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あなたがいなくても

 あなたがいなくても、朝の目覚ましはちゃんと鳴る。

 昨日夜食で食べずにおいたプリンアラモードもちゃんと冷蔵庫に入ったままになっている。メロンとさくらんぼと、オレンジと生クリームが乗ってるコンビニのだけどちょっと高いやつ。

 あなたがいなくても、太陽は地平線から顔を出す。

 天気予報では今日も猛暑日になるので熱中症に気をつけて、と綺麗なおねえさんが画面の向こうからにこにこと笑いかけてくれる。

 朝ご飯にプリンアラモード。

 は、やめておいて買っておいた食パンをトースターに突っ込む。

 カロリーオフのマーガリンも買ってある。そこにマーマレードをぬって、贅沢な朝ご飯にしようかと思う。それとも目玉焼きを両面焼いて、ちぎったレタスにからしマヨネーズとハムも乗せてオープンサンド。考えてるうちにお湯が沸いて、カフェオレなんか入れてみたりして、なんで猛暑日になるなんていってるのに熱い飲み物、とうっかり氷を突っ込んでみたりして、味を薄めてしまって後悔したり。

 あなたがいなくても、化粧はちゃんとする。

 会社に行かなきゃなんないし。

 化粧水は安いのに替えてたっぷり使うようにしたし、美容液は美白効果の高いのにしたし、もちろん日焼け止めも忘れない、それはあなたに関係のない話で、あたしが自分自身のためにやることで。

 普段のあたしにあなたは関係ない。

 あなたがいなくてもご飯を食べてお化粧をして、電車に揺られて会社に行って、バリバリと仕事をしたりできる。時々疲れて机に隠してあるチョコレートを食べるけど。

 恋なんて。

 本当はしないほうが、心は平穏。

 余計なひと言を眠れないほど後悔することもないし。

 笑顔の裏を探ってしまって息が詰まったりもしない。

 あなたの周りに嫉妬することもないし、あなたの言葉を疑うこともない。

 恋なんて。

 面倒くさくて。

 恋なんて。

 無駄な浪費。

 自分の時間も相手の時間も、お金も心も気持ちも夜も。みんな無駄に消費されてく気がしてならない。

 それなのに。

 あたし、どうして泣いてるの?


 強がりの朝は気弱な夜を引っ張ってくる。そしてそれはそもそも気詰まりな夜から繋がっている。

 恋人の言葉の裏をひっくり返してじろじろ眺めて、本当に本当にあたしのこと好きなの、なんて恨みがましくじっとり言ってしまったりしたのは連日連夜の暑さのせいで、でもそんなことをいちいち説明したりはしないから八つ当たりなんてことは相手にもちろん伝わったりしない。

 好きなの、って聞いて。

 好きだよ、って答えられても。

 そうですかそうですか、ってにっこり笑ってそこで話が終わるわけでもなくって、じゃあどこが好き、とか、どんな風に好き、とか、奥さんより好き、とか。聞いてしまって。慌てて口をつぐんでも、発してしまった言葉は消えなくてくれたりしなくて、高梨さんの顔をあたしは見られない。

 十八才年上の、あたしの恋人。

 奥さんと小さな息子を所有する、少したれ目でヒゲなんか生やしちゃってるのにあどけない顔をしていたりする人。

「奥さんより好き、って言われたい?」

「……いじわる」

 言われたいに決まってる。

 誰かと比べて好き、とか言われるくらいじゃ足りない、女なんて世界で一番お前が好き、って言われたって全然納得しない、欲しいのはもっと貪欲な言葉、なりたいのはあなたの最後の女。

 なんて、クサイことを考えてしまうのは、あたしがより本気だから。

 それが、悔しい。

 言葉なんて不確かなものに縋り付かざるを得ないほど。

 好き。

 なんて。

「高梨さんなんかいなくても、あたしは平気」

「おお、強気だけどあれだ、子供の反撃みたいだ」

「あたしは若いもん」

「若いのと子供なのは違う」

「高梨さんに対する嫌味なんだから、そこはもっと傷付いて」

「俺、別に自分が四十なの恥じてないもん」

「ずるい」

「なにが」

「高梨さんはいつも平気な顔してて」

「お前の攻撃くらい、予測可能だもん」

「傷付いてよ」

「なんでだよ」

 あたしの存在に。

 傷付いて欲しい。

 高梨さんはあたしにキスマークを残すことができる、濃く青い痕も、浅く淡い赤い痕も。花を咲かせるようにあたしの胸に、腕に、お腹に、太ももに。だけどあたしは彼の肌に証拠を残せない、ふたりで会っていた夜は欠片ももらしてはいけない。

