第6話「寮の夜、あるいは全員集合」
問題は入学から十日目に起きた。
原因は単純だった。上級生だった。
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夕食後の中庭で、エルフィーナとカイが魔力操作の自主練をしていた。レオンはその傍らで課題の写本をしていた。ミレーユはエルフィーナの隣に座って魔法書を読んでいた。正確にはエルフィーナを眺めていたが、それはいつものことだった。
三年生が四人やってきた。
全員が貴族の子弟で、その中の一人、金髪の長身の男が先頭に立っていた。アロイス・フォン・クロイツェル。伯爵家の嫡男で、学院内では「上位貴族の代弁者」として振る舞うことで知られていた。
アロイスの視線がカイに向いた。
「平民が中庭を使うな。邪魔だ」
カイの顔が強張った。言い返す言葉を探している顔だった。
レオンは写本から目を上げた。
エルフィーナはカイへの指導を止めて、アロイスを見た。
「なぜですか」
平坦な声だった。怒りでも媚びでもなく、純粋な疑問だった。
アロイスがエルフィーナを見た。黒髪の令嬢が誰かを認識して、一瞬だけ表情が変わった。しかしすぐに戻った。
「アルカディアの令嬢か。婚約者が王太子だからといって、平民と連むのは感心しないな」
「質問に答えていただいていません。なぜ中庭を使ってはいけないのですか」
「上位貴族の慣例だ」
「学院の規則ではないということですね」
「慣例は規則より重い場合がある」
「そうですか」
エルフィーナは少し考えた。
「では私が慣例を変えます。今後この中庭はカイも使います」
アロイスの顔が赤くなった。
「何を言っている。お前は」
「おかしいですか。カイは魔法の才能がある。才能がある者が稽古をするのは当然です。身分は関係ない」
「関係ないわけがないだろう」
「強さに身分は関係ありません」
断言だった。
アロイスが一歩踏み出した。その後ろの三人も動いた。
レオンは立ち上がりかけた。
カイが先に動いた。
エルフィーナの前に出た。小柄な体を張って、四人と向き合った。
「俺のことは俺が決めます」
声が少し震えていた。しかし足は動かなかった。
アロイスがカイを見下ろした。
「平民が」
「平民でも才能があれば入学できる学院です。俺は正当に入学しました」
「生意気な」
アロイスが手を上げた。
エルフィーナがカイの肩を掴んで、後ろに下げた。
同時に前に出た。
アロイスの手がエルフィーナの肩に触れた。
次の瞬間、アロイスは地面に膝をついていた。
何が起きたかレオンには見えなかった。エルフィーナが動いた、という事実だけがあった。
エルフィーナはアロイスを見下ろした。声は静かだった。
「手を上げるのは構いません。ただし相手を選んでください。カイには触れさせません」
アロイスは顔を上げた。屈辱と、それを上回る何かが混ざった顔だった。
「……覚えていろ」
「はい」
エルフィーナは真剣に頷いた。覚えておくという意味で。
アロイスたちが去った。
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カイがエルフィーナを見た。
「……守ってもらいました」
「邪魔をした」
「え」
「カイが自分で解決しようとしていた。横取りした形になった。申し訳なかった」
カイは目を丸くした。
「いや、助かりましたけど」
「次は自分でやれ。今より強くなれば必ずできる」
カイはしばらくエルフィーナを見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない。稽古を続けろ」
カイが顔を上げた時、その目が少し光っていた。
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その夜、談話室にレオン、ミレーユ、カイの三人が集まった。
「今日のこと、広まりますかね」
カイが言った。
「広まります」レオンは即答した。「アロイス・フォン・クロイツェルを一瞬で地面に沈めた、という話は明日には全校に届きます」
「それは……」
「カイさんへの不当な扱いも、変わると思います」レオンは続けた。「姉上が一度動いたとなれば、手を出す者は減る」
