プロローグ 幻影の少女
重い鉛色の雲が垂れこめている。降りしきる白い霧雨。さながらベールのようにそれは地上を覆っていた。世界は昏く、昼過ぎにしてすでに真夜中のような趣がある。なんともどんよりとして、嫌な日和であった。
そんな灰色の中にぽっかりと浮かぶ、いっそ異様なまでに白い建物。市立昭和記念病院と呼ばれるその無機質な建物の一室で、一人の少女が死に瀕していた。その細く華奢な身体に巻きつけられた布団に、一人の少年がしがみついている。少年の名は式原修。瀕死の少女こと氷雨瀬名の幼馴染だった。
「瀬名ちゃん、死んじゃ嫌だよ! 嫌だあああ!」
轟く悲鳴。修の小さな喉は裂けんばかりに震えて、悲しさを、薄い胸に渦巻く怒りを伝えようとする。彼は崩れ落ちそうになる身体を生ぬるい布団で支えながら、ひたすらに叫び続けた。
――どうして彼女が死ななければならないんだ!――
そんなどこにもぶつけようのない、やるせない思いを心に抱きながら。
そうしてひたすらに叫ぶ修の後ろに、二人の男が立っていた。一人はまだ青年と呼べそうな若々しい男。もう一人は、頭に白いものが混じった紳士然とした男。その二人はいずれも陰鬱な顔を伏せるように下に向け、ぼそりぼそりと声を漏らす。その様子はもうすでに通夜のようだった。
「先生、娘さんはもう……」
「じきに迎えが来るよ。伝手をたどってさまざまな延命治療を施してみたが、もはや限界のようだ」
「先生……」
先生と呼ばれた男、氷雨孝雄はもう何も答えなかった。代わりにギシリと鈍い歯ぎしりの音が聞こえる。若い男はそれだけで孝雄の心中を察して余りあった。彼自身、息子の誕生と同時に妻をなくしていた。お互いに通じ合える何かが間違いなく二人にはある。
そうして二人がひっそりと話を終えた時。それは起きた。運命のいたずら、または神の与えた最後のひとときか。そのどちらなのかはわからぬが、とにかくそれは起きた。
「……ううッ……」
「瀬名ちゃん!」
薄く開かれた瞼、漏れ出た声。大人たちが目を丸くする中、修はあわてて瀬名の枕元へと顔を近づけた。するとその薄い唇がほんのわずかにだが笑みを浮かべる。
「修君……」
「なに、瀬名ちゃん」
「私もう死んじゃうんだ……。自分でもわかるの」
「そ、そんなことないよ! お医者さんの言う通りにしてれば、ずっと生きられるよ」
「無理だよ。自分のことだもん、自分が一番よくわかるよ。だから最後に言わせて……」
瀬名の声はもう小さな虫の声ほどにしか聞こえなかった。修は彼女の口元に顔を寄せると、最後の言葉を聞き逃すまいとする。
「……私ね、修君のことが…………ずっと好きだった」
突き出された唇が修の頬に当たった。とても温かく心地よかった。その熱い感触に、修はびっくりしたように瀬名の顔を見る。だがその顔はどこかおかしかった。明らかに何かが先ほどまでとは違っていた。
修にはその何かがよくわからなかった。だが、隣で心電図を眺めていた医者が至極無機質な口調で告げた。
「ご臨終です」
いやによく響いた死亡宣告。その直後、少年の狂ったような絶叫が病室に響き渡った――。
☆☆☆☆☆
夕暮れに染まりゆく田舎町。広がる田んぼは黄金の波に揺れ、水面が輝く。遠い山の端には朧月が見えて夜は間近だ。まばらな家々の窓には次々と灯りが点っていき、町はその装いを変えていく。
そんな町の真っただ中を、一人の少年が駈け抜けて行った。修だ。彼は黒曜の瞳を光らせながら、碌に舗装もされてない田舎道をすっ飛んで行く。彼はそのままの勢いで自宅の扉を開けると、大声で叫んだ。
「ただいま! 父さんは!?」
「おかえり……」
いつも元気に帰ってくるはずの叔母の声。それが今日は、なんだか元気がなかった。修はとっさに何か嫌なものを感じる。叔母に元気がないのはいつも不幸なことの知らせだった。
「叔母さん、何かあったの?」
「実はね、お父さん……。お仕事の都合で帰ってこれなくなったらしいんだ」
修の手からカバンが落ちた。瞳から光が失せる。さらに彼の肩が怒れる獅子のたてがみのように、フルフルと小刻みに震え始めた。
「そんな……なんでだよ! 今度こそ、今度こそ帰るって言ったじゃないか!」
「お父さんの仕事は忙しいのよ……。わかってあげて、ね?」
「わかるもんか! だいたい父さんは、どんな仕事をやってるのかすら僕には教えてくれないんだ!」
叔母は言葉に詰まった。修の父である光一は、恩師の孝雄とともに七年前に勤めていた大学を辞めて以来、妹の彼女にすら何をしていたのか教えていない。光一の仕事については彼女も心配していることで、それについて突っ込まれると辛かった。ゆえに、普段なら立て板に水の要領で言葉を紡ぎ出す彼女もなかなか言い返すことができない。かろうじて「とにかく、落ち着きなさい……」と弱弱しく言えただけだった。
修はその言葉を軽く聞き流した。彼はくるりと踵を返すと、夢遊病のようにおぼつかない足取りで玄関へと歩いて行く。
「待ちなさい! どこへ行くつもり!」
