第4話「手合わせ、あるいは王太子の敗北」
剣術授業から二日後の夕刻が来た。
あの日、授業が終わった直後にシグルトがエルフィーナに声をかけた。「明後日の夕刻、剣術場を借りる」という申し出だった。エルフィーナは即座に「楽しみにしています」と答えた。婚約者との約束という意識は薄く、強い相手との稽古という意識だけが顔に出ていた。
その会話が広まるまで半日もかからなかった。
剣術場はすでに人でいっぱいだった。
レオンは入口で状況を確認して、小さく息を吐いた。野次馬が百人はいた。王太子と婚約者の手合わせという情報がどこからか漏れ、気づけばほぼ全校生徒が詰めかけていた。
シグルトの護衛が申し訳なさそうな顔でレオンに頭を下げた。
「止めようとしたんですが」
「わかります」
レオンは剣術場に入った。
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エルフィーナはすでに中央に立っていた。
稽古着に着替えていた。木刀を持って、静かに素振りをしていた。周囲の視線が集まっていたが、本人は気にしていなかった。
シグルトが入ってきた。
こちらも稽古着だった。銀灰色の髪が剣術場の光の中で静かに揺れた。その登場だけで、野次馬の間に緊張が走った。
エルフィーナが素振りを止めた。二人が向かい合った。
「待たせたか」
「いいえ、ちょうどよい頃合いです」
シグルトは周囲を一瞥した。
「観客が多くなってしまった。気になるか」
「なぜ気になるんですか」
シグルトは少し間を置いた。
「……そうか、君はそういう人だったな」
「殿下こそ、よろしいのですか。万が一があれば」
「万が一?」
「私に負けたら、格好がつかないのでは」
周囲がざわめいた。婚約者に向かって言う言葉ではなかった。
しかしシグルトは笑った。内側から出てくる小さな笑いだった。
「負けるつもりはない」
「私もです」
「一つ、条件がある」
エルフィーナが首を傾げた。
「加減をするな」
剣術場が静まり返った。
レオンは思わずシグルトを見た。王太子自ら、加減なしを要求した。グラハムを一本で沈めた相手に、だ。
エルフィーナは少し考えた。
「……殿下が怪我をされた場合、責任を取れませんが」
「俺が望んで言っている」
「では、遠慮なく」
その言葉に、野次馬の空気が変わった。
「始めよう」
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グラハムが審判を買って出た。二人の中央に立ち、短く告げた。
「始め」
動いたのはシグルトだった。
速かった。グラハムとの手合わせで見た踏み込みとは質が違った。純粋な才能と鍛錬が掛け合わさった、天才固有の動きだった。初手から魔力を乗せていた。加減なし、その言葉通りだった。
エルフィーナも変わった。
グラハム相手の時とは違った。あの時は五合で決めた。今は違う。相手の速度、魔力の質、間合いの取り方、全てがグラハムより上だった。エルフィーナの目が変わった。好敵手を見つけた武人の目になった。
打ち合いが始まった。
レオンは息を呑んだ。
これが本物の戦いだと思った。グラハムとの手合わせが「測定」なら、これは「戦」だった。剣と魔法と体術が混ざり合い、剣術場の空気を震わせた。踏み込みのたびに床が鳴り、木刀が交わるたびに火花に似た光が散った。
野次馬の全員が黙っていた。声を出す余裕がなかった。息をするのも忘れている者がいた。
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五合。
十合。
二十合。
グラハム相手に五合で終わった戦いが、まだ続いていた。それだけでシグルトの規格外さが証明されていた。
三十合を超えたあたりで、シグルトがさらに魔力を上げた。速度と膂力が跳ね上がった。これが王太子の本気だと、剣術場全体が理解した。
エルフィーナも応えた。
身体強化魔法の精度が上がった。全身の動きに合わせて、必要な部位に必要なだけ魔力を流す。無駄が一切なかった。二人の動きが人間の域を超え始めた。
レオンは横でミレーユが両手を握り締め、唇を噛んでいるのを見た。
五十合。
六十合。
七十合。
誰も動かなかった。誰も喋らなかった。ただ、二人の戦いだけがそこにあった。
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決着は唐突に来た。
シグルトの踏み込みが僅かに乱れた。疲労ではなかった。エルフィーナが積み重ねた微細な誘導の、最後の一手だった。七十合かけて作った乱れだった。誘いに乗ったシグルトの重心が一瞬だけ前に傾いた。
