第5話「魔法授業、あるいは教官が泣いた日」
魔法理論の授業は午前中に行われた。
担当教官はエルネスト・ファウル。三十代半ば、細身の眼鏡をかけた神経質そうな男だった。魔法理論の権威で、王立学院に来る前は王宮付きの魔法師だったと聞いていた。
レオンは席に着きながら、今日こそは平和な授業になるかもしれないと思った。
魔法ならば姉も本職だ。アルカディア魔法名家の一人娘として、基礎は完璧に叩き込まれているはずだ。剣術のような想定外は起きない。
そう思っていた。
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「本日は魔力操作の基礎確認を行う」
ファウルは黒板に魔法陣を書きながら言った。
「各自、魔力を手のひらに集中させ、光球を生成すること。初歩中の初歩だが、その精度で基礎力がわかる」
生徒たちが頷いた。
レオンは手のひらに魔力を集めた。青白い光球が生まれた。安定した、標準的な光球だった。
隣でエルフィーナが同じことをした。
レオンは横目で確認して、視線を戻しかけて、止まった。
もう一度見た。
エルフィーナの手のひらの上に、光球があった。直径は指定通りだった。しかし色が違った。白でも青でも赤でもなく、七色が混ざり合いながら回転していた。
「……姉上」
「何だ」
「その光球、普通じゃないです」
「そうか?」
エルフィーナは光球を見た。特に気にしていない顔だった。
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ファウルが巡回してきた。
一人ずつ確認しながら短評を告げていた。レオンの前で「安定している、合格」と言った。
エルフィーナの前で止まった。
しばらく動かなかった。
「……アルカディア令嬢」
「はい」
「その光球は、自然にそうなっているのか」
「はい」
「意図して七属性を混合しているわけではなく」
「特に意識はしていませんが、これで駄目でしたか」
ファウルは眼鏡を外した。レンズを拭いた。もう一度かけた。光球を見た。
「……七属性全適性か」
「そう言われています」
「魔力総量は」
「計ったことがないのでわかりません」
「計ったことが……」
ファウルは何かを言いかけて、やめた。深呼吸をした。
「放出してみなさい。加減なしで」
「加減なし、ですか。周囲への影響は」
「私が責任を持つ。やってみなさい」
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エルフィーナは少し考えた。
「では、外に向けて」
窓を開けた。中庭の方角に手を向けた。
光球が動いた。
レオンは目を閉じた。
轟音がした。
中庭の石畳に直径三メートルの穴が開いていた。爆発ではなく、魔力の純粋な圧力によって砕かれていた。
教室が静まり返った。
ファウルは窓から中庭を見た。穴を見た。それからエルフィーナを見た。
「……これが加減なしか」
「いいえ、十分の一程度です」
ファウルの眼鏡が滑り落ちた。
拾うのを忘れていた。
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その後の授業は成立しなかった。
ファウルがエルフィーナの魔力を計測することに夢中になり、生徒たちはその様子を呆然と見ていた。計測器が三台壊れた。四台目は辛うじて数値を出したが、ファウルはその数値を見て椅子に座り込んだ。
「……先生、大丈夫ですか」
レオンが声をかけた。
「大丈夫です。少し、驚いているだけです」
「数値はどのくらいでしたか」
「現在の王国魔法師最高位の、およそ四倍です」
教室がざわめいた。
「姉上」
「何だ」
「今の聞こえましたか」
「ああ」
「どう思いますか」
「父上には及ばないな」
レオンは窓の外を見た。中庭の穴がまだそこにあった。
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昼休み、食堂でレオンがスープを飲んでいると、向かいに誰かが座った。
見知らぬ顔だった。
赤茶色の短髪、緑の瞳、そばかすが少し残る快活そうな顔。制服の着こなしが少し雑だった。平民枠の生徒だろうとレオンは見当をつけた。
「アルカディアの人ですよね」
「はい」
「さっきの魔法授業、すごかったですね。あの令嬢、本当に規格外だ」
「……姉です」
「え、あの人が?」
少年は目を丸くした。
「俺、カイ・ヴェルナーといいます。平民枠で入学しました」