「……俺のせいで、エルフィーナさんを面倒に巻き込んでしまった」
「姉上は面倒とは思っていません」
「なんで言い切れるんですか」
「才能がある者が稽古できない状況を、姉上は純粋に不合理だと思っています。カイのためというより、強さへの侮辱として許せないんです」
カイはしばらく黙っていた。
「……それでも、俺のために動いてくれた」
「ええ」
「絶対に強くなります」
ミレーユがお茶を置いた。
「カイさん、エルフィーナ様のこと、どう思いますか」
「どうって……すごい人だと思います。強くて、まっすぐで、身分で人を見ない」
「それだけですか」
カイは少し考えた。それから、耳が赤くなった。
「……それだけじゃ、ないかもしれないです」
ミレーユは静かに笑った。
「私もそうです。ずっとそうです」
「ミレーユ様も……」
「わかってます。わかってて、諦められない」
カイはミレーユを見た。それからレオンを見た。
「レオン様は」
レオンはお茶を飲んだ。
「……私は姉の弟です」
「それは答えになってないですよ」
「答えられることと、答えられないことがあります」
談話室が静かになった。
三人それぞれが、同じ方向を向いていた。エルフィーナの部屋がある方角だった。
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翌朝、中庭でシグルトがエルフィーナを待っていた。
朝の素振りが終わった頃合いを狙ったような登場だった。護衛を二人だけ連れて、さりげなく現れた。さりげなくという体裁だったが、明らかに計算していた。
レオンは縁側から見ていた。
「エルフィーナ、昨日の件を聞いた」
「アロイス・クロイツェルの件ですか」
「ああ。処置は適切だったと思う。クロイツェル家には俺から話をしておく」
「ありがとうございます。ただ、カイへの不当な扱いが続くようであれば、私が直接対処します」
「……それは穏やかではないな」
「穏やかに対処します。倒すだけです」
シグルトは少し間を置いた。
「それを穏やかとは言わないと思うが」
「では何と言うのですか」
「……いや、いい」
シグルトは懐から小さな包みを取り出した。
「これを」
「何ですか」
「滋養強壮の携帯食だ。王宮の料理人が作った。稽古の後に食べるといい。消化がいい」
エルフィーナは包みを受け取った。開けた。中身を確認した。
「……殿下、これは」
「口に合わなければ遠慮なく言ってくれ。別のものを用意する」
「そういう意味ではなく」
エルフィーナはシグルトを見た。
「なぜ私の好みがわかったのですか。花でも宝飾品でもなく、これを選んだ理由が」
シグルトは一瞬だけ目を逸らした。
「……情報収集は得意だ」
「誰かに聞きましたか」
「企業秘密だ」
エルフィーナはしばらく考えた。
「ありがとうございます。いただきます」
その場で一つ食べた。
シグルトの表情が僅かに緩んだ。護衛の一人が小さくガッツポーズをしていた。
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その日の夕方、廊下でシグルトとレオンが鉢合わせした。
「レオン」
「殿下」
「カイ・ヴェルナーという生徒がいる」
「知っています」
「昨日の件で、あの少年がエルフィーナへの感情を持ち始めているとの話が来た」
レオンは少し考えた。
「……殿下の耳は早いですね」
「焦る必要はないと思っている。ただ」
「ただ?」
シグルトは静かに笑った。
「面白くなってきた」
レオンはその横顔を見た。
王太子が平民の少年を競争相手として認識している。それ自体が異常な事態だったが、この学院では全てが異常だった。
「殿下、一つだけ申し上げていいですか」
「何だ」
「カイも、ミレーユ様も、私も、それぞれの形で姉上を向いています。それでも殿下が一番近い位置にいる。婚約者ですから」
「わかっている」
「ただし姉上はその近さに、これっぽっちも気づいていません」
シグルトはしばらく黙った。
「……それでも、だ」
「ええ、わかっています」
二人は同時に前を向いた。
廊下の先から、エルフィーナの「明日の稽古は何時からか」という声が聞こえた。
いつも通りだった。




