第2話「入学式、あるいは八年ぶりの婚約者」
王立アルカディア魔法学院は、王都の北端に建っていた。
石造りの正門をくぐった瞬間、レオンは思わず足を止めた。広大な敷地に、魔法で強化された白い石の建物が連なっていた。中庭には噴水があり、その周囲を新入生とその家族が行き交っていた。どの顔も緊張しているか、興奮しているか、あるいはその両方だった。
エルフィーナだけが、稽古場を探す目をしていた。
「姉上」
「あの棟が剣術場か」
「後でいいと言いました」
「見ておくだけだ」
「……」
レオンはゴドフリーを見た。ゴドフリーは手帳を開いていた。
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入学式は大広間で行われた。
天井まで届く大窓から春の光が差し込み、整然と並んだ椅子に新入生たちが座っていた。総数およそ百五十名。貴族の子弟が大半だが、魔法の才で選ばれた平民の生徒も混じっていた。
エルフィーナが着席した瞬間、周囲の空気が変わった。
レオンは隣に座りながら、それを肌で感じた。視線が集まっていた。男女問わず、気づいた者から順番に目を向けてくる。それはエルフィーナの外見への反応であり、アルカディアという名への反応でもあった。
エルフィーナは気づいていなかった。
正確には、気づいているが興味がなかった。前を向いたまま、微動だにしなかった。その姿勢が完璧すぎて、かえって視線を集めていた。
「姉上、見られてますよ」
「式典だからな」
「そういう意味じゃないです」
「では何だ」
「……なんでもないです」
レオンは前を向いた。
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来賓の入場が始まった。
学院長、各科の主任教官、そして――
大広間がざわめいた。
王太子シグルト・フォン・ヴァレンティアが入場した。
十四歳になった彼は、六歳の時と同じ銀灰色の髪を持ち、同じく完璧な所作で歩いていた。ただし背が伸び、纏う空気が変わっていた。天才と呼ばれる者の静けさ、というものがあるとすれば、あれがそれだとレオンは思った。
シグルトが来賓席に着いた。
その瞬間、視線がエルフィーナに向いた。婚約者であることは貴族社会では周知の事実だ。どんな反応をするかと、全員が固唾を呑んで見ていた。
エルフィーナは、シグルトを見た。
シグルトも、エルフィーナを見た。
八年ぶりだった。
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レオンはその瞬間を、横から観察していた。
シグルトの表情が、ほんの一瞬だけ動いた。完璧な公の顔に、微かな亀裂が走った。それは驚きではなく、何か別のものだった。確認、とでも言うべき目だった。
――ああ、やはり本物だ。
そう言っているような目だった。
エルフィーナはどうだったか。
レオンは姉を見た。
エルフィーナは小さく頷いた。挨拶の代わりのように。それだけだった。
レオンは額に手を当てた。
八年ぶりの婚約者との再会が、頷き一つで終わった。
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式典が終わり、歓談の時間になった。
エルフィーナが立ち上がった瞬間、周囲の生徒たちが道を開けた。意図したわけではない。自然にそうなった。
レオンが後ろをついて歩いていると、前方から人影が近づいてきた。
シグルトだった。
護衛を二歩後ろに下げ、一人で歩いてきた。大広間の視線が全部そこに集まった。
エルフィーナが足を止めた。
二人が向かい合った。
沈黙が三秒あった。
「久しぶりだな、エルフィーナ」
シグルトが先に口を開いた。声は静かで、しかし広間によく通った。
「ええ、殿下。八年ぶりですね」
エルフィーナの返答は完璧だった。礼儀も、声の出し方も、何一つ問題なかった。
問題は次の言葉だった。
「殿下は、剣が上達しましたか」
広間が静まり返った。
レオンは目を閉じた。
八年越しの再会で、婚約者に言う第一声がそれか、という話だった。
しかしシグルトは表情を崩さなかった。崩さなかったが、その目の奥に何かが灯った。
「ああ、多少は」
「では、いつか手合わせをお願いします。六歳の時にそう申し上げたはずです」
「……覚えていたのか」
「約束は覚えています」
シグルトはしばらく、エルフィーナを見ていた。
それから、初めて笑った。完璧な社交の笑みではなく、もっと内側から出てきたような、小さな笑いだった。
「喜んで」
その一言だった。
周囲がまたざわめいた。王太子が笑った、という事実への反応だった。レオンの隣で誰かが「初めて見た」と囁いた。
エルフィーナはその笑みの意味を、特に考えていないようだった。
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歓談の時間の後半、ミレーユが駆け寄ってきた。
「エルフィーナ様っ」
完璧な令嬢の仮面が、エルフィーナの顔を見た瞬間に崩れた。亜麻色の巻き毛が揺れた。
「ミレーユか。元気そうだな」
「エルフィーナ様こそ……相変わらずお美しくて、もう」
「そうか。ミレーユも強くなったか」
「稽古は続けていました。見ていただけますか」
「ああ、後でな」
ミレーユの顔が輝いた。
レオンはその横顔を見て、ミレーユのエルフィーナへの感情が八年で何も変わっていないことを確認した。
変わっていないどころか、深まっていた。
そしてその感情の名前に、ミレーユ本人はまだ気づいていないようだった。
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夕刻、寮への移動前にレオンはエルフィーナと中庭のベンチに座っていた。
「姉上」
「何だ」
「今日、殿下にお会いして、どう思いましたか」
エルフィーナは少し考えた。
「強そうだった」
「……それだけですか」
「あと、雰囲気が変わった。六歳の時より落ち着いていた」
「婚約者として、ですよ。何か感じませんでしたか」
エルフィーナはレオンを見た。真剣に考えている顔だった。
「……信頼できそうだ」
「それは」
「背筋がいい。重心も安定している。鍛えている」
「武術の話ですか」
「他に何がある」
レオンは空を見た。夕暮れの空が赤かった。
一方そのころ、シグルトは護衛に向かってこう言ったとレオンが知るのはずっと後のことだ。
――エルフィーナ・フォン・アルカディアの情報を集めろ。八年前と何も変わっていない。いや、もっとひどくなっている。
護衛は「何がですか」と聞いた。
シグルトは少し間を置いて答えた。
――俺が、どうにかなりそうだということが。
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夜、寮の自室でレオンは天井を見つめた。
今日一日で起きたことを整理した。
姉は剣術場を真っ先に確認した。婚約者との八年ぶりの再会を頷き一つで済ませた。第一声が「剣は上達しましたか」だった。ミレーユとは稽古の話をした。夕方のベンチで婚約者の感想を聞いたら「背筋がいい」だった。
全部、想定内だった。
レオンは目を閉じた。
――仕方ない。
明日からも色々と仕方なくなるのだろうと思いながら、レオンは眠った。