「レオン・フォン・アルカディアです」
「貴族なのに気さくですね」
「そう言われます」
カイは食堂の入口を見た。エルフィーナとミレーユが並んで入ってくるところだった。周囲の視線が集まった。いつも通りだった。
「あの令嬢、なんか……」
「なんか?」
「普通じゃないですよね、いい意味で。さっきの魔法もそうだけど、なんか、目が違う」
レオンはカイを見た。
「どういう意味ですか」
「強い人の目、っていうか。うちの親父が元傭兵で、そういう目をしてるんです。戦いを愛してる人の目」
レオンは少し考えた。
「……正確な観察ですね」
「俺、ああいう人に憧れるんですよね」
カイはエルフィーナが席に着くのを見ながら言った。その目が純粋な憧憬だった。
レオンは内心で深く息を吐いた。
また一人、沼に落ちる予感がした。
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エルフィーナはカイに気づいた。
視線が合った。エルフィーナは迷わず立ち上がり、カイのテーブルに来た。
「さっきの魔法授業で前に座っていたな」
「は、はい」
「魔力の流し方が特徴的だった。誰かに習ったか」
「親父に少し。でも我流がほとんどで」
「我流か。筋がいい」
カイの顔が赤くなった。
「あ、ありがとうございます」
「後で魔力操作を見せろ。教えられることがあるかもしれない」
「えっ、いいんですか」
「強くなりたいか」
「なりたいです」
「では来い」
エルフィーナは自分の席に戻った。
カイはしばらく固まっていた。
それからレオンを見た。
「今、俺、令嬢に稽古をつけてもらえることになりましたか」
「なりましたね」
「……すごい人だ」
「ええ」
レオンはスープを飲んだ。
カイはもうエルフィーナしか見ていなかった。
――また増えた。
レオンは静かに思った。
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午後の授業が終わった夕方、剣術場の脇の廊下でシグルトと鉢合わせした。
シグルトは一人だった。護衛を離していた。
「レオン」
「殿下」
「今日の魔法授業の話を聞いた」
「早いですね」
「計測器が三台壊れたとなれば情報が来る」
シグルトは剣術場の方を見た。中でエルフィーナがカイに魔力操作を教えている声が聞こえた。
「エルフィーナは、今も稽古をしているのか」
「新しい生徒に教えているようです」
「……出会ってすぐに」
「姉上はそういう人ですから」
シグルトは少し黙った。
「レオン、一つ聞いていいか」
「はい」
「エルフィーナに贈り物をしたい。何が喜ばれる」
レオンは即答した。
「新しい木刀か、稽古着か、あるいは強い稽古相手の紹介です」
シグルトは目を細めた。
「……本当にそれだけか」
「花や宝飾品は『なぜこれを』となります。食べ物は喜ばれますが、稽古に影響しないものを選ぶ必要があります」
「稽古に影響しない食べ物」
「消化がよくて栄養があるものです」
シグルトはしばらく考えた。その顔が少し遠くなった。
「……なるほど、難しい相手だ」
「はい」
「だが面白い」
レオンは剣術場の扉を見た。中からカイの「すごい、魔力がこんなに変わるんですか」という声と、エルフィーナの「基礎は大事だ」という声が聞こえた。
「殿下」
「何だ」
「姉上に好意を伝えても、友好的な態度として処理される可能性が高いです」
「知っている」
「それでも」
「それでも、だ」
シグルトは静かに歩き出した。その背中を見ながら、レオンは思った。
この人の覚悟は本物だ。そしてその覚悟に対して、姉は今日も「基礎は大事だ」と言いながら稽古をしている。
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夜、食堂でエルフィーナと向かいに座った。
「姉上」
「何だ」
「今日、カイという生徒に稽古をつけていましたね」
「筋がいい。伸びる」
「殿下が贈り物を考えているようですよ」
「そうか」
「嬉しくないですか」
エルフィーナはしばらく考えた。
「何を贈るつもりだ」
「わかりません」
「木刀なら嬉しい」
「……そういう話ではないんですが」
「では何だ」
レオンはパンを千切った。
隣のテーブルでミレーユがエルフィーナのその顔を見て、静かに両手で顔を覆っていた。声は出していなかった。口の動きで読めた。
――だめだ。
レオンは静かに夕食を続けた。
明日も何かが起きる。それだけは確実だった。