エルフィーナが動いた。
木刀を捨てた。
シグルトの踏み込みの力を利用して、流して、崩した。気づいた時にはシグルトは床に膝をついており、エルフィーナの手が首筋の寸前で止まっていた。
静止。
沈黙。
誰も声を出さなかった。
王太子が、膝をついていた。
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「……参った」
シグルトの声は静かだった。乱れていなかった。七十合打ち合った後とは思えない落ち着きだった。
エルフィーナは手を引いて、一歩下がった。
「よい手合わせでした、殿下」
「こちらこそ」
シグルトが立ち上がった。膝の埃を払った。それから、エルフィーナを見た。
「もう一本、いいか」
「もちろんです」
「今度は俺も体術を使う」
「では遠慮なく」
野次馬がざわめいた。王太子が負けて、もう一本を申し込んでいた。プライドよりも、強さへの純粋な欲求が勝っていた。
グラハムが採点表に何かを書いていた。審判という立場を忘れて、観察者になっていた。
レオンはその光景を見て、思った。
――この二人、似ている。
強さへの向き合い方が、根本のところで同じだった。加減なしを要求したシグルトも、七十合かけて崩しにいったエルフィーナも、強さに対して真摯だった。
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二本目も、エルフィーナが制した。
三本目も。
四本目で、シグルトがようやくエルフィーナの木刀を弾いた。それだけで野次馬が歓声を上げた。シグルト側の護衛が安堵の顔をした。
エルフィーナは弾かれた木刀を拾い、シグルトを見た。その顔が少しだけ変わっていた。
「殿下、四本目で対応を修正しましたね」
「気づいていたのか」
「はい。三本目と踏み込みの角度が変わっていた。学習が速い」
「……褒めているのか」
「もちろんです。強い相手は貴重です」
シグルトはその言葉を聞いて、また笑った。
今度はもう少し長い笑いだった。
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手合わせが終わった後、シグルトがレオンの隣に立った。
護衛も野次馬も少し離れたところにいた。二人だけになるような場所を、シグルトが自然に作っていた。
「レオン・フォン・アルカディア」
「はい、殿下」
「エルフィーナは、ああいう人間か」
「ああいうとは」
「強さ以外に興味がない」
レオンは少し考えた。
「……強さ、という言葉の定義が、姉上の場合は広いんです。剣だけではなく、魔法も、学問も、人の誠実さも、全部含まれています。ただ、恋愛というカテゴリーが根本的に存在していない」
シグルトは黙って聞いていた。
「殿下の好意も、おそらく友好的な態度として処理されています」
「……そうか」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
シグルトは前を向いた。エルフィーナがグラハムと何か話しているのが見えた。次の稽古の話をしていた。いつも通りだった。
「面白い」
シグルトが静かに言った。
「俺の人生で、初めて手に入らないものに出会った気がする」
レオンはその横顔を見た。
困ったことに、本気だった。完全に、本気だった。
「殿下、一つ申し上げてもいいですか」
「何だ」
「姉上に好意を伝えても、友好的な態度として処理される可能性が高いです。それは恐らく、何度伝えても変わりません」
「……知っている」
「それでも、ですか」
「それでも、だ」
シグルトは静かに歩き出した。
「焦る必要はない。エルフィーナは逃げない。ただそこにいる。ならば俺も、ただそこにいればいい」
その背中を見ながら、レオンは思った。
この人は長期戦を覚悟している。そしてその覚悟は、おそらく正しい。
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夜、レオンは自室で天井を見た。
今日起きたことを整理した。
七十合。加減なしで七十合打ち合えた人間が、この学院に一人いた。シグルトは四本目に一本取った。それだけで護衛が安堵し、野次馬が歓声を上げた。
エルフィーナは今日の手合わせを「よい稽古だった」と言っていた。
それだけだった。
他は全部、視界の外だった。
レオンは目を閉じた。
窓の外から風切り音が聞こえた。
姉はまだ素振りをしていた。
――仕方ない。
明日は魔法の授業がある。何が起きるかは、なんとなく想像がついた。