「……ちょっと出かけてくる」
修の眼は冷たかった。一瞬、その奥に吸い込まれそうになった叔母は背筋を冷やす。
「出かけるってどこに!? もう夜になるわよ!」
「ほっといてよ」
「しゅ、修!」
叔母の声など、もはや聞こえなかった。修は薄暗闇の中に飛び出すとひたすらに駆けてゆく。どこへ行こう、などというあてはない。無我夢中で、足の赴くままただ走るのみだ。頭の中を渦巻く熱情と、身体を沸騰させるようなやり場のない思い。これらを少しでも冷ますために――。
修はそうしてしばらく走り続けた。そして冷静に戻った時には、すでにかなりの時が過ぎていた。月は山々を越えて遥か空高い場所に昇っている。これほど長い間、何をしていたのか。彼にはほとんど記憶がなかったが、不思議と気は晴れていた。彼はフウと荒れた息を落ちつかせると、家路を歩こうとする。気がつかないうちに、彼は家を遠く離れて町外れの神社まで来てしまっていた。
とぼとぼと家へと歩み始める足。だがそれは数歩も行かないうちに止まった。修の視線が、驚いたように神社の前の巨大な楠に向けられる。彼の頭の中を、不意に映画のように美しい過去の映像が流れた。それは遠い遠い過去の日、まだ小さかった彼が幼馴染の瀬名とこの楠で遊んでいる映像だった。
「何年振りだろう。瀬名が入院する前のことだったっけ……」
修は目を閉じると両手を広げ、楠に抱きつく。木に温度などないはずなのに、楠は母のような暖かさで抱擁に応じた。修は自身の細い腕には到底収まらない逞しい幹に身体をこすり付ける。たまらなく懐かしい匂いがした。もう忘れ去ったと思っていた、春風のような少女の匂いがした。
――瀬名、もう一度君に会いたいよ……――。
修の目に涙が光る。ぽろり、ぽろり。後から後から溢れる滴は、たちまち地面をぬらしていった。彼は木にすがりつくようにして膝をつく。あのころに戻りたかった。父も孝雄のおじさんも、そして瀬名も、みんなが幸せにしていたあのころに彼は戻りたかった……。
涙に歪んだ視界を、白い服が横切る。そのシルエットに、修は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。あり得ないはずだった。そんな姿をした「少女」はすでに存在してはいけないはずだった。
「もしかして……瀬名なの? ねえ、君は瀬名なの?」
少女の影は不意に動きを止めた。月光の下、どこか見慣れない制服のような服がはらりと揺れる。だが彼女は修に背を向けると、逃げるようにして森へと走り出した。白い服が、瀬名が、何処とも知れぬ闇の中に消えて行こうとする。
「待って逃げないで! もうどこにも行かないで!」
もう二度と逃すものか! 強烈な思いが彼を奮い立たせた。涙を腕で乱暴にぬぐいさり、疲れて鉛のようになった足を精神で動かす。何もない異境にでも放り出されたかのような絶対的孤独、それを味わいたくない一心で彼は再び走り出した。
枯れ枝を踏み越え、森を突き抜けて少女と修は走る。うっそうと茂る森は暗いけれど空には明るい月があった。今宵は月が満ちるとき、灯りなど持たなくとも田舎暮らしの修には白い少女を視界にとらえることなど容易だ。されどそれは少女とて同じようで、暗闇の間を白い影はするりするりと抜けていく。修はそれを捕まえようと、必死に足に鞭を打つ。二人の追いかけっこは何かに取りつかれたかのように際限なく続いていった。
そうしているうちに木々はまばらになってきた。修の視界がどんどんと開けていき、左側に絶壁が現れる。絶壁の先には町があった。数は少ないけれど家々の灯りが闇に浮かび、星座のような形を描いている。修が一瞬、銀河の中に来たような錯覚を覚えるほどそれは美しく幻想的な風景だった。
崖の端、再び森に入る場所で白い影は止まった。くるりと背中が反転する。月影を思わせる、儚げで整った顔が修の前に現れた。同じだった。成長してだいぶ大人っぽくなっているが、その顔は死んだ瀬名とほとんど同じだった。
「瀬名……。本当に瀬名なんだね……!!」
「私の名前は確かにセナ……。でも、あなたの言う瀬名とはきっと違うの」
「ど、どういうこと? それじゃあ君は誰なんだよ」
「私は幻影のようなもの。それにもうすぐこの世界から消えて……」
少女の言葉はそこで途切れた。彼女の足もと、いやあたり一面に巨大な光の魔法陣が現れたのだ。魔法陣は修とセナの足のそれぞれを中心として、際限なく広がっていく。野に、森に、空に。白い光に輝く幾何学模様が幾重にも重なり合いながら、次々と大輪の華を咲かせる。風光明美な田舎の風景は一転して、奇怪な光のアートと化してしまった。
「まずい! このままではあなたまで!」
これまでとは違い、必死の形相を見せる少女。彼女はそう叫ぶや否や、あっという間に幾千、幾万もの燐光に分解されてしまった。光は雪のように空へと溶ける。修はそのおぞましい光景を見て、悲鳴をあげそうになった。だが上げられなかった。彼もまた、光になってしまったのだ――。




