あと少し
君がゆっくり落ちていくのを、僕は見ていた。あるいは君が知らない男に首を絞められるのを。
何度も何度も、君は僕の前で死んでいく。
小ぶりなナイフや包丁が君を貫いたり、大きなトラックに君が潰されたり、君が自分から列車に飛び込んでいったり。
僕はそのたびに手を伸ばす。もう少し、あと少し、届かない。君の涙だけがその手に触れて、指先が温かく湿った。
荒い息と共に目を覚ます。僕はとっさに携帯電話を手繰り寄せた。電話帳を開くまでもなく正確に覚えている番号。それを打ち込んで耳にあてる。
もしもし、と彼女の眠たそうな声が聞こえた。こんな夜更けにどうしたの、と。
君が何度も死ぬ夢を見たから、とはさすがに言えない。
「いや……あいつは今、いる?」
いないけど、と少しふて腐れた声。
「あいつとは上手くいってるの?」
少しの沈黙ののち、喧嘩中、とだけ彼女は言った。僕は少し呆れる。
「今度はなんで」
彼女はあいつへの文句を並べ立てた。いつもと同じようなことだ。でも結局は、寂しいとかもっと会いたいとか、自分だけを見ていてほしいとか、愛しさの裏返しだ。
僕は少しだけ考えた。
「じゃあ、さ……」
なに?と彼女の声。
ここで君に想いを伝えれば、なにかが変わるのだろうか。
なによ、と急かすように彼女が言う。
「……あいつに伝えておいて。早く金返せって」
なに、あの人いくら借りてるの、と驚いたように言う彼女。その言葉に少しだけ胸が痛んだ。いくら貸してるの?ではなくいくら借りてるの、か。わかってはいるけど苦しい、あちら側の彼女の言葉。
「それから、あいつに言っておいてほしいんだけど。明日、楽器屋の前で待ってるから久々に会わないか、って」
なんで私が、と憤慨する彼女。
「君も来るからだよ」
彼女は黙った。それから、わかったと呟く。
「おやすみ」
うん、おやすみ。
その一言だけ録音して聴きたいな、と思うほどに艶やかな声だった。
僕達は楽器屋で待ち合わせて、気まずそうなあいつと彼女を僕は引っ張り回した。楽しい話をして、あいつと彼女も思わず噴き出してしまうような話をして、友達同士の雰囲気になってきたころ、僕は席を外した。
戻ると、照れ臭そうな顔の彼女が、ちょっと化粧なおしてくる、なんて言って席を外した。
あいつが僕に、ありがとと耳打ちする。いつものことだ。僕はそれに、しょうがないなと肩をすくめる。それもいつものこと。
お前も彼女も、あまりに純粋だから嫌いだ。
そうは言えない。決して。
店を出ると、自販機でなにか買ってくるとあいつが言うから、僕は彼女と待っていた。ほら、と思う。
ほら、安心しきって僕と彼女を二人きりにするだろ。安心しきって僕と二人きりになるだろ。だからさ、だめなんだ。そういうところが放っておけないんだ。あいつも彼女も。
ありがとね、と彼女が僕に耳打ちする。本当にお似合いな二人だな、と僕は自嘲気味に笑った。
君もあいつも、あまりに純粋だから大好きだ。
これも言えない。永遠に。
僕は帰るよと彼女に言う。これもお決まりのパターンだ。あいつはどこの自販機まで行っているのか、まだ帰ってきていない。
彼女は一応引き留めるけど、僕が午後から忙しいからと言うとすぐに引き下がった。
あいつに謝っておいてと言い残し、僕は歩き出した。
僕は別れ際に見た彼女の笑顔をずっと思い浮かべる。わくわくするような、子供のような笑み。
不意に立ち止まる。
あの笑顔は、ちょうど夢の中の七番目の彼女と同じだったな。
僕は愕然とした。それから、振り向いて踏み出す。
あいつはなにをしてるんだ。彼女はまだ一人でいるのか。
あれはただの夢だろう。ただの夢に振り回されるなんてバカげてる。でも、夢の中の僕も、そう思ってた。
もう少し、あと少し、届かない?
息を切らして走る。怯える彼女が見えてきた。僕は一段と速く走った。
黒いフードの下の、生気のない瞳。銀色に光る小ぶりなナイフ。ああやっぱり七番目だ。そう思った瞬間に、黒いフードが赤く染まった。
僕は自分の脇腹に突き立てられたナイフを見て、少し笑った。
「やっと、届いた」
それは、僕の最初で最後の、身勝手だった。
『君』と『あいつ』がこれからどうなるかを書かない身勝手な作者の小説。