 次の夜を取り付けるために。

「傷付いて」

「痛いのは苦手なんだけどな」

 ざっくりと心に爪を立てて深く深くあたしを刻みたい、あたしに会えない夜を嘆くように思い出すように肌の色も匂いも涙の温度も唇の味も。忘れられたくない、いつもどこかに必ずあたしの影を探してしまうように、あたしが高梨さんの影を探してしまうように。

「ずるい」

「なんだよ」

「高梨さんばっかり、ずるい」

「年取っててか、悪いな」

「そうじゃなくて」

「当たり前だ、冗談だ」

「そのすました顔が腹立つ」

「悪かったな、お前なんだ、生理か」

「生理じゃないよ」

「そうだな、生理じゃできないな」

「血まみれの女なんて抱けないんでしょ?」

「いや、そういう趣味はないけど別に抱けるぞ」

「嘘吐き」

「嘘じゃないって」

「嘘吐きだもん」

「嘘じゃない。お前、可愛いな」

「なっ、なに……、」

 言葉に詰まって、あたしの負け。

 本当は、あなたなんていなくてもまったく平気で問題はなくて、って顔をしていたいのに。

 不倫なんて不毛だとか相手の奥さんのことを考えろだとか、そりゃいろいろ言われて立場は悪いことは分かってる、なんて言うかバカヤロウ。不毛がなんだそんなんだったら最初から恋なんてしないほうがいい、恋なんてどんな形であれ不毛の塊で、相手が結婚していようがいなかろうが所有しようと思った時点で誰かは傷付いていたりする、欲しい、という人間が常にひとりとは限らない。どこかで誰かが諦めたりしている、自分の気持ちを誤魔化したりしている、でも誤魔化せる恋ってなんだろう。そんなのは、最初からなかったのと同じのような気がしてしまうのに。

 あたしは高梨さんに傷を残したい。

 致命傷になりそうな、ひどい傷。

 胸を大きく裂いて血をたくさん流して、どんな薬も利かなくて死ぬことすらできなくて、だって相手のことを想っているから。死んだら会えなくなる、それくらいなら不死になったほうがまだマシ。そんなことを真剣に考えてしまうくらいの。

 あたしが持つ、高梨さんが与えたのと同じだけの傷を。

 高梨さんの腕が伸びる、あたしの頭、髪にすべり込ませるようにしてぐしゃぐしゃにかき混ぜる。撫でられてあたしは猫になったように目を細めて、そして、強く思う。好き。強く。強く、強く。好き。高梨さんが、好き。

 その腕が。

 その指先が。

 その目が。

 その唇が。

 その身体が。

 その声が。

 好き。

 好き。

 好き。

 あなたがいなくても平気になりたいのに、あたしの心は彼で満ちてしまう。ぎゅうぎゅうに、ぱんぱんに。呼吸を忘れる。誰もあたしを助けられない、溺れるあたしを誰も引き上げられない。

 高梨さんの、あたしを撫でる手がそのままつるりと顔へと下りる。頬を撫でられて、顎をつかまれて、親指だけで名残惜しそうに頬を撫で続ける。

 ごろごろと。

 喉を鳴らしたらあたしがあなたをどれだけ好きか、きちんと伝わる?

 あたしの存在に、高梨さんがもっと泣けばいいのに。

 会えない夜に、身悶えて苦しめばいいのに。

 すれ違ったシャンプーの匂いに、思わず振り返ってどうして今手を繋いでいたりしないんだろうって途方に暮れればいいのに。

 手。

 そう、手。

「手」

「手?」

「繋いで?」

「手、を?」

 うん、と頷いた。高梨さんは唇の端でにっこり笑って、あたしをくるりと裏返す。意地悪で手を繋いでくれないのかしら、と、むっとしていたら、肩に覆いかぶさるようにして抱きついてきた。

