゃ顔が潰れてしまうと必死になって猿川君の手から逃れると、1メートル程度の距離を取る。すると意外とあっさり離れられる。
「そうじゃなくて!私は誰にも言わないですし、別に多少ナルシストでも何でもいいと思いますよ。面白いし」
「面白い?」
「面白いよ!ただのイケメンじゃなく、面白イケメンだよ。ナルシストもそうだし、猫を取っ払ったその、性格とか。すごい口も達者だし、表情筋も凄…ふごっ!」
不意に食らった顔面に掌底。ばっつんってすごい音がしたんですけど。
「馬鹿にしてる?馬鹿にしてるでしょ」
結構距離あるのでまさか届くとは。腕が長い自慢か。
「言わないってゆわれても信じられないよ。だって君口軽そうだもの」
確かに軽いか重いかと言われたら軽い方だけれども。それでも他人を貶める発言はしないようにしているつもりだ。
「君、名前は?」
「1Bのおにまるです」
「鬼退治の鬼に、丸焼きの丸?珍しい名前だね。女の子なのに」
「いやそれ苗字です。あと例えが物騒で怖いです…」
「名前教えてって言ったよね。こういう時フルネームで言わない?苗字言われても君の親族とか該当しちゃうじゃない。僕、面識のない人を罵倒する趣味はないから」
「罵倒する前提なんだ…あと、少し考え過ぎじゃ」
「いいから、名前。言わないなら勝手に渾名つけるよ?『卑しい豚』と『汚らわしい豚』どっちがいい?」
「あいです…喜怒哀楽の哀」
「哀ねぇ。へぇー、哀ちゃんねー」
にやにや顎を撫でて何やら思案顔。この流れから、もう嫌な予感しかしない。
「哀ちゃん。君さぁ、僕の奴隷ね」
「はぁっ…⁈」
◆
猿河君の言い分はこうである。
私を管理する必要がある、と。ただ一二度会話したくらいじゃ私の人間性が分からないから信用できない。そこで暫く私を観察させてほしい。さらに、観察ついでに色々手伝ってほしい。というか掻い摘んで言うと何でも言う事を聞けということらしい。また、信用置けないので主導権など諸々の権利は猿河君に持たせ優位に立たせてもらいたいと。つまり奴隷になれと。
そんなんじゃ築ける信頼も築けない。と、勿論私も抗議した。
しかし、この話を呑まないと親衛隊に売った上に周囲の人に私に貶められたと言いふらして最終的には学校にいれなくさせてやると氏が脅してきた。
当時のことを思い出して、つい奥歯を噛み締めてしまう。
深く息を吐いて拳を固く握りしめた。そして、持っていたカレーパンを潰してしまった。
やばいと思って形を整えてみたが完全に中身の三分の一が漏れ出ててかなりグロテスクな物体になっていた。
昼休みの第二理科室は誰もいない。
穴場でしょ、と得意げな猿河君の顔が思い浮かぶようだった。
確かに人気はない。しかし一階の奥という難儀な場所にあることや、骨格標本とかよく分からん科学者の白黒写真や謎の物体のオイル漬け的なものが棚に所狭しと置かれている教室で誰が好き好んでお昼を食べようというのか。
朝、学校に来たら玄関前の学生掲示板に小さなメモが貼ってあった。
カレーパン買ってきて、と走り書きされた紙の左下にはSSのイニシャル。画鋲を剥がして裏を見てみると、第二理科室・昼休みと書かれていた。間違いなく猿河君の仕業だった。
なるほど手下ってそういうことか。
ていうか自分で行けよ、それくらい。昼の購買はいっつも混んでて大変なんだ。人で人でもみくちゃになるし、売り子のおばあちゃんは耳が遠いから大声で注文しなきゃならないしそれでも三分の一の確率で全く別のものが出てくるし。だから私はいままで弁当派だったのだ。家の近所でお弁当を買ってまで購買を避けていたのに。
「嫌がらせかよ、あの猿男…」
「誰が猿男?」
がらりと背後の戸が開いて、ぎょっとする。
言うまでもない、猿河修司氏である。
「その言い方やめてくれない?僕が猿顔みたいじゃない。よく見て猿要素ないでしょ、この完璧美男子フェイスに。ていうか君の方がお猿さんみたいな顔してるじゃないか」
自分で美男子ゆーな。
猿河君は抜け目なく私の脛を蹴ってから、目の前の椅子に座る。それから零コンマ一秒の速さで「カレーパンは?」と聞いてきた。
「はい、どうぞ…」
「うわっ何この臓物」
リアル臓物なら貴方の後ろにありますけど。
氏は袋から取り出してしげしげとカレーパンを興味深げに見つめた。
「ねぇ、お金あげるから新しく買ってきてくれない?」
「無理だよ、それ最後の一個だったんだもん」
言うとはぁあああとこれ見よがしに溜息を吐かれた。
「驚いた。予想以上に使えない子だったんだね、君」
私もあなたの口汚さに昨日から驚きっぱなしです。本当に猫を被ってたんだなぁ。
「これ、君が食べなよ。僕がその弁当食べてあげるから」
「えっ嫌ですよ」
不穏な発言に弁当を死守しようとしたが、猿河君の腕が長すぎた。あっという間に掻っ攫われてしまう。あ"ー!と叫ぶ私の目の前でのり弁でたった一つ入っている唐揚げをぱくりと美味しそうに食べた。
「これに懲りたら次はまともに買ってくることだね」
いやいや私が悪いみたいな言い方してるけど、最初からパシらなきゃいいだけの話だからね。
でも何か言ったら十倍言い返されそうだから止めて大人しく臓物パンを食べることにした。中身は普通にカレーだし。
ほんと王子がこんな人だったなんて返すがえすもショックだ。
「あ、何か飲み物買ってきてくれる?」
暫く大人しくもぐもぐしていた猿河君がそんなことを言いだした。
「えっやだよ。自分に行ってきなよ」
「僕が行ったら杉田さん達に見つかるでしょ。せっかく撒いたのに」
「え、撒いた…?どうやって…」
「ひ、み、つ」
人差し指を唇に当てた猿河君につい口角がひくついてしまう。
確かにイケメンだ。けど腹立つ。
「じゃあ買ってきますから…いろはすでいいっすか」
「みかん味ね」
結局私が折れて飲み物を買ってくることになってしまった。
ちくしょう、本当にこれじゃあパシリじゃないか。
なんだあの人。弱みを握っているのは私の方なんだぞ。昨日の今日で殆ど初対面の私にこの扱いだぞ。奴隷だぞ。
自転車借してくれた時はすごくいい人だと思ったのに。
蓋を開けてみれば暴言は吐くしすぐ手も足も出るし自意識過剰のひどい人間性。
それを表面上全く匂わせなかったのは逆に凄いよ。その分すごいストレス抱えそうで全くよくやると思う。
購買部はもう人が殆ど消えていて、購買のおばさんたちも後片付けをしたりしている。
なので特に何の問題もなく自販機で飲み物を購入できた。
しかし猿河君のと自分のを買ってさっさと戻ろうとした時、何かに弾かれた。緩んだ手元からペットボトルがごろごろと転がってしまった。それを追いかけようと手を伸ばしていたら不思議なことにすぐペットボトルが戻ってきた。
いきなり超能力に目覚めた…わけではないもちろん。
「すまない、大丈夫か」
耳に届いたのは人口音声のように起伏の少ない低い声。
顔をあげると一人の銀縁眼鏡をかけた男子がいた。
白い怜悧な顔が印象的で、一瞬で取っ付きにくそうな人だと分かった。
「あ…はい。ごめんなさい」
手渡されたペットボトルを受け取る。
そのとき触れた指先の冷たさにどきりとした。
「いい、此方に落ち度がある。少し考え事をして反応が遅れた。しかし君もこれからはもう少し前方に注意を向けるといい」
話している間、能面のように表情が動かない。
これって怒っているのか。この人怒ってる?激おこ?
「あ、あの…」
「何だ」
やはり憮然としたように見えるその態度。
しかし言葉にして私を責めようとする気はないらしい。
「い…以後、気をつけます」
言うと本当に気のせいかもしれないが張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ気がした。
「是非そうしてくれ。ああそれから、万が一ペットボトルが破損していたら弁償をするから来るといい」
「はぁ…」
「2-Aの桐谷といえば恐らくは会えるから。それか放課後と昼休みはこの生徒会室にいることが多いな」
振り返ったドアには「生徒会執行部」と書かれた大きな立札が飾ってあった。
そうか、この人ここから出てきたのか。
そして先輩だったのか。よかった、いきなりタメ口とかきかないで…。
「では僕はこれで失礼する」
桐谷先輩はそのまま立ち去っていった。
一人取り残された私は手渡されたペットボトルをじっと見つめながら、あの人どっかで見たことがあるなぁ…と考えていた。
名前もなんか聞いたことあったし、ていうかついこの前にも見かけた気が…。
入学式…新入生歓迎会…朝会…校内新聞…?
「あっ会長!」
そうだ、うちの学校の現役生徒会長だ。
確かすごい人らしいので記憶にうっすらと残っている。
頭がすごく良くて将来医学部も余裕の学力だとか、家がお金持ちで学校にものすごい額の寄付をしているとか。そういう噂を聞いたことがある。
すごい人と会話しちゃったなぁ、と何だか得した気分で第二理科室に戻ると「遅い」と猿河君がむくれていた。