 てのひらで、手の甲を包まれる。

 温度の高い身体の、熱がじんわりとあたしに伝わる。

「手」

「女って、手を繋ぐの好きな」

「嫌いな人もいるんじゃない?」

「なんで?」

「あたしに聞かないでよ」

「手を繋ぐと幸せな気分になるのに」

 本気で心外、という声があたしの耳を後ろからくすぐる。それで、つい笑ってしまった。

「あたし、高梨さんがいなくても平気」

「お、なんだ唐突に」

「に、なりたいんだけど、ちょっとまだ無理そう」

「俺なんかいなくても平気にはなって欲しいけど、本音を言えば俺に依存してて欲しいなぁ」

「べったり?」

「いや、精神的に。落ち込んでも苦しくても死にたくなっても、俺のこと思い出すと『あたしあとちょっとだけ頑張るわ……!』って思ってくれる感じで」

 あたしあと……のところでひっくり返った裏声を出すから、あたしはもう笑い転げたくて仕方がない。

「本気で依存されたら困るくせに」

「おう」

「奥さんと別れてあたしと結婚して! とか言われたら逃げ出すくせに」

「逃げ出さないさ、懇懇と結婚しない理由を説明する」

「ひどい」

「ひどくない、俺はお前と一生恋人でいたい」

 ものすごく自分勝手なことをさらりと甘えた声で言うこの人は、どんな大人なんだろう。

 あたしは手を振りほどいて、高梨さんに向き合う。ちょっと睨むような、ちょっとにやにやするような、そんな気持ちで。

 あたしはこの人と別れることがあるのなら、そのときはあたしから言いたい。高梨さんはどんなにあたしのことが要らなくなっても、絶対に捨てちゃいけない。なんて、言っておきたい気もするけど、そんなのは時間が経たないと分からない。

 いつか別れるかもしれないと思って人と付き合うことは、いいことなんだろうか、悪いことなんだろうか。

 あたしには分からない。

「呆れた。高梨さんってばお子様」

「俺、お子様だもん」

「お子様もお子様、すっっっごいお子様」

「大人なんか不倫したりしないよ」

 急に真面目な、だけど優しい口調になって、高梨さんは低く言う。それでひどく淋しい気持ちにさせられたのは、悔しいから絶対に言わない。

 子供だから欲しい欲しいで我慢できなくて、誰かが傷付くのも気が付かない振りして手を出しちゃうんだよ、と。低い声のせいでなんだかとってもいいことを言われているような錯覚に陥るけど、ほんとうはちっともいいことなんか言ってない。むしろ逆。真逆。

 それでも。

 あたしは彼が好きで。

 恋なんて所詮熱病のひとつでしかないのだ、と言ったのは誰だっただろう。それは本当に正しい。うんと。本当に。ものすごく、正しい。

 熱病だから、いつか熱が引く。

 身体から悪いものを追い出して。

 そうしたら、きっと病気にかかっていたことなんてけろりと忘れて、振り返ったりもしないんだろう。ずっとずっと後になってから、懐かしく思い出したり、似たような熱病にかかった人へ自分の過去を話したりすることがあったとしても。

 だけど、熱病で死んでしまうことだってある。

 恋は、命がけだ。

 命をかけない恋なんて、なんの意味もない。

 魂を失くすのではなかったとしても、心が死ぬ。つらい恋に。切ない恋に。心は傷付く。心と心がぶつかり合って、なんのダメージも与え合わない、なんにも残らない、そんな関係だったらそれを、恋と呼んではいけない。

 骨は一度折ったら繋がった時に前よりずっと強くなる。

 心も、傷付いたらそこからまた立ち直った時、以前よりずっとずっと強くなっている。はず。

「高梨さんがいなくても平気」

「そんな淋しいこと言うなよ」

「いなくても、平気になりたい」

「俺が役立たずみたいだな」

「役立たず?」

「お前の人生において。いらないものみたい」

「……こんなにあたしの人生引っ掻き回しておいて、いらないものなんて言われたら。あたしにいるものはあたしの命くらい簡単に持ってっちゃいそう」

 好きよ。

 好き。

 あたしと高梨さんの関係に、意味がないとは思わない。

 この状態で、このタイミングで出会ったことに、どこか必ずきちんと、意味はあるはずだから。

「あたしに溺れて?」

「もう、ずぶずぶ。これ以上は窒息する」

 じゃあ窒息して。あたしはにっこり笑う。高梨さんにしか見せないスペシャルな笑顔で。

 唇を重ねて、息を止めて、このまま世界が止まったらいいのに、なんて思っていたときもあったけど、今はもったいないからそんなことは思わない。

「……なに?」

 甘い甘い高梨さんの声が唇の上でとける。とろける。

 あたしが泣くのは彼のことでだし、その涙をぬぐうのもまた彼だから。

「あたしの愛は高梨さんに全部あげるよ」

「……ありがと」

 今は、あなたがいる世界ばかりが色付いて幸せでありますように。

 あなたといる世界がいつか壊れる日がくるとしても、その日がずっとずっと何万光年も遠い未来でありますように。

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